イルハン朝

モンゴル帝国を構成する地方政権
フラグ・ウルスから転送)
イル・ハン国
フレグ・ウルス
ایلخانان
モンゴル帝国
アッバース朝
ルーム・セルジューク朝
1258年 - 1353年
イル・ハン国の位置
公用語 ペルシア語(公用語)
モンゴル語(宮廷)
アラビア語(宗教)
宗教 仏教
シャーマニズム
キリスト教ネストリウス派
1258年 - 1295年
イスラム教スンナ派
(1295年 - 1353年
首都 マラーゲ
1256年 - 1265年
タブリーズ
(1265年 - 1306年
ソルターニーイェ
(1306年 - 1335年
ハン
1260年 - 1265年 フレグ
1265年 - 1282年アバカ
1335年 - 1336年アルパ・ケウン
1337年 - 1353年トガ・テムル
宰相
1297年 - 1318年ラシードゥッディーン
面積
1310年3,750,000km²
変遷
成立 1258年
フレグ家の断絶1336年
滅亡1353年
通貨ディナール(金貨)
ディルハム(銀貨)
現在イランの旗 イラン
イラクの旗 イラク
シリアの旗 シリア
トルコの旗 トルコ
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
アルメニアの旗 アルメニア
ジョージア (国)の旗 ジョージア
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン
アフガニスタンの旗 アフガニスタン
パキスタンの旗 パキスタン
先代次代
モンゴル帝国 モンゴル帝国
アッバース朝 アッバース朝
ルーム・セルジューク朝 ルーム・セルジューク朝
チョバン朝 チョバン朝
ジャライル朝 ジャライル朝
エレトナ侯国 エレトナ侯国
ムザッファル朝 ムザッファル朝
インジュー朝 インジュー朝
クルト朝 クルト朝
ティムール朝 ティムール朝
マムルーク朝 マムルーク朝

イル・ハン国ペルシア語: ايلخانيان‎ Īlkhāniyān、英語 : Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラクアナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権1258年 - 1335年/1353年)。

13世紀のフレグ・ウルスとその周辺国

国名の呼称

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イルハンのイルとは、元来テュルク諸語において互いに仲間である人間の集団を意味し、特に遊牧民においては遊牧民が支配層を構成する遊牧国家・遊牧政権そのものをこの語によって表現した。これはモンゴル語ウルスとほぼ同義であるが、モンゴル語にもそのままの形で取り入れられ、モンゴル帝国ではもともと敵方であった人間集団や都市、国家をモンゴル帝国側に吸収し、また引き入れることに成功したときに「仲間となる」という意味合いで「イルとなる」と表現した。そのため、これに遊牧政権の君主を意味するハン、あるいはカンを付したイル・ハンil χan 〜 il qan > ايلخان īl-khān)やイルカンは「部衆の君長」「国民の主」を意味し、ほぼ同義のウルシュ・イディという称号とも併せて、モンゴル帝国を構成する諸ウルスにおいて、必ずしもイルハン朝の君主のみが用いた称号ではなかった。

しかし、この政権の建設者であるチンギス・カンの孫フレグがこのイル・カンの称号を帯びていたこと、また特に西欧において発展した近代史学においては、1824年にフランスの東洋史学者アベル・レミュザが公表した研究で、第4代君主アルグンフランス王国フィリップ4世に同盟を申し入れた書簡において、アルグンの称号としてイル・カンが用いられていたことが注目され、イルハン朝、あるいはイル=ハン国イル汗国、イル・カン国といった通称が広く用いられるようになった。『集史』など、この政権自身や周辺が編纂した記録では、ペルシア語でウールーセ・フーラーグー(Ūlūs-i Hūlākū)、つまりモンゴル語で「フレグのウルス」を意味する呼称を翻訳した表現がみられることなどもあり、モンゴル研究者からは、フレグ一門のウルスという意味で、フレグ・ウルスと呼ばれることも多い。

歴史

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フレグの西征

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シリア・パレスチナ戦線 (1260年)。
 
1258年フレグ西方遠征軍によるバグダード包囲(『集史』パリ本より)

