ネバダ (USS Nevada, BB-36) は、アメリカ海軍戦艦[注釈 1]ネバダ級戦艦ネームシップ[2]。艦名はネバダ州にちなむ。日本語ではネヴァダと表記することもある[3][4][5]。 合衆国海軍艦艇でこの名を持つ艦としては二隻目[注釈 2]姉妹艦[6]オクラホマ (USS Oklahoma, BB-37) [注釈 3]

艦歴
起工 1912年 11月4日
進水 1914年 7月11日
就役 1916年 3月11日
退役 1946年 8月29日
その後 1948年7月31日、ハワイ沖で海没処分
性能諸元
排水量 基準:29,000トン、満載:34,000トン
全長 177.70m
全幅 29.03m
吃水 9.04m
最大速度 20.5ノット
乗員 士官・兵員:864名
兵装 45口径35.6cm砲:10門
38口径12.7cm砲:16門
56口径40mm対空砲:40門
70口径20mm対空砲:45門

概要

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ネバダ型戦艦は[8]、アメリカ海軍における標準型戦艦の嚆矢である。その設計はイギリス海軍の戦艦ドレッドノート (HMS Dreadnought) [注釈 4]と同じくらい革新的なものであった。ネバダ型以前の戦艦は、防御する部分の重要性に合わせて様々な装甲厚を持っていた。これに対しネバダ級は弾薬庫や機関室など艦中央部の重要部分に最大厚の装甲を施し、艦首や艦尾側など、それほど重要でない部分の装甲はほとんど無かった[9]。いわゆる集中防御方式である[10]。この防禦方式は「All or Nothing英語版」として知られるようになり、この考え方は世界中の海軍に広まった[注釈 5]。またネバダの設計官は長距離射撃の弾着は側面ではなく上甲板部に行われることを認識しており、甲板部は厚い装甲が施された。

前級(ニューヨーク級戦艦)が35.6cm(14インチ)45口径連装砲5基(計10門)だったのに対し、ネバダ級は14インチ三連装砲塔2基、14インチ連装砲塔2基で、35.6cm(14インチ)砲合計10門となっている[9]。なお竣工時のネバダ級戦艦は、機関部の仕様が異なる[注釈 6]。 また竣工時のニューヨーク級およびネバダ級戦艦と改良型のペンシルベニア級戦艦籠マスト (Lattice mast) を備えていたが[12]戦間期の改装で三脚檣となった[13][6]

ネバダは、第一次世界大戦第二次世界大戦の双方に従事した。 太平洋戦争では、開戦劈頭に日本海軍機動部隊艦上機による真珠湾攻撃にあう[14]戦艦桟橋に繋留されていたネバダは[5][15]、外洋に向け湾内を移動中に艦上爆撃機急降下爆撃を受けて大破[16]、座礁して着底した[17][18][注釈 7]

1942年(昭和17年)2月に浮揚後[21]、4月からピュージェット・サウンド海軍工廠で大修理と大改装を行い、1943年(昭和18年)春に再就役した[10]。5月のアッツ島攻略作戦に従事したあと、ヨーロッパに派遣される[22]。1944年(昭和19年)6月のノルマンディー上陸作戦[23]南フランス上陸作戦で支援砲撃をおこなった[10]。その後、太平洋戦線にもどり1945年(昭和20年)2月以降の硫黄島の戦い、3月下旬以降の沖縄戦に参加した[注釈 8]終戦後、1946年(昭和21年)7月の原爆実験クロスロード作戦)で標的艦となったが、生き延びた[注釈 9]。 1948年(昭和23年)7月31日、ハワイ諸島近海で海没処分にされた[26]

艦歴

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建造

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ネバダは1912年(大正元年)11月4日にマサチューセッツ州クインシーフォアリバー造船所で起工した。1914年(大正3年)7月11日[注釈 3]、ネバダ州知事タスカー・オディーの姪であり、海軍省長官ベンジャミン・ストッダートの子孫であるエレノア・アン・セイバートによって進水。1916年(大正5年)3月11日に初代艦長ウィリアム・S・シムス大佐の指揮下就役した。

