マタパン岬沖海戦

第二次世界大戦中の海戦

マタパン岬沖海戦[2][3](マタパンみさきおきかいせん、: Battle of Cape Matapan, : Battaglia di Capo Matapan)は、第二次世界大戦中のギリシャ・イタリア戦争において、1941年(昭和16年)3月下旬に地中海イギリス海軍及びオーストラリア海軍を基幹とする連合国軍と、イタリア王立海軍 (Regia Marina) の間で行われた海戦[4]地中海攻防戦[注釈 4]

マタパン岬沖海戦

軽巡洋艦パース、エイジャックス、オライオン
戦争第二次世界大戦
年月日1941年3月27日-3月29日
場所地中海ギリシャマタパン岬
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
イギリス海軍 オーストラリア海軍  イタリア海軍
指導者・指揮官
アンドルー・カニンガム
ヘンリー・プリダム・ウィッペル
アンジェロ・イアキーノ
カルロ・カッタネオ 
ルイージ・サンソネッチ
アントニオ・レグナーニ
戦力
空母1、戦艦3、軽巡洋艦3、駆逐艦17、基地航空隊[注釈 1] 戦艦1、重巡洋艦6、軽巡洋艦2、駆逐艦17
損害
軽巡1損傷軽微[注釈 2]
雷撃機1機[注釈 3]
重巡洋艦3、駆逐艦2沈没、戦艦1大破
戦死約2,300名、捕虜約1,100名
地中海の戦い

ギリシャアレクサンドリア間で運行されていた連合国輸送船団を撃滅するためイタリア艦隊が出撃し[6]、これを英連邦の各艦で編成された地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) が迎撃した[7]艦隊航空隊雷撃機アルバコアソードフィッシュ)によりイタリア新鋭戦艦ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) と重巡洋艦1隻が大破、さらに地中海艦隊の追撃によりイタリア側の損害が拡大する[8]夜戦ザラ級重巡洋艦3隻と駆逐艦2隻が沈没し、多数の将兵が戦死[注釈 5]。 イギリス海軍は地中海戦線の優勢を固めるとともに[注釈 6]戦艦に対する航空母艦の優位性を内外に示すことになった[11]

背景

編集

1940年(昭和15年)10月28日イタリア王国アルバニアからギリシャへの侵攻を開始した[12]ギリシャ・イタリア戦争[13]。だがイタリア軍はギリシャ軍に撃退され[14]、逆にアルバニアへ侵攻された[15]ソビエト連邦への侵攻を立案中のナチス・ドイツは、ギリシャ戦開始時より情勢に憂慮していた[16]。そしてイタリア軍の敗走と連合国軍の逆侵攻を放置できず、武力を背景にした外交で枢軸国への強制参加を着々と進め、1941年(昭和16年)3月1日ブルガリアが、3月25日にはユーゴスラヴィアが枢軸国に加わった。そして、バルバロッサ作戦を控えたドイツ軍はイギリス軍の脅威を排除するため、ギリシャ侵攻を予定していた[17]

イタリア王立海軍はイタリア半島南部のターラント主力艦を集結させて存在感を示したが(現存艦隊主義)、11月12日深夜から13日未明にかけて地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) 所属の装甲空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) に奇襲される[14]。旧式の艦上攻撃機により[18]、イタリア戦艦3隻が戦闘不能となった[19]タラント空襲[20][注釈 7]

イタリア王立空軍 (Regia Aeronautica) も地中海の制空権を握っておらず、同盟国を支援するためドイツ空軍 (Luftwaffe) が助っ人として地中海戦域に登場した[22][23]。 1941年(昭和16年)1月10日、第10航空兵団英語版ドイツ語版Ju-87 スツーカ (Junkers Ju 87 Stuka) はMC4作戦(エクセス作戦)に従事中のイギリス地中海艦隊を攻撃し[24]、イラストリアスを撃破して戦線離脱に追い込んだ[25][26]。イラストリアスに配備されていた艦隊航空隊のうち、第815海軍飛行隊などがクレタ島に配置転換された[注釈 8][注釈 9]

