ノーサンバランド伯
ノーサンバランド伯爵(英: Earl of Northumberland)は、イギリスの伯爵位。
中世にノーサンバランドを中心とした北部イングランドを領したパーシー家の当主第3代パーシー男爵ヘンリー・パーシーが1377年にイングランド貴族として叙位されたのに始まる。何度か剥奪と再授与を繰り返しながらパーシー家の世襲で続いたが、1670年に男子継承者がなくなって廃絶した。ついで1674年にチャールズ2世の私生児ジョージ・フィッツロイがイングランド貴族として叙され、1683年にはノーサンバランド公爵にも叙されたが、1716年に子供なく死去したことで廃絶した。ついでパーシー家の女系子孫にあたる第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモアが1749年にグレートブリテン貴族として叙位され、彼の死後は特別継承者の規定によりその娘婿である第4代準男爵ヒュー・スミソンが継承し、パーシーと改姓した。さらに1766年にノーサンバランド公爵に叙された。以降2020年現在まで彼の子孫のパーシー家がノーサンバランド公爵位の従属爵位として継承を続けている。
歴史
編集1377年-1670年のノーサンバランド伯 (パーシー家)
編集パーシー家は家祖のウィリアム・ド・パーシー(?-1096/9) 以来、ノーサンバランドやヨークシャーに広大な荘園を持ち、イングランド北東部の最有力の領主だった[1]。
ヘンリー・ド・パーシー(1273–1314) の代の1299年2月6日にパーシー男爵として議会招集令状を受けてイングランド貴族に列し[2]、1309年にはダラム司教よりアニック城を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる[3]。第4代パーシー男爵ヘンリー・パーシー (1341–1408) が、リチャード2世即位直後の1377年7月16日にノーサンバランド伯爵に叙位されたのがノーサンバランド伯爵パーシー家の始まりである[4]。しかしリチャード2世はイングランド北部のパーシー家の勢力の大きさを好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力であるネヴィル家やクリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家が代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたため、リチャード2世と対立を深め[5]、1399年のヘンリー4世による王位簒奪を支持し、ランカスター朝の樹立に貢献した[6]。しかしその後パーシー家はヘンリー4世とも対立し、3度にわたって反乱を起こした[6]。
最初の反乱の1403年夏のシュルーズベリーの戦いにおいて初代伯の息子で「ホットスパー(短気者)」の呼び名で知られるヘンリー・パーシー (1364–1403) が戦死し、初代伯の弟である初代ウスター伯トマス・パーシー(1343–1403)も捕らえられて後に処刑されている[7]。1405年に二度目の反乱を起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命し[7]、1406年に私権剥奪で爵位を剥奪されている[4]。1408年に故郷に戻るも発見されて[7]、ブラマム・ムーアの戦いで敗死した[4]。パーシー家は滅亡こそしなかったが、この反乱が原因で以降イングランド北部における勢力はネヴィル家に押され気味となる[7]。
「ホットスパー」の息子であるヘンリー・パーシー (1394–1455) は、1416年に領地と称号を回復した[8]。ただ祖父の私権剥奪が議会によって取り消されたという証拠がないため[4]、「2代ノーサンバランド伯」ではなく、改めて新規に「初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある[8]。彼はヘンリー5世に従って百年戦争に従軍してノルマンディー地方で戦い、1417年には北部に転じてスコットランド南部へ侵入した[9]。1422年にヘンリー5世が崩御した際にはその遺言執行人を務めている[9]。薔薇戦争の始まりである1455年の第一次セント・オールバンズの戦いにランカスター派(ヘンリー6世支持派)として参加したが、戦死した[6][9]。
その息子の3代伯ヘンリー・パーシー (1421-1461) もランカスター派としてヘンリー6世に仕え、1460年のウェイクフィールドの戦いと1461年の第二次セント・オールバンズの戦いでヨーク派を撃破したが、同年タウトンの戦いで3人の弟とともに敗死した[6][9]。死後、ヨーク派のエドワード4世によって領地と爵位をはく奪され[8]、ライバルのネヴィル家の一族であるジョン・ネヴィルが代わりにノーサンバランド伯に叙位された[9]。
その息子のヘンリー・パーシー (1449–1489) は、最初エドワード4世によってロンドン塔に投獄されていたが[6][9]、エドワード4世とネヴィル家が不和になってきたことから[10]、ヨーク派に転じることで赦免され[6]、1470年に爵位と領地をジョン・ネヴィルから取り戻し、式部卿に任命された[8]。以降エドワード4世に従って1475年のフランス遠征、1482年のスコットランド遠征に従軍した[9]。1485年のボズワースの戦いではリチャード3世側で出陣したが、戦闘に参加せず[11]、ヘンリー7世が即位した後、数カ月監禁されたが、年末に釈放された。その後1489年に新税の徴税でヨークシャーで暴動が起きた際に暴徒に殺害されている[12]。
その息子の5代伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシー(1478–1527) は、ぜいたくな生活を送って多額の借金を残した。しかし久しぶりにベッドの上で死んだ当主となった[13]。
その息子の6代伯ヘンリー・パーシー(1502-1537) は、少年時代にはトマス・ウルジー枢機卿の宮殿で暮らしており[14]、襲爵前にアン・ブーリンと恋人となったが、ウルジー枢機卿から叱責され、父の5代ノーサンバランド伯からも廃嫡すると脅され、この恋を断念している[15]。宗教改革に対する反発が原因で発生した1536年の恩寵の巡礼には参加しなかったが、弟2人が参加し、長弟トマス・パーシーは1537年に私権剥奪されて処刑された。6代伯もその翌年に死去した[16]。
6代伯には子供がなく、自分の死後所領を王室に寄贈することを申し出ていたうえ[17]、相続人である弟トマス・パーシーは私権剥奪されていたため、その子(6代伯の甥)のトマス・パーシー (1528–1572) には継承資格がなかった。そのため6代伯の死とともにノーサンバランド伯は一度廃絶となった[8][18]。その所領も王室のものとなった[17]。
