フランス祖国同盟 (Ligue de la patrie française) とは、ドレフュス事件に対して反ドレフュス派の知識人が1898年12月31日[1]に結成したフランスの政治団体。

シャルル・レアンドルによるバレス、コペ、ルメートルのフランス祖国同盟三巨頭の風刺画

沿革

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創立

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1887年から1889年にかけて反議会主義的・反共和主義的政治運動のブーランジスムが展開した。1894年ドレフュス事件、そして1898年1月には作家エミール・ゾラが「私は弾劾する」を発表してドレフュスを擁護し、またドレフュス派により人間および市民の人権連盟(現人権同盟[2])が結成され、ドレフュスの再審を求める声が高まった。

こうした動向に対して反ドレフュス派若手教師のガブリエル・シヴトンフランス語版ルイ・ドーセフランス語版アンリ・ヴォージョワフランス語版は、すべての知識人がドレフュス派・左派の立場に立つわけではないこと、ドレフュスや政教分離の共和国を擁護する立場と同様に祖国を擁護する立場にも確固たる根拠があることを示すために、非左派知識人組織の立ち上げを計画した[3]1898年10月25日、パリの会合を皮切りに、リールに支部が作られた[4]。彼らはドレフュスを擁護するゾラや、彼らの多くが国際主義・平和主義の左派の陰謀と呼ぶものを攻撃するために請願書を作成し、署名を求めた[5]1898年11月、パリの学校で署名された請願書を政治家、知識人、芸術家らに配布した[3]シャルル・モーラスは作家のモーリス・バレスの支持をとりつけたほか、この運動は、地理学者マルセル・デュボワフランス語版、アカデミー・フランセーズ会員詩人フランソワ・コペ、フランス学士院アカデミー・フランセーズ会員の批評家ジュール・ルメートルフランス語版の重要な三人の協力を得た[3]。ルメートルが組織を運営する一方で、バレス(とりわけ、彼のナショナリズム[6])は運動に思想的基盤を提供した[5]

シャルル・ダニエルーフランス語版は、ゾラとコペの最後の会合に参加していた。ゾラはドレフュスが無罪であるとする『私は弾劾する』を発表しないようにコペから嘆願されていたが、ゾラは発表を決意した。ダニエルーはコペを支持し、1898年12月の祖国同盟の結成に尽力した[7]

1898年12月31日に祖国同盟の結成が最終的に決定され[3]1899年1月4日の結成時にはジュール・ルメートルが代表に任命された[8]。ルメートルは1月19日、組織会合を開いた[9]。バレスは祖国同盟の知的指導者であった[10]

同じ1898年にはドリュモンの「全国反ユダヤ青年会」も誕生している[11]

活動期

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詩人、アカデミー・フランセーズ会員のフランソワ・コペ会長
 
批評家・作家、アカデミー・フランセーズ会員のジュール・ルメートル議長

反ドレフュス派の知識人が結集したフランス祖国同盟は、アカデミー・フランセーズ、軍部、教会、貴族層、富裕層と協調体制をとり、ジョルジュ・クレマンソーによる「知識人声明(Manifeste des intellectuels )に匹敵する大きな影響力を持った[12]

作家のジィップ(マルテル・ジャンヴィル伯爵夫人)やピエール・ルイス、SFの父ジュール・ヴェルヌ、ノーベル文学賞を受賞したフレデリック・ミストラル、画家のエドガー・ドガピエール=オーギュスト・ルノワールなども加盟した祖国同盟は、結成後一ヶ月で加盟者は30,000人を超えた[5]。加盟者の70%は弁護士、医者、文学、芸術界で、労働者や職工の加盟者は4%ほどだった[13]

1899年1月19日、祖国同盟議長ルメートルは、ユダヤ人、プロテスタント、フリーメイソンが連帯して過去の復讐を償わせるために、ここ20年フランスの権力を握っていると会合で演説した[14]ものの、祖国同盟は反ユダヤ主義の立場を全面に出すことはなかった[5]。またカトリック教会の擁護を強く主張することもなかった。祖国同盟は旧秩序の回復を目指したが、権威主義的な体制を確立しようとしたわけではなかった[13]

愛国者連盟フランス語版や他のポピュリズム団体と違って、祖国同盟は暴力を否定し、暴言を避け、そのことで中間層にも受容されていった[9]。1899年2月には加盟者4万人となった[9]。祖国同盟は資金もあり、フランス全土に広がったが、組織は弱体であった[9]。中道共和派のフェルディナン・ブリュヌティエールフランス語版はドレフュス事件や、バレスのように共和派政権を転覆する口実を探していた反ユダヤ主義ナショナリストによる政治の混乱を終わらせたいだけであったことなどから、祖国同盟は分裂していった[5]。コペはボナパルティスト的傾向があり、クーデターを支持した[15]。フランス祖国同盟の加盟者は一時10万人に上ったが、統一的な行動を起こせなかった[16]。また、同盟員の作家アナトール・フランスはドレフュス擁護派だった[14]

