ドグン・チューギェン・パクパチベット文字འགྲོ་མགོན་ཆོས་རྒྱལ་འཕགས་པ་ワイリー方式Gro mgon Chos rgyal 'Phags pa1235年3月26日 - 1280年12月15日)は、チベット仏教サキャ派(赤帽派)の座主元朝の初代皇帝クビライに招請された帝師モンゴル語化したパスパの名前で表記されることも多く[3]漢語史料では八思巴発思八抜合思巴とも表記される[4]。本名はロドゥ・ギェンツェン(bLo gros rgyal mtshan)であり、幼年期に利発さを示したため、「聖者」を意味するパクパの名前で呼ばれた[4]

パクパ
端平2年3月6日[1] - 至元17年11月22日[2]
1235年3月26日 - 1280年12月15日
尊称 帝師、国師、大宝法王
生地 サキャ
没地 サキャ
宗派 サキャ派
クンガ・ギェンツェン
弟子 瞻巴
沙囉巴
著作 『彰所知論』
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チベットの有力氏族の一つであるコン氏の出身であり、ソナム・ギェンツェンを父に持つ[3]。先代の座主サキャ・パンディタの甥にあたる。

生涯

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文字の発明まで

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端平2年3月26日(1235年3月6日)にサキャの地で生まれる。

宋淳祐4年(1244年)にモンゴル帝国との交渉に赴くサキャ・パンディタに伴われて同母弟のチャクナ・ドルジェと共にサキャを発ち、宋淳祐6年(1246年)に涼州に到着、オゴデイカアンの王子コデンに面会した[5]。叔父の死後はコデン王家の当主モンゲドゥの宮廷に留まり、憲宗3年(1253年)に雲南遠征の途上にあったモンゴル帝国の王族クビライに招待されて六盤山に赴き、クビライの待僧となる。クビライは改宗こそしなかったものの、チベットと中国の間に「施主と説法師(ユン・チュー)」の関係が成立した[6]。この時にパクパはクビライに灌頂を授け、クビライよりチベット130,000万戸の支配権を与えられたと言われ[3]、チベットにおけるサキャ派の地位を確立した[4]

中統元年(1260年)にクビライがモンゴル帝国のカアンに即位した後、中統2年(1261年)にモンゴルの国師に任じられる。チベットはクビライの支配下の元で州と県に分割され、各地区を統治する知事は国師であるパクパの権威に服した[7]。パクパはチベット以外に旧西夏領の行政権、モンゴル帝国全体の仏教行政権を委ねられ[4]、チベット仏教界の他に中国仏教界に対しての指導権がパクパに与えられた[8]。同時に、徴税と労役における僧侶の特権を獲得する[4][9]

クビライが即位した当時のモンゴルに独自の文字は無く、モンゴル語を音写するに当たっては漢字ウイグル文字が用いられていた。を初めとする他の国家は独自の文字を持っていたため、クビライはパクパにモンゴル独自の文字の作成を命じた[10]。パクパはサキャ・パンディタが作成していた字母を元にしてパスパ文字を完成させ[7][10]、至元6年2月13日(1269年3月17日)にパスパ文字を国字とする詔が公布された[11][12]。パスパ文字発明とクビライの権威の強化のため、1270年にパクパはクビライより帝師と大宝法王の称号を授けられた[13]

帝師就任後

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パクパは即位したクビライを転輪聖王に擬して帝権の強化を図り、様々な方策を実施する[14]大都の正門である崇天門には金輪が掲げられ[注 1]、クビライの玉座の上に白傘蓋仏を象徴する白傘を置いた[14]。そして、至元7年(1270年)より毎年2月8日から1週間、大都では白傘蓋の仏事という大法会が行われることになる。帝師に任命された後一度チベットに帰国するが再び大都に帰朝し、皇太子チンキムのために『彰所知論』を著し、サキャ派の教義を説いた。