以降20年ほどノーサンバランド伯の称号はパーシー家を離れたが、その間にジョン・ダドリーがノーサンバランド公に叙せられている[19]。
6代伯の甥トマス・パーシーは、カトリックであったことからメアリー1世の寵遇を得[6]、1557年4月30日にパーシー男爵、同年5月1日にノーサンバランド伯に叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟ヘンリー・パーシーを特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前のノーサンバランド伯位の継承資格者も継承可能であり[20]、7代伯爵の名乗りも許されていた[19]。しかしメアリー崩御後、プロテスタント化政策を推し進めるエリザベス1世と対立を深め、1569年に同じく北部カトリック貴族の6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルとともに北部諸侯の乱を起こしたが、失敗し、1572年に大逆罪で処刑された。カトリックの殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福されている[21]。
7代伯には男子がなく、弟のヘンリー・パーシー(1532–1585) が8代伯となった[20]。彼は襲爵前にノーサンバランド州選挙区選出の庶民院議員を務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、1571年に元スコットランド女王メアリー・ステュアートと共謀したとされ、ロンドン塔に送られた。獄中で襲爵し、1573年に釈放されるも1583年末にスロックモートン事件に連座して再度ロンドン塔に投獄され、1585年に自殺した(他殺説もあり)[22][23]。
その息子の9代伯ヘンリー・パーシー (1564–1632) は、エリザベス朝時代にレスター伯ロバート・ダドリーの指揮下でオランダで戦い[24]、1594年にはエリザベス1世からサイオン・ハウスを与えられた[25]。しかしステュアート朝時代の1605年、火薬陰謀事件に分流のトマス・パーシーが加わったために関与を疑われてロンドン塔に投獄され、獄中で多くの客を招いて学者を集め歓談と数学研究に打ち込み、1621年の釈放後は引退したとされる[24][26]。
10代伯アルジャーノン・パーシー (1602–1668) は、清教徒革命前夜の頃、チャールズ1世に厚遇され、枢密顧問官や海軍司令長官やスコットランド遠征軍司令官に任命された。しかし議会派と王党派の内戦が起きると議会派に味方し、それを知ったチャールズ1世は「私は奴に情婦のごとく阿ったのに、奴は裏切った」と怒りを露わにしていたという。伯は父を無実で投獄したステュアート朝が今更すり寄ってきたところで恩義など一切感じていなかったといわれる[27]。議会派に転じたとはいえ、貴族である以上共和国政界での活躍は限界もあり、穏健派として行動し、議会派と国王の和睦に努め国王処刑に反対したが、革命の進行に伴い引退した。王政復古後には枢密院に復帰したが、1668年に死去した[24][28]。
その息子の11代伯ジョスリン (1644–1670) は襲爵後わずか2年で25歳にして死去[28]。生存している男子は亡く彼の死去と共に爵位は廃絶した[20][29]。
11代伯の死去の翌年の1671年にダブリン市のトランク製造業者ジェイムズ・パーシーという男が8代伯の五男リチャード・パーシーの曽孫を名乗って貴族院に12代ノーサンバランド伯爵位を請求した。11代伯の未亡人エリザベスが抗議し、結局貴族院は1672年にジェイムズ・パーシーの請求を根拠なしとして退けた。その後もジェイムズは6代伯の弟インジェルラム・パーシーの子孫と主張して王座裁判所に申し立てているが、やはり敗訴している。インジェルラムは生涯独身で子供はなかった[30]。
1674年-1716年のノーサンバランド伯 (フィッツロイ家)
編集1674年10月1日にチャールズ2世の私生児であるジョージ・フィッツロイがイングランド貴族爵位コーンウォール州におけるファルマス子爵 (Viscount Falmouth in the county of Cornwall) や、同ヨーク州におけるポンテフラクト男爵 (Baron of Pontefract in the county of York) とともにノーサンバランド伯に叙せられた。続いて1683年にはイングランド貴族ノーサンバランド公に列せられるが、1716年に突然死去した。フィッツロイには嫡子がいなかったため、爵位は彼一代で消滅した[31][32]。
1749年以降のノーサンバランド伯 (シーモア・パーシー家)
編集11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーは男子を残さなかったが、娘エリザベス・パーシー (1667-1722) があり、アニック城をはじめとする北部イングランドの所領、サセックス州南部のペットワース荘園、ノーサンバランド・ハウスやサイオン・ハウスといったロンドンの邸宅などのノーサンバランド伯爵家の財産は彼女が相続していた[33]。彼女は1682年の三度目の結婚で第6代サマセット公チャールズ・シーモアと結婚し[34]、2人の間の息子アルジャーノン・シーモアは1748年に父の死で第7代サマセット公爵位を襲爵したが、男子がなかったので1749年10月2日に彼の娘エリザベスの夫である第4代準男爵ヒュー・スミソン (1714頃-1786) を特別継承者とするグレートブリテン貴族ノーサンバランド伯爵位とノーサンバランド州におけるワークワース城のワークワース男爵 (Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland) に叙位された[35][36]。
1750年2月に7代サマセット公が死去すると、特別継承者の規定に基づいてヒュー・スミソン準男爵が第2代ノーサンバランド伯と第2代ワークワース男爵を継承するとともに議会の議決によりパーシーに改姓した[37][38][39]。このスミソン家はイングランド内戦の際に王党派に尽くした功績で王政復古後の1660年に準男爵に叙せられていた家柄でヨークシャーのスタニックに6000エーカーの土地を所有した中規模の地主だった[40]。彼はパーシーに改姓した後もトーリー党の政治家として活躍し、1766年10月22日にはグレートブリテン貴族爵位ノーサンバーランド公爵に叙せられた[38][39]。
