ホルスト・ジンダーマン

東ドイツの政治家

ホルスト・ジンダーマンドイツ語: Horst Sindermann, 1915年9月5日 - 1990年4月20日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家、首相(閣僚評議会議長)(1973年-1976年)、人民議会議長(1976年-1989年)。

ホルスト・ジンダーマン
Horst Sindermann
ホルスト・ジンダーマン(1976年)
生年月日 (1915-09-15) 1915年9月15日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
ザクセン王国
ドレスデン
没年月日 (1990-04-20) 1990年4月20日(74歳没)
死没地 東ドイツの旗 ドイツ民主共和国
東ベルリン
所属政党 ドイツ共産党(1929-1946)
ドイツ社会主義統一党(1946-1989)
称号 カール・マルクス勲章

東ドイツの旗 ドイツ民主共和国
第3代人民議会議長
在任期間 1976年10月29日 - 1989年11月13日

内閣 ホルスト・ジンダーマン内閣
在任期間 1973年10月3日 - 1976年10月29日
国家評議会議長 ヴィリー・シュトフ

在任期間 1976年 - 1989年
国家評議会議長 エーリッヒ・ホーネッカー

在任期間 1963年 - 1989年
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経歴

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ドレスデン生まれ。国民学校とギムナジウムを卒業後、1929年に共産党の党員となる。1933年、反ナチス活動の罪状で逮捕され禁固8ヶ月。1935年にはヒトラー暗殺計画に関与した罪状で教化所での懲役6年を言い渡される。第二次世界大戦中はザクセンハウゼン強制収容所マウトハウゼン強制収容所で過ごした。1945年に連合軍により解放される。戦後、彼は新聞編集者となり、ドレスデンの「ザクセン人民新聞」やケムニッツの「人民の声」紙の編集長を務める。1950年には「自由ハレ」編集長。

1945年、再建された共産党に入党、翌年統合されたドイツ社会主義統一党(SED)に入党。ナチ時代の裏切り容疑で党の上司に睨まれたこともあったが、失脚しなかった。やがて1963年にケムニッツ及びライプツィヒ支部の支部長となった(‐1971年)。1963年から1989年まで人民議会の議員を務める。彼はまた、SEDの政治局員に就任。1971年に閣僚評議会副議長(副首相)、1973年には議長(首相)に就任。しかしその政策がリベラル過ぎるとしてSEDのエーリッヒ・ホーネッカー書記長の不興を買い、1976年10月29日の人民議会で閣僚評議会議長を解任され、儀礼的な役割しかない人民議会議長に選出された。閣僚評議会議長にはジンダーマンの前任者ヴィリー・シュトフ国家評議会議長が再任し、国家評議会議長はホーネッカーが兼任した。形式上ジンダーマンは序列ナンバー3の地位にあった。

1989年のベルリンの壁崩壊後、ジンダーマンは人民議会議長を解任されたうえSED党籍を剥奪され、汚職捜査のため短期間拘置された。しかし罪状が見つからなかったため釈放され、半年後の東西ドイツ再統一を見ることなく間もなく死去した。

死の直前『シュピーゲル』のインタビューに対し、東ドイツの崩壊は「わが生涯の作品が崩れ去る」ことを意味すると苦衷を語ったあと、「われわれは民衆に追放されたのであって、反革命にやられたのではない……『新フォーラム』のボーライ女史(ベアベル・ボーライドイツ語版)らは反革命分子だといえば、笑いものになるだけだ」と率直に述べている[1]

脚注

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  1. ^ 永井清彦南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(1990年 日本放送出版協会)P120-121


先代
ヴィリー・シュトフ
ドイツ民主共和国閣僚評議会議長
1973年 - 1976年
次代
ヴィリー・シュトフ
先代
ゲラルト・ゲッティング
ドイツ民主共和国人民議会議長
1976年 - 1989年
次代
ギュンター・マロイダ