同年2月14日、イタリア海軍のアルトゥーロ・リッカルディ海軍参謀長英語版イタリア語版と、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) のエーリヒ・レーダー元帥がミラノで会談を行った。ドイツ側は、エジプト・ギリシャ間の補給路(イギリス地中海艦隊の輸送船団)をイタリア艦隊で阻止するよう求めたが、イタリア側は反対した[28]

イギリス海軍は大破したイラストリアスの代艦として[29]姉妹艦フォーミダブル (HMS Formidable, R67) を地中海艦隊に配備した[30]。戦力を再編すると同時に、2月25日にはドデカネス諸島カステロリゾ島占領を試み(アブステンション作戦)、3月には北アフリカ戦線からギリシャ戦線への陸軍部隊の移送(ラスター作戦)を開始した[31]。このようなイギリス軍の動きもあり、ドイツや作戦実行を求めていたアンジェロ・イアキーノ中将[注釈 10]などの圧力もあって、イタリア海軍総司令部英語版イタリア語版は作戦実行を決定した[注釈 11]。アレクサンドリアにて英戦艦2隻が損傷中などの誤情報もあり、3月26日にイアキーノ提督が率いるイタリア艦隊はイタリア各地から出撃、洋上で集結した[28][注釈 12]

イタリア艦隊は、イアキーノ提督(旗艦ヴェネト)直率の主力部隊(戦艦ヴィットリオ・ヴェネトと随伴駆逐艦、ルイージ・サンソネッチ提督〈重巡トレントトリエステボルツァーノ、駆逐艦部隊〉)、カルロ・カッタネオ上級少将の偵察艦隊(カッタネオ提督〈重巡ザラフィウメポーラ、駆逐艦部隊〉、アントニオ・レグナーニ英語版イタリア語版提督〈軽巡ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィジュゼッペ・ガリバルディ、駆逐艦部隊〉)に分割されていた[33]

経過

編集

戦闘前

編集

3月26日未明、クレタ島北岸のスダ湾ドイツ語版イタリア語版に停泊していた連合軍艦隊に、イタリア王立海軍の特別攻撃艇英語版イタリア語版特殊作戦を決行[注釈 4]、タンカー1隻と英重巡洋艦ヨーク (HMS York, 90) を航行不能とした(スダ湾襲撃)。

イギリス軍は通信傍受や暗号解読などにより、イタリア王立海軍による船団攻撃を予期した[32]。航行中であったAG9船団(エジプトからギリシャへ向かう船団)は引き返させ[注釈 13]3月27日にギリシャから出発予定であったGA8船団 (GA 8 convoy) はギリシャに留め置いた[注釈 14]ショート サンダーランド飛行艇が進撃中のイタリア艦隊を発見したので、イギリス側も対応策を講じる[28]。 同27日夕方以降、アレクサンドリアからアンドルー・カニンガム提督率いるイギリス地中海艦隊が出撃した[28][注釈 15]。さらに、エーゲ海で行動中であったウィッペル中将指揮下の巡洋艦部隊(Force B)にも地中海艦隊本隊(A部隊)への合流が命じられた[34]

 

最初の戦闘

編集

3月28日払暁、イギリス海軍のA部隊(Force A)所属の空母フォーミダブル (HMS Formidable, R67) より、艦上攻撃機アルバコアソードフィッシュ)が偵察に向かった[35]。アルバコアはイタリア巡洋艦部隊の存在を掴んだ[28]。 イタリア側も、旗艦ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) からIMAM Ro.43英語版イタリア語版水上機が発進して偵察を実施、連合国軍巡洋艦部隊を発見した。3つに分かれていたイタリア艦隊の一つ、第3戦隊司令官ルイージ・サンソネッチ英語版イタリア語版上級少将[注釈 16]が指揮する巡洋艦部隊(重巡洋艦トリエステトレントボルツァーノ、駆逐艦3隻)がイギリス巡洋艦部隊の攻撃にむかった。