これ以降、ノーサンバランド伯爵位はノーサンバランド公爵位の従属爵位の一つとして現在まで続いている[39]。以降はノーサンバランド公爵を参照。
歴代ノーサンバランド伯一覧
編集ノーサンバランド伯(パーシー家 1377年)
編集ノーサンバランド伯(パーシー家 1416年再創設)
編集ノーサンバランド伯(ネヴィル家 1464年創設)
編集- ノーサンバランド伯ジョン・ネヴィル (1431–1471) 1470年にパーシー家に返還、代わりにモンターギュ侯爵。1471年剥奪
ノーサンバランド伯(パーシー家 1470年再創設)
編集- 4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (1449年 - 1489年)3代伯の子。1470年に復興
- 5代ノーサンバランド伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシー (1478年 - 1527年)4代伯の子
- 6代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (1502年 - 1537年) 5代伯の子。死後廃絶
ノーサンバランド伯(パーシー家 1557年再創設)
編集- 7代ノーサンバランド伯トマス・パーシー (1528年 - 1572年)6代伯の甥。1571年剥奪
ノーサンバランド伯(パーシー家 1572年再創設)
編集- 7代ノーサンバランド伯トマス・パーシー (1528年 - 1572年)1572年回復・処刑
- 8代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (1532年 - 1585年)先代の弟
- 9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (1564年 - 1632年)先代の子
- 10代ノーサンバランド伯アルジャーノン・パーシー (1602年 - 1668年)先代の子
- 11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシー (1644年 - 1670年)先代の子。死後廃絶
ノーサンバランド伯(フィッツロイ家 1674年創設)
編集- 初代ノーサンバランド伯ジョージ・フィッツロイ (1665年 - 1716年)1683年にノーサンバランド公。死後廃絶
ノーサンバランド伯(シーモア・パーシー家 1749年創設)
編集- 初代ノーサンバランド伯アルジャーノン・シーモア (1684年 - 1750年) 1748年にサマセット公位継承
- 2代ノーサンバランド伯ヒュー・パーシー (1714年 - 1786年)旧姓スミソン。第4代準男爵。1766年にノーサンバランド公
- 以後はノーサンバーランド公爵第3期を参照。
系図
編集ウィリアム・ド・パーシー (1096没) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レニエ家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウィリアム・ド・パーシー (1175没) | ジョフロワ1世 下ロレーヌ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグネス | ジョスラン・ド・ルーヴァン | アデライザ =英王ヘンリー1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブラバント公家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リチャード・ド・パーシー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3代パーシー男爵 ヘンリー | メアリー (3代ランカスター伯ヘンリー娘 | 2代ネヴィル男爵 ラルフ・ネヴィル (1291頃-1367) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
1397年ウスター伯 | 1377年ノーサンバランド伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代ウスター伯 トマス (1343–1403) | 初代ノーサンバランド伯 ヘンリー (1341-1408) | マーガレット・ネヴィル (1329-1372) | 3代ネヴィル男爵 ジョン・ネヴィル (1340頃-1388) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
廃絶 | 1405年私権剥奪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1397年ウェストモーランド伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー (ホットスパー) (1364-1403) | 初代ウェストモーランド伯 4代ネヴィル男爵 ラルフ・ネヴィル (1364頃-1425) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1416年ノーサンバランド伯再興 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2代ノーサンバランド伯 ヘンリー (1394-1455) | 5代ソールズベリー伯 リチャード・ネヴィル (1400-1460) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1464年ノーサンバランド伯 1470年モンターギュ侯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3代ノーサンバランド伯 ヘンリー (1421-1461) | 初代モンターギュ侯 初代ノーサンバランド伯 ジョン・ネヴィル (1431-1471) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1461年没収 | 1470年ノーサンバランド伯返還 1471年剥奪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1470年ノーサンバランド伯再興 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4代ノーサンバランド伯 ヘンリー (1449-1489) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5代ノーサンバランド伯 ヘンリー・アルジャーノン (1478-1527) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6代ノーサンバランド伯 ヘンリー (1502-1537) | トマス (1504頃-1537) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