分派アクション・フランセーズ

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1899年、モーリス・ピュジョフランス語版とアンリ・ヴォージョワは祖国同盟を離れ、1899年6月に反ユダヤ主義右翼運動アクション・フランセーズを結成し、雑誌『アクション・フランセーズ誌 (Revue de l'Action française)』を発刊した[16][17]。祖国同盟の臆病な体質と組織的目的の欠如を批判していたシャルル・モーラスがすぐにアクション・フランセーズに参加した。雑誌『アクション・フランセーズ誌』はラジカルな反共和主義の主張を展開した[18]。モーラスはブルボン王朝の君主制を復古すべきであり、そのためには暴力も必要に応じて用いるとした[19]

祖国同盟は1900年のパリ市町村議会選挙である程度の成功を収めたが、まもなく分裂していった。反ドレフュス主義は、異なる意見を持つ加盟者を統一させるには不十分であった[20]。1902年の選挙では祖国同盟の候補者はパリ以外ではほとんど支持されなかった[9]。祖国同盟の支持者は、祖国同盟の立候補でなく、共和派で連邦修正同盟で愛国者同盟副代表のアルベール・ゴーティエ・ド・クラニーフランス語版[21]ジュール・メリーヌフランス語版の共和主義者連盟を支持した[22]

1903年5月7日の会合では5000人が集まった[4]。しかし、1904年の地方選挙で敗北後、急速に衰退していった[15]

カード事件

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一方、祖国同盟の会計ガブリエル・シブトンは1902年に議員となった[22]

反教権主義者のルイ・アンドレフランス語版陸軍大臣は、フリーメイソンの報告書を使って、公務員におけるカトリック教徒による宣教を阻止するために情報を集めた[23]。1904年、フランス大東社(グラントリアン)事務のジャン・ビジュガンはシブトン議員にファイルを40000フランで売却し[24]、シブトン議員はアンドレ大臣を国会で追及して名声を得た[22]。しかしシブトンは急死したため、フリーメイソンの陰謀によると支持者は考えた[22]。このファイル事件 (Affaire Des Fiches) は、エミール・コンブフランス語版首相辞任をもたらした[24]

ルメートルが祖国同盟を離れてからは、ルイ・ドーセが代表に就任したが、1905年に辞任した[22]

幹部

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加盟者

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初期加盟者[26]

出版活動

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雑誌

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  • Almanach de la Patrie française, Paris, (1900–1901), ISSN 2417-9949, http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb32687266h/date 
  • La Grand'garde: Journal républicain ["républicain hebdomadaire", "républicain nationaliste","Organe officiel du Comité départemental de la Patrie française"], weekly journal, Lille, (1901), ISSN 2128-9565 
  • Annales de la Patrie française, Paris, (1900–1905), ISSN 1149-4190 
  • Bulletin officiel de la Ligue de la Patrie française, Paris, (1905–1909), ISSN 1149-4220 

記録

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ Ligue de la patrie française”. data.bnf.fr. 2019年7月23日閲覧。
  2. ^ Ligue des droits de l’Homme - Fondée en 1898” (フランス語). Ligue des droits de l’Homme. 2019年7月23日閲覧。
  3. ^ a b c d Pierrard 1998, p. 180.
  4. ^ a b Condette 1999, p. 209.
  5. ^ a b c d e Conner 2014, p. 160.
  6. ^ モーリス・バレス”. コトバンク. 2019年7月23日閲覧。
  7. ^ Gourlay 1996, p. 102.
  8. ^ Sternhell 1972, p. 338.
  9. ^ a b c d e Ligue de la patrie française – Larousse.
  10. ^ Pierrard 1998, p. 121.
  11. ^ ポリアコフ 4巻,p79-100.
  12. ^ Sternhell 1972, pp. 274, 338.
  13. ^ a b d'Appollonia 1998, p. 136.
  14. ^ a b #ヴィノック2007,p.47-54.
  15. ^ a b Tombs 2003, p. 143.
  16. ^ a b 深沢民司1983,p.74.
  17. ^ Rémond 2006, p. 8.
  18. ^ d'Appollonia 1998, p. 145.
  19. ^ d'Appollonia 1998, p. 151.
  20. ^ Pierrard 1998, p. 181.
  21. ^ Jolly 1960–1977.
  22. ^ a b c d e d'Appollonia 1998, p. 138.
  23. ^ Franklin 2006, p. 9.
  24. ^ a b Read 2012, pp. 339–340.
  25. ^ #ヴィノック2007,p.45-6.
  26. ^ Lemaître 1900.


参考文献

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  • レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第4巻 自殺に向かうヨーロッパ』菅野賢治・合田正人監訳、小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳、筑摩書房、2006年7月。ISBN 978-4480861245 [原著1977年]
  • ミシェル・ヴィノック『知識人の時代―バレス/ジッド/サルトル』塚原史・立花英裕・築山和也・久保昭博 訳、紀伊國屋書店、2007年2月。ISBN 978-4314010085 
  • 深沢民司「NationとPatrieの象徴と神話化過程 : シャルル・モーラスの「完全ナショナリズム」についての考察」『法學研究 : 法律・政治・社会』第56巻第6号、慶應義塾大学法学研究会、1983年6月、65- 89頁。 

文献案内

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  • 木下半治『フランス・ナショナリズム史』国書刊行会 1976
  • 深澤民司『フランスにおけるファシズムの形成 : ブーランジスムからフェソーまで』岩波書店,1999年

関連項目

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