クレタ島の南方海面で最初に直接砲火を交えたのは、ウィッペル提督(旗艦オライオン)のB部隊 (Force B) すなわち連合国軍巡洋艦部隊と[注釈 17]、サンソネッチ提督の巡洋艦部隊であった[36]。8時12分、イタリア重巡洋艦(トリエステ、トレント、ボルツァーノ)が距離23,000メートル前後で砲撃を開始した[36]。B部隊はクイーン・エリザベス級戦艦が戦場に到着するまでの時間を稼ぐため距離をとろうとし、イタリア重巡部隊はそれを追撃した[36]。イギリス軍の動きを罠と考えたイアキーノ提督は8時55分にサンソネッチに対し追跡を中止するよう命じた。そのため、サンソネッチ部隊は北西に向かい戦闘は中断した[36]。この戦闘では両軍とも命中弾は得られなかった。

北西に向かったサンソネッチの部隊を追跡したB部隊は、イアキーノ提督が座乗する戦艦ヴィットリオ・ヴェネトと遭遇した[37]。10時55分、旗艦ヴィットリオ・ヴェネトは距離27,000メートル前後で砲撃を開始した[37]。また、サンソネッチ部隊も攻撃のため向きを変えたが、B部隊は南へ逃走した。ヴィットリオ・ヴェネトが航空攻撃を受けたことで戦闘は停止した。ヴィットリオ・ヴェネトの砲撃はB部隊旗艦オライオン (HMS Orion, 85) に挟夾となり、機関故障を起こした軽巡グロスター (HMS Gloucester, C62) や掩護の駆逐艦ヘイスティ (HMS Hasty, H24) などが危機に陥ったが、結局、命中弾は出なかった[1]

A部隊(本隊)では「新手のイタリア巡洋艦部隊接近」の偵察報告をうけて、B部隊を救うためフォーミダブルよりフルマー戦闘機2機とアルバコア雷撃機6機が発進した[38]。1時間ほど飛行して戦場に到着すると、英連邦巡洋艦がヴィットリオ・ヴェネトにより窮地に追い込まれていたので、さっそくイタリア新鋭戦艦を攻撃する[38]。11時27分、フォーミダブル第一次攻撃隊はイタリア新鋭戦艦に対して攻撃を開始した[38]。さらにイタリア艦隊の上空にいたJu 88 2機のうち、1機が英戦闘機フルマーに撃墜されている[38]。ヴィットリオ・ヴェネトに向けて発射された魚雷はすべて外れたが、敵空母の存在が明らかとなったことで11時40分にイアキーノ提督は撤退を決めた[1]。フォーミダブル第一次攻撃隊は戦果こそなかったが、味方巡洋艦部隊の危機を救ったのである[39]

またロドス島より発進したイタリア空軍のSM.79雷撃機 2機がフォーミダブルを襲撃したが、回避されている[1]

イギリス軍の航空攻撃

編集
 
空母フォーミダブルを含むイギリス艦隊。

イギリス地中海艦隊は、イタリア半島にむけて撤退するイタリア艦隊を追撃した[40]。イギリス側は航空攻撃でイタリア艦隊(特に戦艦ヴェネト)に損害を与えて速度を落とさせることを企図した[40]

12時5分、クレタ島マレメから発進したソードフィッシュ3機がイタリア重巡洋艦ボルツァーノ (Bolzano) を攻撃したが失敗に終わった[注釈 18]。15時20分、フォーミダブルから発進した第二次攻撃隊(アルバコア3機、ソードフィッシュ2機、フルマー2機)がイタリア艦隊を襲撃する[39]。偶然にもギリシャから飛来したイギリス空軍 (Royal Air Force) のブレニム双発爆撃機がイタリア艦隊を攻撃しており、イタリア側の注意が分散した[39]。アルバコア3機による攻撃がおこなわれ、ヴィットリオ・ヴェネトの左舷に魚雷1本が命中した[39]。左舷側の推進器軸を破壊されたヴィットリオは、一時的に航行不能となる[41]。イギリス側は第829海軍飛行隊のアルバコア1機(飛行隊長ダニエル・ステッド少佐)が撃墜された[41]