第一次世界大戦

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就役後はロードアイランド州ニューポートで1916年(大正5年)5月26日に大西洋艦隊に合流した。その後東海岸及びカリブ海で作戦活動に従事した。バージニア州ノーフォークで砲撃訓練を行った後、1918年(大正7年)8月13日にイギリス海軍大艦隊に加わるため出航した[注釈 10]アイルランドバントリー湾に8月23日に到着、北海を通って航路を造り、ウッドロウ・ウィルソン大統領の乗った輸送船ジョージ・ワシントン (USS George Washington) を護衛した。

戦間期

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戦間期は大西洋、太平洋両艦隊において作戦任務に従事した。1922年(大正11年)9月にはブラジル独立百年記念式典にアメリカ合衆国の代表としてリオデジャネイロを訪れた。1925年(昭和14年)7月から9月までアメリカ海軍艦隊のオーストラリアニュージーランドへの友好訪問に参加した。この巡航でアメリカ海軍はその広範囲な巡航能力が日本海軍と同等の物であることを実証した。1927年(昭和2年)8月から1930年(昭和5年)1月にかけてノーフォーク海軍造船所で近代化改修が行われ、その後十年にわたって太平洋艦隊で活動した。工事内容は、主砲仰角の引き上げ、籠マストを三脚マストに変更、航空機関連装備の増設、副砲の位置変更と高角砲の増強、大型バルジの装着など[22]

第二次世界大戦勃発後の1940年11月10日、大日本帝国では紀元二千六百年記念行事が行われた。ケント・ヒューイット少将はロサンゼルス在泊中の日本海軍特務艦(給油艦)「鶴見」に敬意を表し、日米親善に務めた[27]。少将は指揮下の「ネバダ」や「サラトガ」やブルックリン級軽巡洋艦などに満艦飾を施し、各艦のマストに日章旗を掲げさせた[注釈 11]。 1941年には、52歳の男性が志願兵としてネバダに配属され、既に本艦で勤務していた息子7名と、乗組員として再会するという出来事もあった[注釈 12]

真珠湾攻撃

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1941年12月7日、ネバダの移動経路
 
1941年12月7日、ワイピオ・ポイントに座礁して焼かれたネバダ

1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日)、南雲機動部隊の攻撃隊はハワイ基地を奇襲した[29]。ネバダは真珠湾海軍基地におけるフォード島に繋留されており[15][30]、いわゆる戦艦横丁の北端にいた[31][注釈 13]。 日本軍第一次攻撃隊(総指揮官淵田美津雄中佐)のうち[32]村田重治少佐が率いる九七式艦上攻撃機が戦艦横丁を雷撃した[33][注釈 14]

朝の軍艦旗掲揚のとき、ネバダでは軍楽隊と海兵隊の衛兵が国歌星条旗)を吹奏するならわしであった[36]。村田隊の九七式艦攻が雷撃をはじめ戦闘が始まったが、軍楽隊は星条歌を演奏しきった[36]。 戦艦横丁の最後尾にいて単艦で繋留されていたネバダは、ボイラー1機が稼働中だったので、動くことが出来た[37]。砲手が砲撃を始め、機関兵がエンジンを始動させる[38]。ネバダは対空砲火で九七艦攻を1機撃墜した[39]。だが日本軍機の攻撃を阻止できずに艦上攻撃機の雷撃を受け、艦前部(左舷艦首)に魚雷1本が命中[19][40]。浸水被害を受けた[41]。 つづいて淵田美津雄中佐が率いる九七艦攻の水平爆撃隊が戦艦列を爆撃し[42]、ネバタの目の前に停泊していたアリゾナ (USS Arizona, BB-39) が被弾して爆沈した[43][44][注釈 15]

戦艦列の中では損害軽微だった「古つわもの」のネバダは[47]、アリゾナの火災から逃れるためにも、真珠湾を脱出して外洋に出ようとした[31]。ネバダ掌帆長エドウィン・J・ヒル兵曹長は揚錨作業を指揮中に爆風を浴びて戦死し、死後名誉勲章を授与された[48]。当時のネバダには艦長や航海長が不在であった[38]。ネバダ在艦中の先任将校フランシス・J・トーマス少佐の指揮下、戦艦列を離れる[49][50]。爆発したアリゾナや転覆したオクラホマの横を通り過ぎるとき、泳いでいたアリゾナ乗組員3名をロープで艦上に引き揚げた[38]。そのあとネバダは、水先案内人やタグボートの助力もなく水路に入った[38]。このネバダの姿を、多数の将兵が見守り、写真に残している[51][52]。廃墟となった戦艦群から動き出したネバダは、最悪の状況下にあった兵士達を勇気づけたという[53]

