ヘンリー・ハワード (第7代ノーフォーク公)
第7代ノーフォーク公ヘンリー・ハワード(英: Henry Howard, 7th Duke of Norfolk, KG, PC、1655年1月11日 - 1701年4月2日)は、イングランドの貴族。
第7代ノーフォーク公 ヘンリー・ハワード Henry Howard 7th Duke of Norfolk | |
---|---|
ノーフォーク公ハワード家 | |
続柄 | 第6代ノーフォーク公ヘンリーの長男 |
称号 | 第7代ノーフォーク公爵・第25代アランデル伯爵・第8代サリー伯爵・第5代ノーフォーク伯爵他 |
敬称 | Your Grace(公爵閣下) |
出生 |
1655年1月11日 |
死去 |
1701年4月2日(46歳没) イングランド ロンドン・セント・ジェイムズ・スクウェア・ノーフォーク・ハウス |
配偶者 | メアリー(旧姓モードント) |
父親 | 第6代ノーフォーク公ヘンリー |
母親 | アン(旧姓サマセット) |
役職 | 軍務伯(1684-1701) |
経歴
編集1655年1月11日、第6代ノーフォーク公爵ヘンリー・ハワードとその妻アン(第2代ウスター侯爵エドワード・サマセットの娘)の長男として生まれる[1][2]。
オックスフォード大学モードリン・カレッジで学び、マスター・オブ・アーツ(MA)の学位を取得[2]。
1679年1月に繰上勅書によりモウブレー男爵を継承して貴族院に召集された[2]。1682年12月にウィンザー城管理長官、サリー総督、バークシャー総督に就任[2]。1683年1月にウィンザー執事(high steward of Windsor)となり、同年4月からノーフォーク総督にも就任した[2]。
1684年1月の父の死により第7代ノーフォーク公爵位を継承した[2]。1684年9月にオックスフォード大学より名誉民事法学博士号(DCL)を授与される[2]。1685年2月のカトリックのジェームズ2世の即位に際して、ノーフォーク公がジェームズ2世への王位継承の旨の宣言を発した[2]。同年5月にガーター勲章ナイト(KG)に叙された[2]。1685年6月にはノーフォーク公爵歩兵連隊名誉連隊長となったが、彼はプロテスタントだったので1686年にカトリック教会への参拝を拒否して辞職した[2]。1687年にはサリーとノーフォークにおいてジェームズ2世の信仰自由宣言に関する評判を情報収集するエージェントの役割を果たすことをジェームズ2世に約束していたが、1688年7月にはオラニエ公ウィレム3世(ウィリアム3世)の許にはせ参じ、名誉革命成功後の1689年2月にウィリアム3世の即位を支持した[2]。同月、枢密顧問官(PC)に任じられる[2]。
1689年3月にはノーフォーク公爵歩兵連隊名誉連隊長に就任[2]。
1701年4月2日にロンドン・セント・ジェイムズ・スクウェア・ノーフォーク・ハウスで死去[2]。爵位は甥のトマスが継承した[2]。
栄典
編集1679年1月14日の繰上勅書により父ヘンリーの保有する爵位のうち次の爵位を継承[3]。
1684年1月11日の父ヘンリーの死去により以下の爵位を継承した。
- 第7代ノーフォーク公爵 (7th Duke of Norfolk)
- 第25代アランデル伯爵 (25th Earl of Arundel)
- (1138年頃創設のイングランド貴族爵位)
- 第8代サリー伯爵 (8th Earl of Surrey)
- (1483年6月28日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第5代ノーフォーク伯爵 (5th Earl of Norfolk)
- 第2代ノーリッジ伯爵 (2nd Earl of Norwich)
- 第19代セグレイヴ男爵 (19th Baron Segrave)
- (1295年の議会招集令状によるイングランド貴族爵位)
- 第16代ファーニヴァル男爵 (16th Baron Furnivall)
- ブラックミアの第20代ストレンジ男爵 (20th Baron Strange of Blackmere)
- 第15代マルトレイヴァース男爵 (16th Baron Maltravers)
- 第17代タルボット男爵 (17th Baron Talbot)
- 第5代フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵 (5th Baron FitzAlan, Clun and Oswaldestre)
- (1627年の議会法によるイングランド貴族爵位。1627年議会法によりアランデル伯位に付随)
- ライジング城の第2代ハワード男爵 (2nd Baron Howard of Castle Rising)
勲章
編集家族
編集1677年に第2代ピーターバラ伯爵ヘンリー・モードントの娘メアリーと結婚したが、子供は無かった[1]。
メアリーは公爵邸によく出入りしていた軍人サー・ジョン・ジャーメインと浮気し、これに公爵が立腹して1685年から別居となった。さらに公爵は妻の浮気相手ジャーメインを相手取って10万ポンドの損害賠償を求める訴訟を起こした。この裁判はメアリーが貴族院の証言台に立つなどしたため、衆目を集めたが、メアリーは熱心なカトリックでジャコバイト派であったため、その思想を持つ者たちがメアリーを熱心に応援し、公爵は不利な立場に立たされたという。結局公爵はこの裁判で100マークの損害賠償しか取れなかった[4][5]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b Lundy, Darryl. “Henry Howard, 7th Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p William Hunt (1891). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 28. London: Smith, Elder & Co. pp. 33–34. . In
- ^ Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月28日閲覧。
- ^ 海保(1999) p.200
- ^ 森(1987) p.41-42
- ^ 森(1987) p.43
参考文献
編集- 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社〈平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。
- Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900. .
公職 | ||
---|---|---|
先代 第6代ノーフォーク公爵 |
軍務伯 1684年 - 1701年 |
次代 第8代ノーフォーク公爵 |
軍職 | ||
新設 | ノーフォーク公爵歩兵連隊名誉連隊長 1685年 - 1686年 |
次代 初代リッチフィールド伯爵 |
新設 | ノーフォーク公爵歩兵連隊名誉連隊長 1688年 - 1689年 |
次代 サー・ヘンリー・ベレシズ |
名誉職 | ||
先代 カンバーランド公爵 |
サリー総督 1682年 - 1701年 |
次代 第2代バークレー伯爵 |
ウィンザー城管理長官 1682年 - 1701年 |
次代 初代ノーサンバーランド公爵 | |
バークシャー総督 1682年 - 1701年 |
次代 第2代アビンドン伯爵 | |
先代 初代クレイヴン伯爵 |
バークシャー首席治安判事 1689年 - 1701年 | |
先代 初代ヤーマス伯爵 |
ノーフォーク総督 1683年 - 1701年 |
次代 第2代タウンゼンド子爵 |
先代 第3代クレイモンド卿 |
ノーフォーク首席治安判事 1689年 - 1701年 | |
先代 初代バークレー伯爵 |
サリー首席治安判事 1689年 |
次代 初代バークレー伯爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ヘンリー・ハワード |
第7代ノーフォーク公爵 1684年 - 1701年 |
次代 トマス・ハワード |
第18代モウブレー男爵 (繰上勅書により父存命中に継承) 1677年 - 1701年 |