もしヴィットリオ・ヴェネトがこのまま動けなくなったら、ライン演習作戦で舵を破壊されたドイツ戦艦ビスマルク (Bismarck) と同じ運命を辿った筈である[注釈 19]。だがヴェネトは奇跡的に応急修理に成功し、18ノット程度を出せるようになった[41]。イアキーノ提督は旗艦ヴェネトの周辺に重巡洋艦と駆逐艦を配置し、輪形陣となって退却を再開する[41]。19時30分頃、フォーミダブル第三次攻撃隊(アルバコア6機、ソードフィッシュ2機)と、クレタ島マレメから発進したソードフィッシュ2機がイタリア艦隊輪形陣を捕捉、夜間雷撃を敢行する[41]。探照灯の妨害や、対空砲火や煙幕をくぐりぬけ、19時58分に重巡洋艦ポーラ (Pola) に魚雷1本が命中した[44]。ポーラは航行不能になった[45]

イギリス地中海艦隊主力(A部隊)の位置を知らなかったイアキーノ提督は、偵察機の報告(旗艦ヴェネトより後方約130キロメートル)と、陸上基地からの情報(旗艦ヴェネトより後方約300キロメートル)を比較して、後者を信用した[44]。20時48分、イアキーノ提督は第1巡洋艦戦隊司令官カルロ・カッタネオ英語版イタリア語版上級少将に対し、損傷したポーラの援護に向かうように命じた[45]。ザラに将旗を掲げるカッタネオ提督は直率の重巡洋艦ザラ (Zara) 、フィウメ (Fiume) 、駆逐艦4隻(アルフィエーリカルデッシオリアーニギオベルティ)を率いてヴェネト輪形陣から分離し、反転してポーラの元へ向かった[45]

夜間の戦闘

編集

20時15分、先行していたB部隊の巡洋艦がレーダーで重巡洋艦ポーラを探知した。22時10分には戦艦ヴァリアント[注釈 20]のレーダーもそれを捉えた。続いてポーラ救援のため接近中のカッタネオ部隊などを捉えた[46]。A部隊の大型艦は単縦陣を形勢しており、空母フォーミダブルが分離したのち、砲撃戦の準備をおこなう。

22時27分、戦艦ウォースパイト(カニンガム提督旗艦)が重巡洋艦フィウメに対して砲火を開いた。イギリス戦艦3隻(ウォースパイト、ヴァリアント、バーラム)の砲撃を受けたイタリア側3隻(フィウメ、ザラ、ヴィットーリオ・アルフィエーリ)は短時間で大破炎上した[47]

フィウメは23時頃に沈没した。ザラも、第14駆逐艦隊 (14th Destroyer Flotilla) の英駆逐艦ジャーヴィス (駆逐隊司令フィリップ・マック大佐)に魚雷を打ち込まれて3月29日2時40分に沈んだ[47]。カッタネオ提督はザラ沈没時に戦死した。イタリア駆逐艦ヴィットリーオ・アルフィエーリ (Vittorio Alfieri) は23時15分に豪州海軍駆逐艦スチュアート (HMAS Stuart) などによって沈められた[47]

また、イタリア駆逐艦ジョズエ・カルドゥッチ (Giosuè Carducci) も英駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) などの攻撃で沈没した[47]。そして、重巡洋艦ポーラも乗員の救助後に英駆逐艦(ジャーヴィス、ヌビアン)が魚雷を打ち込み、29日4時10分に沈没した[48]。 カニンガム提督(旗艦ウォースパイト)はイタリア艦の沈没地点を敵側に連絡したので、イタリア側は病院船グラディスカ (Gradisca) を派遣して救助をおこなった[48]