至元11年3月16日(1274年4月24日)に帝師の地位を異母弟のリンチェンに譲り、慰留を振り切って帰国の途に就く[15][16]。当時パクパはサキャのポンチェン(プンチェン)職[注 2]クンガ・サンポと対立しており、クビライの七男のアウルクチの軍隊を伴って帰国していた(クンガ・サンポの乱[17]。至元12年(1275年)末にサキャ寺に到着し、チベット各地を巡遊した。至元14年(1277年)にチンキムの後援を受けてチュミクで大法会を開き、以降のパクパはサキャ寺に籠ることが多くなる[18]。至元17年11月22日(1280年12月15日)にパクパは生誕地のサキャで没する[3]

彼の死後、クンガ・サンポがパクパを毒殺したと告発され、元軍によって処刑された[19][20]。クンガ・サンポが処刑された後、至元18年(1281年)にパクパの甥のダルマパーラが帝師とサキャ派の長の地位に就いた[19]。この後元朝の帝師の地位は、サキャ派と周辺の人間によって独占されることになる[9]

英宗シデバラの時期には各地にパクパを祀る帝師殿が建てられ、泰定帝イェスン・テムルの時期にはパクパを描いた画を基にした朔像が作られた。パクパを祀る元朝の方針について、彼を色目人の中心的人物として起用しただけでなく、孔子に替わる立場に置こうとしたという見方も存在する[3]

文化事績

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著作にアビダルマの教義について記した『彰所知論』(Shes bya rab gsal)があり、シェーラブ・パル(Shes rab dpal、沙囉巴)による漢訳の他にチベット語原典が存在する[21]。他に、タントラの注釈書を執筆したことが挙げられる[22]

また、パクパは中国を訪れた際、チベットに亡命していたネパールの王子アニゴを同行させた。アニゴを通して北インド・ネパールの工芸文化が中国に伝えられる[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 金輪は転輪聖王の最高位である金輪王を象徴する。
  2. ^ ポンチェンとは、軍事・行政の監督官である。サキャのポンチェンは帝師の下に置かれ、アムドカムなどの他地域に置かれたポンチェンよりも強い権限を有していた。(ロラン・デエ『チベット史』(今枝由郎訳, 春秋社, 2005年10月)、97頁)