そこに南雲機動部隊の第二次攻撃隊が飛来する[54][55]。急降下爆撃隊(九九式艦上爆撃機、指揮官江草隆繁少佐)はネバダを狭い水道で撃沈し、真珠湾を長期間にわたって使用不能にしようと目論んだ[56][18]。ネバダを攻撃したのは、おもに空母加賀攻撃隊[57](指揮官牧野三郎大尉)であったという[58][59]。ゆっくり動くネバダは格好の標的となり[60][61]、爆弾6発と至近弾多数を受けて炎上した[21]

ネバダが水路を移動するのを見たキンメル大将の司令部は「真珠湾外に日本軍潜水艦(甲標的)がいるので、湾外に出るな」と命令した[62]。だが水道の中央で着底すれば水路を閉塞してしまう[63]。そこで本艦はホスピタル・ポイントで自力で座礁して、沈没と湾口閉塞を回避した[64]。艦後部は潮流に流されて動き出したので、タグボート「YT-153」が横付けしている[65]。民間のタグボートは、本艦の救援や、工作艦ヴェスタル (USS Vestal, AR-4) の移動にも活躍したという[66]。その後、タグボート[注釈 16]によってネバダはワイピオ・ポイントに再度座礁した[37]。ネバダの人的被害は士官3名下士官兵47名死亡、士官5名下士官兵104名負傷であった[67]。一連の対空戦闘で、ネバダは艦上攻撃機4機撃墜(不確実2機)を記録した[68]

1942年以降

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1942年、修理と近代化改修後のネバダを描いた海軍情報識別票
 
修理と大改装を経て再就役したネバダ。

着底したネバダは1942年(昭和17年)2月12日(2月13日とも)に引き上げられ[21]、真珠湾で応急修理を実施した。続いて4月下旬から、アメリカ西海岸ピュージェット・サウンド海軍工廠で大修理をおこなう。副砲を全て撤去して5インチ38口径連装両用砲を8基(片舷4基)増設、煙突やマストをはじめ上部構造物を造り変えるなど、徹底した大改造により艦型が一変した[69]。1943年(昭和18年)3月、修理完了[注釈 17]。その後、アリューシャン方面の戦いに投入される[70]アッツ島攻略作戦 (Operation Landcrab) のためアラスカを経由してアッツ島に向かう[71]5月11日以降、上陸した第7歩兵師団艦砲射撃で支援中、僚艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) が伊31などに襲撃されるが、アメリカ艦隊に被害はなかった[72]

6月にはノーフォーク海軍工廠で近代化改修が行われた。

続いてノルマンディー上陸作戦支援のため大西洋に転戦する[70]。1944年(昭和19年)4月にイギリス海域に到着した。6月6日の上陸作戦当日、ネバダはシェルブール半島の防衛陣地に対して支援射撃を行い[23]、25日まで継続した。海岸からの反撃は27回にも及んだが、ネバダの砲撃は変わらず継続された。

続いてネバダを含むアメリカ戦艦部隊、イギリス戦艦ラミリーズ (HMS Ramillies) 、自由フランス軍の戦艦ロレーヌ (cuirassé Lorraine) および巡洋艦複数隻や護衛部隊は、フランス解放の一環としてドラグーン作戦に従事する(プロヴァンスへの上陸同作戦の戦闘序列)。8月15日から9月27日までネバダは南フランスへの艦砲射撃を行う。トゥーロンをめぐる攻防戦では、トゥーロン軍港英語版フランス語版を守る要塞砲と撃ち合う。サン=マンドリエ=シュル=メールに設置された海岸砲台は、自沈したプロヴァンス級戦艦プロヴァンス (cuirassé Provence) から取り外された13.5インチ砲英語版フランス語版を再利用したものだった。その後アメリカに戻り、ニューヨークで主砲身を交換し、太平洋戦線へ向かった。

