パウル・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク
パウル・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク(Herzog Paul Friedrich zu Mecklenburg [-Schwerin], 1852年9月19日 - 1923年5月17日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の公子、騎兵隊将軍。
パウル・フリードリヒ Paul Friedrich | |
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メクレンブルク=シュヴェリーン家 | |
全名 |
一覧参照
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称号 | メクレンブルク公 |
出生 |
1852年9月19日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国、ルートヴィヒスルスト |
死去 |
1923年5月17日(70歳没) ドイツ国、ルートヴィヒスルスト |
配偶者 | マリー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ |
子女 |
パウル・フリードリヒ マリア・ルイーゼ マリー・アントイネッテ ハインリヒ・ボルヴィン ヨーゼフ |
父親 | フリードリヒ・フランツ2世 |
母親 | アウグステ・ロイス・ツー・ケストリッツ |
生涯
編集メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世とその最初の妻でロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ63世の娘であるアウグステ・ロイス・ツー・ケストリッツの間の次男として生まれた。全名はパウル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ(Paul Friedrich Wilhelm Heinrich)。
1881年5月5日、従妹にあたるオーストリア貴族のマリー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ侯女(1856年 - 1929年)[注釈 1]と結婚した。夫妻の間に生まれた5人の子供達は、母マリーと同様にカトリック信徒として育てられた。このためパウル・フリードリヒは1884年4月21日に自分と息子たちのメクレンブルク=シュヴェリーン大公位継承権を放棄している。さらに1887年、パウル・フリードリヒはルター派の信仰を棄ててカトリックに改宗した。
パウル・フリードリヒとその妻子はヴェネツィアで静かな暮らしを送り、ジュゼッペ・サルト枢機卿(後の教皇ピウス10世)と親しい友人になった。1906年、甥の大公フリードリヒ・フランツ4世はパウル・フリードリヒ夫妻の浪費に怒り、夫妻の家政の管理を大公家の宮廷に委ねさせている。1923年、ルートヴィヒスルストで死去した。
子女
編集- パウル・フリードリヒ・カール・アレクサンダー・ミヒャエル・フーゴー(1882年 - 1904年)
- マリア・ルイーゼ・アウグステ・アレクサンドリーネ・オルガ(1883年)
- マリー・アントイネッテ・マルガレーテ・アウグステ・マティルデ(1884年 - 1944年)
- ハインリヒ・ボルヴィン・アルベルト・フーゴー・ヨーゼフ・パウル(1885年 - 1942年)
- ヨーゼフ(1889年)
脚注
編集関連項目
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