参加艦艇

編集

イギリス海軍

編集

地中海艦隊(A部隊、B部隊、D部隊)

輸送船団

  • AG 9 convoy(アレキサンドリア発、ギリシャ行き)
  • GA 8 convoy (ギリシャ発、アレクサンドリア行き)

イタリア海軍

編集

本隊(総指揮官:アンジェロ・イアッキーノ中将)

偵察艦隊(カルロ・カッタネオ上級少将)

その後

編集

マタパン岬沖海戦は、新鋭高速戦艦1隻が大破し、ザラ級重巡洋艦3隻と駆逐艦2隻をうしなったイタリア王立海軍の大敗北であった[48][49]。本海戦の結果、イタリア海軍内部では、艦隊保全主義の考えがいっそう強くなり、もっぱら本国周辺で活動するようになった[50]。東地中海で、イギリス海軍の制海権に対抗するものは、ドイツ空軍だけという状況になった[注釈 6]

本海戦でほとんど損害をうけなかったイギリス海軍だが[48]、間もなく試練が訪れる。連合国軍は4月下旬にギリシャからの撤退を余儀なくされ(第二次世界大戦時のギリシャ[51]、5月下旬のクレタ島攻防戦で陸軍・海軍とも大損害を受ける[52][53]。マタパン岬沖海戦で連合国勝利の立役者となった戦艦ウォースパイトや空母フォーミダブルも、スツーカの急降下爆撃で大破し、戦線を離脱した[54][55]

連合軍の勝因

編集

イギリス海軍は、あらためて航空母艦の有用性を証明した[56]。本海戦において、地中海艦隊の空母フォーミダブル (HMS Formidable, R67) および同艦の攻撃隊により、イタリア王立海軍は大打撃を蒙る[57]。最新鋭のヴィットリオ・ヴェネト級戦艦リットリオ級戦艦)ですら、航空母艦にその地位を脅かされた[注釈 21]。またイラストリアス級航空母艦を含めイギリス海軍の空母は、日本海軍アメリカ海軍の大型空母と比較して搭載機数が少なく[59]艦上機の性能でも見劣りした[60]。それでもイギリス海軍の艦隊航空隊は旧式機を活用して、地中海でイタリア艦隊を相手に効果的な攻撃を行った[61]

イタリア王立海軍は、1940年(昭和15年)7月のカラブリア沖海戦で空母イーグル (HMS Eagle) に悩まされ、同年11月のタラント空襲では空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) によって大損害をうける[49]。そして本海戦で決定的敗北を喫し、空母の重要性を思い知らされた[49]。さらに味方のイタリア王立空軍が「艦隊の支援には何の役にも立たない」という事に気づき、ドイツ海軍がグラーフ・ツェッペリン級航空母艦の建造を再開したこともあり、空母の建造を決意した[62]。そして大型商船改造空母アクィラ (Aquila) [63]スパルヴィエロ (Sparviero) の建造を急ぐ[64][65]。だが、2隻ともイタリアの降伏までに完成しなかった[66]