1945年(昭和20年)2月16日に硫黄島へ到着する。ネバダは硫黄島の日本軍砲台に砲撃を加えた[73]。2月下旬には神風特別攻撃隊が硫黄島を包囲するアメリカ艦隊の攻撃し、空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) が大破、護衛空母ビスマルク・シー (USS Bismarck Sea, CVE-95) が沈没したが[74]、ネバダは無事だった。3月7日まで海兵隊の上陸作戦を支援した。

硫黄島が陥落すると、連合軍は沖縄諸島に駒を進めることにした[75]沖縄攻略作戦 (Operation Iceberg) を発動し、南西諸島方面に攻勢をかける[76]。3月24日に沖縄侵攻前の砲撃が行われ、ネバダは射撃支援部隊(第54任務部隊)に所属していた[3][注釈 18]。日本軍は基地航空部隊で反撃する[注釈 19]。3月26日以降、日本陸軍特別攻撃隊が大規模攻撃をおこなう[81][82]。 26日、第54任務部隊は呂号第四十九潜水艦と交戦したが、取り逃がした[注釈 20]。 27日(日本記録26日)、誠第32飛行隊(武剋隊、廣森達郎陸軍中尉)[86]もしくは赤心隊(鶴見国四郎陸軍少尉)[87]九九式襲撃機または九九式軍偵察機が突入、11人が死亡し主砲塔にも被害を受けた[注釈 21]。4月5日には艦砲射撃の間に沿岸砲台との交戦で損傷する[89]。2名が行方不明となった。7日には戦艦大和第二水雷戦隊が沖縄突入を図ったが[90]大和部隊は米軍機動部隊(第58任務部隊)の航空攻撃で敗退した[91][92]。ネバダは6月30日まで沖縄で作戦行動を行った後、7月10日から8月7日まで日本本土攻撃を行う第3艦隊の護衛任務に従事した。

沖縄戦が終わると、アメリカ合衆国海軍省はネバダの戦歴を公表した[注釈 8]。ネバダは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。

戦後

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東京湾での短期間の占領任務の後に真珠湾へ帰還し、ネバダはビキニ環礁における原爆実験クロスロード作戦)の標的艦に供用されることが決定した。ネバダは空中投下実験における目標地点とされ、視認性を高めるために全体を赤く塗装されて実験に望んだ[注釈 22]。 1946年(昭和21年)7月1日と25日に行われた核爆発(エイブル実験/ベーカー実験)で、ネバダは生き残った[注釈 9]。真珠湾に戻ったあと、科学調査された[94]。8月29日に退役した。

 
クロスロード作戦に際して赤く塗装されたネバダ。
艦尾に搭載された水上偵察機も含めて全体を赤一色で塗りつぶされている。

調査終了後のネバダは真珠湾に繋留されていたが、1948年(昭和23年)になると、僚艦と共に艦砲射撃や航空攻撃の標的艦に指定された[95]。7月31日、ネバダはオアフ島沖合でアイオワ級戦艦アイオワ (USS Iowa, BB-61) などから砲撃された。その後、魚雷によって海没処分となる[26]。ネバダの船体が何処に沈んでいるのか不明であったが、2020年5月に真珠湾から南西に約65海里の地点で発見された[96]

