フロレンツァ・ミハイ
フロレンツァ・ミハイ(Florenţa Mihai, 1955年9月2日 - 2015年10月14日)は、ルーマニアの元女子プロテニス選手。1977年の全仏オープン女子シングルス準優勝者。キャリアを通じてシングルスの優勝はなく、決勝進出もこの全仏オープン1度だけであったが、この活躍でルーマニアの女子テニス界の先駆者になった人である。1978年の全仏オープン女子シングルス優勝者になったバージニア・ルジッチは、ミハイと同じ年のライバルであった。
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バージニア・ルジッチとフロレンツァ・ミハイ(右) | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Florenţa Mihai | |||
国籍 | ルーマニア | |||
出身地 | 同・ブカレスト | |||
生年月日 | 1955年9月2日 | |||
没年月日 | 2015年10月14日(60歳没) | |||
死没地 | 同・ブカレスト | |||
身長 | 165cm | |||
利き手 | 右 | |||
生涯獲得賞金 | 値なし | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全仏 | 準優勝(1977) | |||
全英 | 2回戦(1977) | |||
全米 | 3回戦(1977) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全仏 | ベスト8(1976・78) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全仏 | 準優勝(1977) | |||
来歴
編集1975年にプロ入りし、この年から女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)のルーマニア代表選手になった。翌1976年に全仏オープンで準決勝に勝ち進んだが、この時はレナータ・トマノワ(チェコスロバキア)に 5-7, 6-7 で敗れている。この大会ではミハイとバージニア・ルジッチが準決勝に進出し、ルーマニアの女子選手が2人ベスト4に入った。1977年の全仏オープンで、フロレンツァ・ミハイは女子シングルスと混合ダブルスの2部門で決勝に勝ち上がり、ルーマニア出身の女子テニス選手として最初の4大大会決勝進出を果たす。当時の全仏オープンは、64名の出場選手による6回戦制で行われ、現在とは1ラウンド小さい規模のトーナメントであった。ミハイは女子シングルス決勝で第1シードのミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)に 2-6, 7-6, 1-6 のフルセットで敗れ、イワン・モリナ(コロンビア)とペアを組んだ混合ダブルスでもジョン・マッケンロー&メアリー・カリロ(ともにアメリカ)に 6-7, 3-6 で敗れて、2部門とも準優勝に終わった。全仏準優勝の年、1977年の全米オープンで3回戦進出があったが、これが全仏オープン以外でのミハイの4大大会自己最高成績である。
1980年のウィンブルドンで1回戦敗退に終わった後、ミハイは3年間女子ツアー大会から遠ざかったが、その間1981年のフェデレーション・カップに参加した。その後1983年と1984年の2年間、女子ツアー大会のトーナメントに出場している。
脚注
編集- ^ “Fed Cup - Obituary: Florenta Mihai”. Fed Cup. ITF Inc. (2015年10月19日). 2015年10月19日閲覧。
外部リンク
編集- フロレンツァ・ミハイ - WTAツアーのプロフィール
- フロレンツァ・ミハイ - ビリー・ジーン・キング・カップのプロフィール
- フロレンツァ・ミハイ - 国際テニス連盟