またイギリス海軍のレーダーも、勝敗を大きく左右した[67]夜戦において海戦の勝敗を分けたのはレーダー装備の有無、その性能差によるところが大きい[68]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ クレタ島に臨時配備されていた第815海軍飛行隊(イラストリアス)など。
  2. ^ イタリア戦艦の砲撃が至近弾となった軽巡オライオン (HMS Orion, 85) [1]
  3. ^ 第829海軍航空隊(フォーミダブル)の所属機。
  4. ^ a b 第二五、クリート島爭奪戰[5](中略)ギリシヤが未だ余喘を保つてゐた三月の末頃イギリス地中海艦隊はクリート島スダ灣を根城として暴威を振つてゐた。三月廿六日、イタリー艦隊は夜陰に乗じてスダ灣に奇襲を試み碇泊地中のイギリス艦隊に砲撃を加へ一隻を撃沈したと公表してゐるが、これは廿八日夜の遭遇戰の前哨戦であつた。
     夜襲とは小癪なとイギリス艦隊も腹を立て奮然攻撃に出たものと解される。イタリーの發表では、この海戰で「中型巡洋艦三隻、驅逐艦二隻、合計五隻を失つたが、敵方の大型巡洋艦一隻の側に大型砲彈を命中せしめて撃沈し、外他の二隻にも大損害を與へた」と言つてゐる。これに對してイギリスは「廿八日の海戰においてイタリーのリツトリオ級主力艦(三五,〇〇〇トン)一隻に損害を與へ、巡洋艦二隻に致命的打撃を與へた」と公表してゐる。夜の海戰の事であるから戰果について的確な數字を擧げ得ないのは當然であらうが、彼此綜合して見るとイタリーの巡洋艦三隻は大損害を受けて基地に歸る途中沈没したものであらう。乗組員の多數が救助されたと發表してゐるのはそのためだと思はれる。イギリスは自國艦隊の損害沈没については一切口を緘してゐるし、海戰の模様に就いても何も語つてゐないが、これだけの犠牲を出したのであるから相當大掛りな海戰で、激闘が交へられた事は想像に難くない。
  5. ^ 重巡3隻(ザラフィウメポーラ)と駆逐艦2隻(ヴィットリーオ・アルフィエーリジョズエ・カルドゥッチ)が沈没した[9]
  6. ^ a b 第二六、獨伊空軍の英艦隊急襲[10] 此頃ドイツは英本土の空襲を間斷なく繼續しながらも、空軍に綽々たる余裕をもち、地中海、北阿作戰におけるイタリー危しと見て救援に馳せ向つたのである。これに氣を得たイタリー空軍もドイツ空軍と協力して隋所にイギリス艦隊を空爆してゐる。廿八日エーゲ海においてイタリー空軍はイギリスの護送船團、艦隊並に碇泊中の船舶を強襲し、航空母艦一隻及び巡洋艦二隻に猛爆を加へ、内巡洋艦一隻を撃沈した。廿九日にはドイツ空軍がマルタ島のハルフア飛行場を爆撃してゐるし、東地中海では獨伊共同でイギリス艦隊に猛攻を加へ、イタリーの雷撃機は巡洋艦一隻に魚雷を命中せしめ、爆撃機も航空母艦一隻に爆彈三個を命中せしめた。防禦の手薄な航空母艦のことであるから損傷は大きかつたであらう。
     以上の如く地中海の海上では空海入亂れての激戰が續けられたが、卅日に至つてまたもや東地中海で伊英の海戰が表はれた。イギリスはこの海戰の戰果を次の如く數字を擧げて詳細に公表してゐる、「英軍は伊巡洋艦フィウメ、ポラ、ザラ(各一萬トン、八吋砲八門搭載、一九三〇-三一年完成)の三隻並に驅逐艦ヴインチンツオ・ジョベルチ(一,七三九トン、一九三六年完成) マエストラーレ(一,四四九トン、一九三四年完成)の二隻を撃沈した」と、これに對してイタリーは乙級巡洋艦ジオヴアンニ・デレ・バンデ・ネーレ號(五,〇六九トン、一九三一年竣工)を撃沈したものと推定されるとのイギリスの發表を全然否定し、クリート島附近のイギリス艦隊の損傷をイギリス海軍省が如何に發表するか深甚なる注意を以て期待すると公表してゐる。