登場作品

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真珠湾にネバダのオープンセットが造られ、劇中で真珠湾空襲開始時における本艦の星条旗掲揚と国家演奏を再現している。ただし14インチ主砲塔がペンシルベニア級戦艦と同様の門数になっている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 戰艦“オクラホマ Oklahoma[1] 全要目{排水量29,000噸 速力20節 備砲36糎砲10門 13糎砲12門 起工1912年10月 竣工1916年5月 建造紐育造船會社} 全長177.69米、幅32.69米、平均吃水8.38米。軸馬力25,000馬力。備砲は上記の外に13糎高角砲8門を装備す。先年700百萬弗を投じて改装を施したが、その主なる改装個所はマストをカゴ式から三脚にしたこと、主砲の仰角を30度に増大したこと、汽罐を石炭主用より重油専燃としたこと等である。 / 同型艦“ネバダ Navada これは“オクラホマ”と要目すべて同一。1916年3月フオアリバア會社で竣工したもので先年“オクラホマ”同様改装を完了した。尚この2隻の航續力は全速力で4,000浬、10節で10,000浬と云はれて居り重油搭載量は2,000噸である。
  2. ^ アメリカ海軍でネバダ艦名を持つ艦艇一覧
  3. ^ a b 超努戰艦進水[7] クインシー《マサチューセット州》發 ― 米國海軍の最大戰艦たる可きネバダ號《不日進水す可きオクラホマ號の姉妹艦》は本日當地に於て進水せり、新艦の排水量は二萬七千五百噸にして燃料として石油を使用す可き装置を施さる可し(記事おわり)
  4. ^ 一般的に弩級戦艦と呼ばれる。
  5. ^ 日本海軍の大和型戦艦も、集中防御方式を採用している[11]
  6. ^ 竣工時のネバダはヤーロー重油専焼水管缶ブラウン・カーチス直結タービン、オクラホマは直立型三段膨脹式四気筒レシプロ機関バブコック・アンド・ウィルコックス式重油専焼水管缶を搭載した。
  7. ^ ネバダの被害は、戦艦横丁繋留中の午前8時2分に左舷前部に魚雷1本命中、午前8時40分運航開始、9時15分以降急降下爆撃を浴びて爆弾6発命中、擱坐[19]。或いは繋留中に魚雷1本命中、移動中に爆弾5発以上命中、至近弾2発以上[20]
  8. ^ a b 沖繩で損傷の戰闘艦 ネバダ號は再出動す[24] ワシントン(國際)十八日發 ― 海軍省では老戰艦ネヴァダ號の赫々たる日獨軍撃碎記録を發表し、同弩級艦は沖繩本島沖合にて敵の沿岸砲および一自殺機によつて損傷を蒙つたことがある旨述べた、日本側はさきに眞珠灣でネヴァダ號を撃沈した旨主張してゐたが、同艦は損傷を受けて擱坐したのち修理されて再び第一線に立ち、ノルマンヂー、南フランス、アツツ、硫黄島、沖繩本島各方面の上陸作戰を掩護してゐるのである、老ネヴァダ號(一九一六年に就役)は沖繩作戰では一自殺機と沿岸砲の砲彈五發を喰つたが、作戰を續行して日本軍を撃滅、海濱の敵陣地を撃碎した、その後修理されて再び活躍してゐる同艦現在の艦長はホーマー・エル・グロツスロブフ大佐(ミネソタ州ミネアポリス出身)である(記事おわり)
  9. ^ a b 問題視される原子彈試爆[25] ビキニ島における陸海共同の原子彈試爆も豫定通り七月一日午前九時(シカゴ時間にして午後五時)決行されたが試験台として目標にされた艦船は老齢戰艦ネバダ號、長門、巡洋艦酒匂 プリンス オイゲン號等々計七十三隻、七千万弗の巨費を投じたこのテストは三万九千人の人間、七千餘の各種精密機械を動員して行はれた。主要目標だったネバダ号は沈没せず、これらの艦船にのこされた山羊、豚、鼠等の中、原子彈爆破後も生きてゐたものがあつたため(以下略)
  10. ^ 1917年末に第9戦艦戦隊 (United States Battleship Division Nine) が編成されてイギリスに派遣され、イギリス海軍の隷下において第6戦艦戦隊 (6th Battle Squadron) と呼ばれていた。
  11. ^ 米國軍艦 檣頭に飜る日章旗 二千六百年奉祝の公式儀禮 旗艦費府號以下十隻滿艦飾で表敬[27](羅府支社發特報)皇紀二千六百年式年に對する公式儀禮として米國軍艦約十隻は滿艦飾をほどこしてそのマストに日章旗をかゝげて敬意を表しサンビードロ港にはときならぬ日米親善風景を現出、折柄ビーチを訪れた米人中にはびつくりした者もあつた、右米國海軍の儀禮は鶴見の入港を好機として巡洋艦フイラデルフイヤ號に坐乗するケント・ヒューイツト少将の命令によるもので少将の旗艦フイラデルフイヤ號 ネバタ號、ブルツクリンホノルル號、驅逐艦フラツシャー號、ラムソン號、航空母艦サラトガ號その他小補助艦まで一薺後部マストに日章旗をかゝげ時局下にあつても米海軍の傳統を守り友邦日本の盛典に對し表敬した態度は稱賛を博し當地英字紙を筆をそろへて讃えてゐる(記事おわり)
  12. ^ 一家八人 揃って水兵さん[28] 非常時米國精神を反映して父子八人とも海軍に志願編入して戰闘艦ネバタ號に揃つて乗組んだと云ふ珍しい話(以下略)
  13. ^ Battleship Rowについては、戦艦桟橋、戦艦列、戦艦通り、戦艦横丁と複数の表記がある。
  14. ^ 戦艦メリーランド (USS Maryland,BB-46) の隣に繋留されていたオクラホマ (USS Oklahoma, BB-37) は[34]、空母加賀雷撃隊などの攻撃で転覆した[35]
  15. ^ 炎上するアリゾナと、その傍にいるネバダおよび工作艦ヴェスタル (USS Vestal, AR-4) の写真が残っている[45][46]
  16. ^ YT-146YT-142、掃海艇アボセットなど。
  17. ^ 転覆した姉妹艦オクラホマの浮揚回復作業は同年3月に始まり、6月に完了した。真珠湾のドッグで修理をおこなっている[70]
  18. ^ 第54任務部隊第3群:戦艦2隻(テネシー、ネバダ)、巡洋艦3隻(ウィチタバーミングハムセントルイス)、駆逐艦部隊(沖縄戦連合軍海上部隊戦闘序列)。
  19. ^ 日本海軍の第五航空艦隊[77]、日本陸軍の航空部隊[78]第6航空軍[79]第8飛行師団[80])など。
  20. ^ 呂49は甲潜水部隊に所属していた[83]。3月25日に敵情を報告したあと、行方不明になった[84]。その後も、日本軍潜水艦部隊(伊47伊58など)に特筆すべき戦果はなく、伊8などが沈没した[85]
  21. ^ この日はネヴァダの他に軽巡ビロクシ (USS Biloxi, CL-80) なども損傷している[88]
  22. ^ 米海軍の花形七艦 今週中當地に寄港 ビキニ島へ赴く途中[93] 眞珠灣四日發 ― 原子彈實驗を指導する米陸海軍共同部隊前進司令部よりの發表によると今次大戰前まで米海軍の花形と謳はれた諸艦七隻が六、七、八 三日に亘つてビキニ島集合地点點へ赴く途上、當地に寄港する、即ち六日には戰艦ペンシルバニア號、重巡ソートレーキ市號及びペンサコラ號、七日には戰艦ニューヨーク號と航空母艦サラトガ號、八日には戰艦ネバダ號、アーカンソー號と航空母艦インデペンデンス號がそれぞれ入港する、尚ネバダ號は全艦を赤色に塗られてゐが之れは原子投下の標的になるからだ、尚ほ獨逸海軍より鹵獲せる袖珍戰艦重巡プリンス・ユーゲン號は五月十五日當地入港の豫定であり、日本海軍より獲得せる戰艦長門と輕巡佐川は本日ビキニ環礁内に繋留した(記事おわり)