死後廃絶 | 処刑・私権剥奪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1557年/1572年ノーサンバランド伯再興 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7代ノーサンバランド伯 トマス (1528-1572) | 8代ノーサンバランド伯 ヘンリー (1532-1585) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1571年私権剥奪 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9代ノーサンバランド伯 ヘンリー (1564-1632) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10代ノーサンバランド伯 アルジャーノン (1602-1668) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
11代ノーサンバランド伯 ジョスリン (1644-1670) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
死後廃絶 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6代サマセット公 チャールズ・シーモア (1662-1748) | エリザベス (1667-1722) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1722年パーシー男爵 1749年ノーサンバランド伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7代サマセット公 初代ノーサンバランド伯 初代パーシー男爵 アルジャーノン・シーモア (1684 – 1750) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1766年ノーサンバランド公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2代パーシー女男爵 エリザベス (1716-1776) | 初代ノーサンバーランド公 2代ノーサンバランド伯 ヒュー・パーシー (1714 – 1786) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ノーサンバーランド公家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 海保眞夫 1999, p. 50.
- ^ Heraldic Media Limited. “Percy, Baron (E, 1299 - 1406)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
- ^ 海保眞夫 1999, p. 52.
- ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Northumberland, Earl of (E, 1377 - 1406)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
- ^ 青山吉信(編) 1991, p. 403.
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- ^ a b c d 青山吉信(編) 1991, pp. 407.
- ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Northumberland, Earl of (E, 1416 - 1537)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g 海保眞夫 1999, p. 68.
- ^ 海保眞夫 1999, p. 69.
- ^ 海保眞夫 1999, p. 70.
- ^ 海保眞夫 1999, pp. 71–72.
- ^ 海保眞夫 1999, p. 78.
- ^ 海保眞夫 1999, pp. 80.
- ^ 海保眞夫 1999, p. 79.
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- ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, pp. 573–574.
- ^ 海保眞夫 1999, p. 83.
- ^ a b c 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 574.
- ^ 海保眞夫 1999, p. 53.
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- ^ a b Lundy, Darryl. “Hugh Percy, 1st Duke of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年2月1日閲覧。
- ^ a b c Heraldic Media Limited. “Northumberland, Duke of (GB, 1766)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月2日閲覧。
- ^ 海保眞夫 1999, p. 107.
参考文献
編集- 青山吉信 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460102。
- 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社〈平凡社新書020〉、1999年(平成11年)。ISBN 978-4582850208。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。