     お互に駈引もあらう、逆宣傳もあらうから公表の何割かを割引して受取らねば大勢を見誤る惧れはあるが、地中海における伊英艦隊の爭覇戰は、イタリーがイギリス艦隊に與へた打撃の代償としては寧ろ大きに過ぎる犠牲を拂ひ、イタリーは艦隊だけで決戰するに足る比率を割つてしまつたといふ感が深く、地中海の制海権は依然としてイギリスの手中に存すると言つても強ち正鵠を失した見方ではあるまいと思ふ。/ ここに於てかイタリーはドイツと協力して、空軍及び潜水艦によるイギリス艦隊撃攘の作戰をとるに至つたのである。勿論小競はあつた。それは四月十六日トリポリ近海の海戰の如く双方驅逐艦を失つた程度のものであつた。
  7. ^ 大破着底3隻(リットリオカイオ・ドゥイリオコンテ・ディ・カブール)、健在3隻(ヴィットリオ・ヴェネトジュリオ・チェザーレアンドレア・ドーリア[21]
  8. ^ イラストリアスの第824海軍飛行隊は空母イーグル (HMS Eagle) と陸上基地に配置転換し、第819海軍飛行隊は第815海軍飛行隊に統合された。
  9. ^ 1941年3月8日にアメリカ合衆国レンドリース法が成立し、イギリス海軍の艦艇はアメリカで修理が可能となる[27]。その適用例第1号がイラストリアスになった[27]
  10. ^ 中将(Ammiraglio di squadra)。英訳はSquadron Vice Admiral。フランス語のVice-amiral d'escadreより転じて。
  11. ^ ドイツ側は、第10航空軍団がイタリア海軍の直上支援を実施するし、1941年2月のイギリス軍H部隊によるジェノバ砲撃グロッグ作戦)に一矢報いるチャンスだと吹き込んだ[32]
  12. ^ 旗艦ヴェネトの護衛は第10駆逐隊(マエストラーレグレカーレリベッチオシロッコ)だったが、出港後に第13駆逐隊(グラナティーレ、フチニエーレ、ベルサリエーレ、アルピーノ)へ交代したという。
  13. ^ 軽巡2隻(カルカッタカーライル)や駆逐艦(ディフェンダージャガーヴァンパイア)が護衛していた。
  14. ^ 軽巡ボナヴェンチャー (HMS Bonaventure, 31) や駆逐艦(デコイジュノー)などが護衛していた。
  15. ^ この時点でのイギリス地中海艦隊は、クイーン・エリザベス級戦艦3隻(ウォースパイトヴァリアントバーラム)と空母フォーミダブルを基幹としていた[34]
  16. ^ 上級少将(Ammiraglio di divisione)。英訳はvice admiral。ただし、職席は戦隊司令官に限定される。
  17. ^ B部隊:軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) 、エイジャックス (HMS Ajax) 、グロスター (HMS Gloucester, C62) 、パース (HMAS Perth, D29) 、駆逐艦4隻(ヘイスティヘレワードアイレクスヴェンデッタ)。
  18. ^ 大破したイラストリアスから降りた第815海軍飛行隊がクレタ島に配備されていた。
  19. ^ ビスマルクの舵を破壊したのは、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) から発進した第810海軍飛行隊第818海軍飛行隊のソードフィッシュから放たれた魚雷であった[42][43]
  20. ^ ヴァリアントには、フィリップ王子(のちのエリザベス2世王配)が海軍士官として勤務していた。
  21. ^ ただし、攻撃隊に戦闘機を付随させる必要や、防御側に空母や戦闘機がいた場合の対処については、深く認識しなかったようである[58]