フレグは兄であるモンゴル帝国第4代皇帝(カアン)モンケによりモンゴル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征(フレグの西征)を命ぜられ、1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、のちのイルハン朝がイラン政権として事実上成立した。1256年にニザール派(暗殺教団)のルクヌッディーン・フルシャー英語版が降伏すると、フレグはイランの制圧を完了させた。1258年にイラクに入ってバグダードを攻略(バグダードの戦い)、アッバース朝を滅ぼして西アジア東部をモンゴル帝国の支配下に置き、西部進出を伺った。1260年、フレグはシリアに進出(モンゴルのシリア侵攻英語版)、アレッポダマスカスを支配下に置いた。

建国期

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1260年春頃に兄モンケ死去の報を受けると、フレグはカラコルムへ向かって引き返し始めたが、帰路の途上で次兄クビライ世祖)と弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断した。フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝スルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍に攻め込まれ、9月のアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マムルーク朝とは対立関係にあった。

また、成り行きで西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルスベルケとは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムアゼルバイジャンの支配権を巡って対立し(ベルケ・フレグ戦争英語版1262年)、チャガタイ・ウルスとはマー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って対立したが、ジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスがオゴデイ家カイドゥを第5代皇帝クビライに対抗して盟主に推戴したため、フレグはクビライの支配する大元ウルスとの深い友好関係を保った。さらにジョチ・ウルスベルケマムルーク朝バイバルスと友好を結び[1][2][3][4][5]、イルハン朝挟撃の構えを見せた。

十字軍遠征

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対抗してイルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んでいた。イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母ソルコクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカネストリウス派キリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。[独自研究?]

1268年、バイバルスがフレグ死亡後の混乱に乗じて北上し、アンティオキア公国を滅亡させた。1269年、バラクカイドゥが協定を結んでヘラートへ侵攻。1270年、第8回十字軍で苦戦していたアッコン防衛にエドワード1世が派遣される。1270年7月21日、カラ・スゥ平原の戦い

後継者争い

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イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。

その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。

イスラム王朝への転身

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ガザンのイスラム改宗(『集史』パリ本より)

1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたって仏教からイスラム教に改宗したが、これによってイラン国内のモンゴル諸部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したため、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラムの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥアブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。

さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

 
シリア・パレスチナ戦線 (1299年–1300年)。

パレスチナ戦線 (1299年–1300年)及びマージ・アル・サファーの戦いマムルーク朝に敗れ、以降のマムルーク朝によるシリアの支配が確定した。

ガザンは「サイイドたちの館(ダールッスィヤーダ)」と呼ばれる預言者ムハンマドやカリフ・アリーの後裔であるサイイドたちのための宿泊施設を各地に建設し、また各地でモスクやマドラサその他宗教・公共施設の建設や改修、ワクフ物件の設定が行われた。

オルジェイトゥ

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ソルターニーイェのオルジェイトゥ廟

ガザンは1304年に死ぬが、弟のオルジェイトゥがハンに即位して兄の政策を継続し、また1301年カイドゥが戦死して大元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合が回復された結果、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。オルジェイトゥは新首都スルターニーヤ(ソルターニーイェ)を造営し、宰相ラシードゥッディーンにガザン時代に編纂させた「モンゴル史」を母体に、モンゴルを中心に当時知られていた世界のあらゆる地域の歴史を集成した『集史』や、彼の専門であった医学や中国方面の薬学についての論文、農書、イスラム神学に関わる著作集を執筆させている。

さらにガザン、オルジェイトゥの時代には用紙の規格化が推進され、現在にも伝わる大型かつ良質なクルアーンや宗教諸学、医学、博物学、天文学など様々な分野の写本が大量に作成された。地方史の編纂も盛んであった。『集史』編纂の影響と考えられているが、特に挿絵入りの『王書』などの文学作品の豪華な写本が作成されるようになったのも両ハンの時代からであった。この時代にはイルハン朝におけるイラン・イスラーム文化の成熟が示された。

アブー・サイード

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1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー・サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョバンが宰相として実権を握った。1317年、ラシードゥッディーンと政敵タージェッディーン・アリー・シャーの政争でラシードが失脚し、翌年処刑された。