出典

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  1. ^ 達倉宗巴・班覺桑部 陳慶英訳 (1986年12月) (中国語). 《漢藏史集──賢者喜樂贍部洲明鑒》. 中華人民共和國: 西藏人民出版社. pp. 第202頁. ISBN 9787223009423. https://www.google.com.tw/books/edition/_/Tyg4AAAAMAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&dq=%E5%A5%B9%E7%94%9F%E4%BA%86%E4%B8%A4%E4%B8%AA%E5%84%BF%E5%AD%90,%E9%95%BF%E5%AD%90%E4%B8%BA%E4%B8%8A%E5%B8%88%E5%85%AB%E6%80%9D%E5%B7%B4&bsq=%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%AD%B2%E7%9A%84%E9%99%B0%E6%9C%A8%E7%BE%8A%E5%B9%B4. "桑察·索南堅贊了五個妻子,她們一共生了四個兒子和四個女兒。長妻名叫瑪久貢吉,她生了兩個兒子,長子為上師八思巴洛追堅贊貝桑布,生於其父五十二歲的陰木羊年(乙未,公元 1235年)三月六日。" 
  2. ^ 念常 (中国語). 《佛祖歷代通載‧卷二十一》. "庚辰師年四十二歲。時至元十七年十一月二十二日示寂。上聞不勝震悼。追懷舊德。連建大宰堵波於京師。寶藏真身舍利輪奐金碧無儔。" 
  3. ^ a b c d e 佐藤「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻、296-297頁
  4. ^ a b c d e f 藤枝「パスパ」『アジア歴史事典』7巻、372頁
  5. ^ 岡田『モンゴル帝国から大清帝国へ』、129頁
  6. ^ デイヴィッド・スネルグローヴ、ヒュー・リチャードソン『チベット文化史』(奥山直司訳, 春秋社, 2011年3月)、194頁
  7. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、38頁
  8. ^ 北川誠一、杉山正明『大モンゴルの時代』(世界の歴史9, 中央公論社, 1997年8月)198頁
  9. ^ a b 山口『チベット』下、72頁
  10. ^ a b 藤枝「パスパ文字」『アジア歴史事典』7巻、372-373頁
  11. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、39-40頁
  12. ^ 柯劭忞 (中国語). 《新元史‧卷八‧本紀第八‧世祖二》. 中華民國. "二月己丑,頒新製蒙古字於天下,詔曰:「朕惟字以書言,言以紀事,此古今之通制也。我國家創業朔方,俗尚簡古,未遑制作,凡文書皆用漢字及畏兀字,以達本朝之言。今文治寢興,而字書方闕,其於一代制度,以達本朝之言。今文治寢興,而字書方闕,其於一代制度,實為未備。特命國師八思巴創為蒙古新字,譯寫一切文字,期於順事達言而已。自今以後,凡璽書頒發,並用蒙古新字,仍以漢字副之。其餘公式文書,咸仍其舊。」" 
  13. ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、137頁
  14. ^ a b 石濱裕美子「チベット仏教世界の形成と展開」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)、252-253頁
  15. ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、124-125頁
  16. ^ 陳燮章; 索文清; 陳乃文 (1987年6月) (中国語). 《藏族史料集(三)》. 中華人民共和國: 四川民族出版社. pp. 第124頁. https://www.google.com.tw/books/edition/%E8%97%8F%E6%97%8F%E5%8F%B2%E6%96%99%E9%9B%86/CtA4AAAAMAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E4%BA%A6%E6%86%90%E7%9C%9F+%E8%87%B3%E5%85%83%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%B9%B4%E4%B8%89%E6%9C%88%E7%99%B8%E5%B7%B2+%E5%B8%9D%E5%B8%AB&dq=%E4%BA%A6%E6%86%90%E7%9C%9F+%E8%87%B3%E5%85%83%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%B9%B4%E4%B8%89%E6%9C%88%E7%99%B8%E5%B7%B2+%E5%B8%9D%E5%B8%AB&printsec=frontcover. "亦憐真嗣為帝師凡六歲至元十九年答兒麻八剌(乞列)〔剌吉塔〕嗣 此處有誤倒,應作「亦憐真嗣為帝師,凡六歲,卒。至元十九年,答兒麻八刺剌吉塔嗣」按前文云亦憐真至元十一年嗣為帝師,與本書卷八世祖紀至元十一年三月癸已條符。" 
  17. ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、128-129頁
  18. ^ 中村「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』、125頁
  19. ^ a b ロラン・デエ『チベット史』(今枝由郎訳, 春秋社, 2005年10月)、100頁
  20. ^ 山口『チベット』下、74頁
  21. ^ 三友健容、『パスパのアビダルマ理解』、印度學佛教學研究 57(2)、2009年3月、p.1053
  22. ^ デイヴィッド・スネルグローヴ、ヒュー・リチャードソン『チベット文化史』(奥山直司訳, 春秋社, 2011年3月)、221頁

参考文献

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  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』(藤原書店, 2010年11月)
  • 佐藤長「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1978年 - 1981年)
  • 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅 遥かなる後世へのめばえ」『中央ユーラシアの統合』収録(岩波講座 世界歴史11, 岩波書店, 1997年11月)
  • 藤枝晃「パスパ」『アジア歴史事典』7巻収録(平凡社, 1961年)
  • 藤枝晃「パスパ文字」『アジア歴史事典』7巻収録(平凡社, 1961年)
  • 山口瑞鳳『チベット』下(東洋叢書4, 東京大学出版会, 1988年3月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1974年6月)

関連項目

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先代
 ?
大元ウルス帝師
1270年 - 1274年
次代
リンチェン・ギェンツェン