出典

編集
  1. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 32.
  2. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、262ページ
  3. ^ 『世界の艦船 増刊第41集 イタリア戦艦史』海人社、1994年、126ページ
  4. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 71b-72三、一九四一年三月二十八日のマタパン岬沖海戦
  5. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 129–130原本235-237頁
  6. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 25.
  7. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 98a-103マタパン岬沖海戦
  8. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 101.
  9. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 112–123第二期/一九四一年一月~六月の年表 A.イタリア海軍の艦艇の損失
  10. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 130–131原本237-239頁
  11. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 85a-92マタパン岬沖海戦
  12. ^ 呪われた海 1973, p. 229.
  13. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 38–39(五)ギリシャ侵攻
  14. ^ a b ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, pp. 305–306.
  15. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 86–89イタリアのギリシャ侵攻
  16. ^ ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, pp. 302–304.
  17. ^ ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, pp. 315–317.
  18. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 68–72英空母機、タラント軍港を奇襲
  19. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 71a二、一九四〇年十一月十一日~十二日のタラント港夜間攻撃
  20. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 82–86タラント夜襲
  21. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 242–247(1)タラント港奇襲
  22. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 97.
  23. ^ ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, p. 318.
  24. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 80.
  25. ^ 呪われた海 1973, p. 231.
  26. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 82–85袋だたきの英空母
  27. ^ a b ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, p. 369.
  28. ^ a b c d e マッキンタイヤー、空母 1985, p. 86.
  29. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 98b.
  30. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 85b.
  31. ^ ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, pp. 319–320.
  32. ^ a b ビーヴァ―、第二次世界大戦(上) 2015, pp. 322–323.
  33. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 26–27.
  34. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 28.
  35. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 29.
  36. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 30.
  37. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 31.
  38. ^ a b c d マッキンタイヤー、空母 1985, p. 87.
  39. ^ a b c d マッキンタイヤー、空母 1985, p. 88.
  40. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 33.
  41. ^ a b c d e マッキンタイヤー、空母 1985, p. 89.
  42. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 92.
  43. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 121–127英雷撃機の殊勲
  44. ^ a b マッキンタイヤー、空母 1985, p. 90.
  45. ^ a b c ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 35.
  46. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 36.
  47. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 37.
  48. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 38.
  49. ^ a b c 大内、幻の航空母艦 2006, pp. 117–118.
  50. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 103.
  51. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 105–110ギリシャ情勢とクレタ島をめぐる戦い
  52. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 131–132原本239-241頁(第二七、トリポリその他西地中海の海戰)
  53. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 39, 256–261.
  54. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 72四、一九四一年五月二十日~六月一日のクレタ島からのイギリス陸軍撤退作戦
  55. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 93.
  56. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 66.
  57. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 313.
  58. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 91.
  59. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 45–48(4)英空母の能力と航空機の比較
  60. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 46–49英海軍、空母搭載機の調達に悩む
  61. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 47.
  62. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 119.
  63. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, pp. 124–125第8図 航空母艦アクイラ
  64. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, pp. 132–133第9図 航空母艦スパルビエロ
  65. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 362–364●航空母艦の有無の問題
  66. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 206.
  67. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 359–360●レーダーの威力
  68. ^ 世界の艦船増刊第67集

参考文献

編集
  • 大内健二「第4章 未完に終わった航空母艦」『幻の航空母艦 主力母艦の陰に隠れた異色の艦艇』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年12月。ISBN 4-7698-2514-5 
  • 木俣滋郎「(2)マタパン岬の海戦」『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
  • V・E・タラント 『戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦―』 井原裕司訳、元就出版社、1998年、ISBN 4-906631-38-X
  • リチャード・ハンブル『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • アントニー・ビーヴァー「第10章 ヒトラーの「バルカン戦争」 一九四一年三月~五月」『第二次世界大戦 The Second World War 1939 ― 45 上』平賀秀明 訳、白水社、2015年6月。ISBN 978-4-560-08435-9 
  • カーユス・ベッカー、松谷健二 訳「第4部 地中海の戦い」『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』フジ出版社、1973年7月。 
  • ドナルド・マッキンタイヤー「3.独・伊の主力艦、英空母に敗る」『空母 日米機動部隊の激突』寺井義守 訳、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • Jack Greene and Alessandro Massignani, The Naval War in the Miditerranean, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
  • Geoffrey Bennett, Naval Battles of World War Two, Pen & Sword Books, 2003, ISBN 0-85052-989-1


関連項目

編集