成人したアブー・サイードは、チョバンの娘バグダード・ハトゥンを巡ってチョバンと対立するようになり、1327年にチョバンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する陣中で、ディルシャド・ハトゥンフランス語版英語版を寵愛するアブー・サイードは、1335年に子のなかったバグダード・ハトゥンに暗殺された。フレグ王統の断絶をもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。

イルハン朝の解体

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イルハン朝の解体後のイラン周辺(1345年頃)

アブー・サイードが陣没したとき、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーン英語版は、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れて殺害された。以来イランは様々な家系に属するチンギス・カンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。

アリー・パーディシャーはバイドゥの孫のムーサーを擁立したが、ジャライル部ハサン・ブズルグ(大ハサン)が取って替わりフレグの子モンケ・テムルの玄孫であるムハンマドを擁立した。一方でホラーサーンではチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの後裔であるトガ・テムルが周辺諸侯からハンと認められつつあり、逃げのびたムーサ―と反乱を起こした。これは失敗に終わったが、大ハサンもすぐにチョバン家シャイフ・ハサン(小ハサン)に敗れて傀儡の君主であるムハンマドを失った。小ハサンが一族のサティ・ベクを女王として擁立すると大ハサンはこれに対抗してトガ・テムルをハンとして認めて擁立した。一時はトガ・テムルとサティを結婚させる案も出たが流れてしまい、トガ・テムルを見限った大ハサンはゲイハトゥの孫のジハーン・テムルをハンに擁立。小ハサンもフレグの子イシムトの後裔のスライマーンを老齢のサティと結婚させてハンに擁立した。抗争に勝利した小ハサンが1343年に暗殺されるとスライマーンはサティと共に混乱するチョバン家へ大ハサンの介入を求めた。しかしこれは失敗し、ハンたちは小ハサンの弟のアシュラフに追放されてしまった。以降はアヌシルワンという名の家系不明で実体すら定かでないハンが立てられる。1357年チョバン家アゼルバイジャンを巡ってジョチ・ウルスに滅ぼされるとイルハン朝は完全に滅亡した。

一方でホラーサーンを支配していたトガ・テムルは周辺諸侯から1350年前後まではハンと認められ続け、一度は見限った大ハサンもチョバン家に対抗して1344年までは改めてトガ・テムルをハンと認めていた。1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残っていたトガ・テムルが殺害され、イランからはチンギス・カン一門の君主は消滅した。イラクでも大ハサンが1356年に死去すると次代のシャイフ・ウヴァイスは傀儡を立てずに自らハンに即位してジャライル朝を建国してジョチ・ウルスに滅ぼされたチョバン家領を併合していった

こうしたアブー・サイード死去以来の混乱で、イランの各地にはムザッファル朝インジュー朝クルト朝、サルバダール政権、ギーラーン、マーザーダラーン諸政権など遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していった。アナトリアも同様でルーム・セルジューク朝時代から分離傾向にあったベイリクやトゥルクマーン諸政権が乱立した。これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった。

歴代君主

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イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国
  1. フレグ(1256年 - 1265年)
  2. アバカ(1265年 - 1282年) - フレグの子。
  3. アフマド・テクデル(1282年 - 1284年) - アバカの弟。
  4. アルグン(1284年 - 1291年) - アバカの子。
  5. ゲイハトゥ(1291年 - 1295年) - アルグンの弟。
  6. バイドゥ(1295年) - フレグの五男・タラガイの子。
  7. ガザン(1295年 - 1304年) - アルグンの子。
  8. オルジェイトゥ(1304年 - 1316年) - ガザンの弟。
  9. アブー・サイード(1316年 - 1335年) - オルジェイトゥの子。後見人はチョバン。その死でフレグ王統断絶。
  10. アルパ・ケウン(1335年 - 1336年) - フレグの弟アリクブケの曾孫。
  11. ムーサー(1336年) - バイドゥの孫。オイラト部のアリー・パーディシャーが擁立。
  12. ムハンマド(1336年 - 1338年) - フレグの子モンケ・テムルの玄孫。ジャライル部ハサン・ブズルグ(大ハサン)が擁立
  13. サティ・ベク英語版(1338 - 1339年) - 女王。オルジェイトゥの娘でチョバンの妻。チョバン家シャイフ・ハサン(小ハサン)が擁立。
  14. スライマーン英語版(1339年 - 1343年) - フレグの子イシムトの後裔。チョバン家シャイフ・ハサンが擁立し、サティ・ベクと結婚。
  15. アヌシルワン英語版(1343年 - 1357年) - 家系不明。アシュラフ治世下の名目上のハンで史書や硬貨に名前のみ残る。