出典

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  5. ^ a b スミス、パールハーバー1941 2009, pp. 20–211941年12月7日、真珠湾艦艇配置図
  6. ^ a b ポケット海軍年鑑 1937, p. 102(原本186-187頁)戰艦オクラホマ
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参考文献

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    • (125-133頁)元「加賀」艦攻隊偵察員・海軍少尉吉野治男『加賀雷撃隊「戦艦オクラホマ」に針路をとれ 八〇〇キロ魚雷一本に祖国の興隆をかけた男たちの苦闘
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • A・J・バーガー『PEARL HARBOR パールハーバー われ奇襲に成功せり』中野五郎 訳、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫2〉、1984年12月。 
  • ゴードン・プランゲ『トラ トラ トラ 《新装版》 太平洋戦争はこうして始まった』千早正隆 訳、並木書房、2001年6月。ISBN 4-89063-138-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 第17巻、朝雲新聞社、1968年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖繩・臺灣・硫黄島方面 陸軍航空作戦』 第36巻、朝雲新聞社、1970年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • ミリタリー・クラシックス編集部、執筆(松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎)、図面作成(田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一)「第二章 アメリカの戦艦」『第二次大戦 世界の戦艦』イカロス出版〈ミリタリー選書6〉、2005年9月。ISBN 4-87149-719-4 

同型艦

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関連項目

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外部リンク

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