マラッカ包囲戦 (1568年)
1568年のマラッカ包囲戦(マラッカほういせん、英語: Siege of Malacca)は、アチェ王国のスルタンアラーウッディーン・アル=カハールによるポルトガル領マラッカへの攻撃。
マラッカ包囲戦 | |||||||
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ポルトガルの要塞とマラッカ市(1630年) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ポルトガル王国 ジョホール王国 |
アチェ王国 カリニャマット王国 オスマン帝国 | ||||||
指揮官 | |||||||
レオニス・ペレイラ | アラーウッディーン・アル=カハール | ||||||
戦力 | |||||||
不明 |
1万5千人[1] オスマン砲兵400人[1] 船300隻[1] 大砲200門[1] |
背景
編集マラッカは1511年のアフォンソ・デ・アルブケルケによる征服以降、ポルトガルの拠点となっていた[2][3]。
経過
編集マラッカから遠く西にあるオスマン帝国も砲兵の援軍をアチェに送ったが、キプロス侵攻とアデンの反乱鎮圧を同時進行で戦わなければならなかったため大規模な援軍は派遣できなかった[4]。
アラーウッディーンの軍には1万5千の歩兵、オスマン商人、そしてガレー船の大艦隊が含まれていた[2][3][5][6][7]。マラッカ市はドン・レオニス・ペレイラおよび彼を支持したジョホール王国の援軍の奮戦により侵攻から守られた[2]。しかし、アチェ王国によるマラッカ攻撃はそれ以降も続き、1570年には早くも再び包囲された[2]。
その後
編集このマラッカへの攻撃はポルトガル王国を弱体化させた。1570年代、モルッカのスルタンたちはポルトガル人を香料諸島から追い出した[4]。
ポルトガル・ジョホール・アチェの3者はその後も和戦を繰り返したが、マラッカは1641年にオランダとジョホールが連合して同地を占領する(マラッカ包囲戦 (1641年))までポルトガルの支配下にありつづけた[8]。
関連項目
編集
脚注
編集- ^ a b c d Crusaders in the Far East Charles Truxillo p.66
- ^ a b c d "In 1568 Sultan Alaal-Din of Acheh assembled a huge fleet, with 15000 troops and Turkish mercenaries, and besieged Malacca. Aided by Johore, Dom Leonis Pereira drove off the siege, but Achinese attacks continued for many years." in Dictionary of Battles and Sieges by Tony Jaques [1] p.620
- ^ a b Of fortresses and galleys Pierre-Yves Mandrin
- ^ a b c By the sword and the cross Charles A. Truxillo p.59
- ^ Tony Jaques (1 January 2007). Dictionary of Battles and Sieges: F-O. Greenwood Publishing Group. pp. 620–. ISBN 978-0-313-33538-9
- ^ J. M. Barwise; Nicholas J. White (2002). A Traveller's History of Southeast Asia. Interlink Books. pp. 110–. ISBN 978-1-56656-439-7
- ^ Merle Calvin Ricklefs (2001). A History of Modern Indonesia Since C. 1200. Stanford University Press. pp. 36–. ISBN 978-0-8047-4480-5
- ^ Borschberg (2010) pp. 97-100.
参考文献
編集- Borschberg, Peter (2010). “Ethnicity, language and culture in Melaka during the transition from Portuguese to Dutch rule”. Journal of the Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society 83 (2): 93–117.