対立ハン

  1. トガ・テムル(1338年頃 - 1353年) - チンギス・カンの弟ジョチ・カサルの後裔で根拠地はホラーサーン。イルハン朝のハンを称した人物の中で最後に没した事実上最後のハン。
  2. ジハーン・テムル(1339年 - 1340年) - ゲイハトゥの孫。ジャイラル部ハサン・ブズルグが擁立したがすぐに廃される。

系図

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チンギス・カン
モンゴル皇帝1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョチ・カサル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オゴデイ
モンゴル皇帝2
 
 
 
 
 
トルイ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
グユク
モンゴル皇帝3
 
クビライ
モンゴル皇帝5
 
 
 
 
 
フレグ1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アリクブケ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大元王朝
 
アバカ2
 
イシムト
 
タラガイ
 
テグデル3
 
モンケ・テムル
 
メリク・テムル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルグン4
 
ゲイハトゥ5
 
 
 
 
 
 
バイドゥ6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シンカン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ガザン7
 
オルジェイトゥ8
 
アラーフランク
 
 
 
 
 
 
アリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソセ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アブー・サイード9
 
サティ・ベク13
 
ジハーン・テムル
 
スライマーン14
 
ムーサー11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルパ・ケウン10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド12
 
 
 
 
 
トガ・テムル
 
 

脚注

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  1. ^ Ryley-Smith in Atlas of the Crusades, p.112 (French Edition): "When the Golden Horde allied with the Mamluks, the Ilkhanate looked towards an alliance with the Christians"
  2. ^ "The alliance which Berke had created between the Mongols and the Mamluks against the Ilkhanate remained constant", Morgan, p.144
  3. ^ "The Mongols of Iran were all but encircled by a chain of alliances linking the Mamluks to the Golden Horde, and this power to Kaidu", Setton, p.529
  4. ^ "The friendship between Egypt and the Golden Horde, which would last until the conclusion of peace between the Mamluks and the Il-Khan in 1320" The New Cambridge Medieval History, page 710, by David Abulafia - 1999
  5. ^ "In order to fight their common enemy [the Ilkhanate], the Kipchack Mongols and the Mamluks entered into an alliance." Luisetto, p.157

参考文献

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読書案内

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  • 『モンゴル帝国と西洋』佐口透編、平凡社〈東西文明の交流 4〉、1970年10月。
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説―イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年2月。
  • 勝藤猛『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』創元社〈創元新書 8〉、1970年。
  • 北川誠一、「イルハン称号考」『オリエント』日本オリエント学会、30(1)、1987年、41-53頁。NAID 110000131488, doi:10.5356/jorient.30.41
  • 杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川書店角川選書 227〉、1992年6月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉 軍事拡大の時代』講談社講談社現代新書 1306〉、1996年5月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈下〉 世界経営の時代』講談社〈講談社現代新書 1307〉、1996年6月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年2月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』講談社〈興亡の世界史 9〉、2008年2月。
  • バーナード・ルイス『暗殺教団 イスラームの過激派』加藤和秀訳、新泉社、1973年。
  • 本田實信『イスラム世界の発展』講談社〈ビジュアル版 世界の歴史 6〉、1985年3月。
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年。
  • 宮紀子『モンゴル帝国が生んだ世界図』日本経済新聞出版社〈地図は語る 2〉、2007年6月。
  • 村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年5月。
  • ロバート・マーシャル『図説 モンゴル帝国の戦い―騎馬民族の世界制覇 』東洋書林、2001年。
  • 家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる』平凡社〈平凡社新書 199〉、2003年10月。
  • 家島彦一『海域から見た歴史―インド洋と地中海を結ぶ交流史』名古屋大学出版会、2006年2月。
大塚修・赤坂恒明・髙木小苗・水上遼・渡部良子訳註、名古屋大学出版会、2022年

関連項目

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