パノルムスの戦い
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パノルムスの戦いは、第一次ポエニ戦争中の紀元前251年にシチリア島のパノルムス(現在のパレルモ)で発生した、執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルスが指揮する共和政ローマ軍とハスドルバルが指揮するカルタゴ軍の間の戦闘。ローマの勝利により、戦争の残りの期間もパノムルスは引き続きローマの管理下におかれた。
パノルムスの戦い | |
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戦争:第一次ポエニ戦争 | |
年月日:紀元前251年 | |
場所:パノルムス(現在のパレルモ) | |
結果:ローマの勝利 | |
交戦勢力 | |
共和政ローマ | カルタゴ |
指導者・指揮官 | |
ルキウス・カエキリウス・メテッルス | ハスドルバル |
戦力 | |
60,000 | 21,000 |
損害 | |
2,500 | 11,000 |
序幕
編集紀元前252年の終わりから紀元前251年の始めにかけて、カルタゴはリビア人の反乱を鎮圧し、大ハンノの息子であるハスドルバルをシチリアに送った。ハスドルバルはカルタゴが勝利したチュニスの戦いに参加しており、そこでスパルタ人の傭兵であるクサンティッポス(en)から多くを学んでいた。ポリュビオスによると、ハスドルバルはおよそ2年間に渡りリルバイウム(現在のマルサーラ)やセリヌス(現在のマリネラ・ディ・セリヌンテ)といったシチリアの西側地域で活動したが、優勢なローマ軍と衝突することはなかった。しかしながら、ルキウス・カエキリウス・メテッルスのローマ軍が食物収穫のためにパノルムス(紀元前254年からローマの施政下にあった)周辺に集結しつつあることを知り、これを攻撃することとした。もう一人の執政官はその軍団とともにローマに戻りつつあったためローマ軍の兵力は減っており、この判断は妥当なものと言えた。ハスドルバルはその軍と戦象を率い、オレタス渓谷を通ってパノムルスに向かった。
戦闘
編集ローマ軍は一旦パノルムスの城内に撤退し、その後に郊外を破壊した。ハスドルバル軍は渓谷を出るとオレスタル川を渡河してパノルムスに向かった。メテッルスは軽歩兵(ウェリテス)に対してカルタゴ軍前衛に繰り返し攻撃をかけ、戦象を投げやりで攻撃するよう命令した。この攻撃のため、軽歩兵部隊は城周辺の塹壕に潜んでいた。カルタゴ軍戦象部隊の指揮官は、ローマ軍の抵抗は軽微であると信じ、軽歩兵を蹴散らすために前進した。しかし塹壕および城壁からの投げやりや投石攻撃にさらされると、戦象はパニックを起こして自身の戦列に突っ込んだ。この時点でメテッルスの軍団兵は城外に出てカルタゴ軍左翼に相対して布陣していた。戦象が逃走すると、メテッルスは軍団兵に対してカルタゴ軍左翼を攻撃するように命じた。この機動によりカルタゴ軍戦列は崩れた。しかし、ローマ軍は敗走するカルタゴ軍の追撃は実施せず、残っていた戦象を捕獲した。これらの戦象は後にローマの円形競技場で殺された。
その後
編集敗北後の通例でありが、ハスドルバルはカルタゴに召還されて処刑された。後任のアドバルはセリヌスから撤退し、街は破壊された。ハミルカル・バルカのゲリラ攻撃は続いていたが、この敗戦によりシチリア島におけるカルタゴ軍の大規模軍事行動は終了した。
参考資料
編集- Bagnall, Nigel. The Punic Wars. New York: St. Martin's Press, 1990.