デビッド・ガイシンガー
デビッド・ガイシンガー(英: David Geisinger、1790年 – 1860年3月5日)はアメリカ海軍の士官で、米英戦争に参加し、後に東インド艦隊の司令官となった。
デビッド・ガイシンガー | |
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1790年 - 1860年 | |
生誕 | メリーランド州 |
死没 | ペンシルベニア州フィラデルフィア |
所属組織 | アメリカ海軍 |
軍歴 | 1809年 - 1855年 |
最終階級 | 代将 |
戦闘 | 米英戦争 |
経歴
編集ガイシンガーは1790年にメリーランド州で生まれ、1809年11月15日にアメリカ海軍に士官候補生として入った。米英戦争中、帆走戦闘スループ・ワスプ(USS Wasp)の乗員となる。1814年9月21日、英国海軍のブリッグ・アタランタ(HMS Atalanta)を拿捕した。ガイシンガーはこのブリッグを指揮して米国に向かうよう命令され、1814年11月4日、ジョージア州サバンナに無事に到着した[1]。ワスプはその後行方不明になるが、ガイシンガーは難を逃れた。1814年12月9日に大尉に昇進した。
1829年3月には中佐に昇進。1833年には戦闘スループ・ピーコック(USS Peacock)の艦長として、外交官エドマンド・ケネディをシャムおよびマスカットに送った。ケネディはそれぞれの国で3月にラーマ3世と、9月にはサイイド・サイードと外交交渉を行った[2]。
1838年5月24日、大佐に昇進。1848年から1850年まで代将として東インド艦隊の指揮をとった。この間に、難破したアメリカ捕鯨船の乗員が日本に囚われているとの情報を、オランダ領事より得た。ガイシンガーは戦闘スループ・プレブル(USS Preble )の艦長ジェームス・グリンに長崎行きを命令した。グリンは1849年4月17日に長崎に到着し、武力行使もありえると脅しながら乗員の解放を要求した。オランダ商館長の助けもあり、4月26日に乗員は解放された。これは米国が初めて日本との外交交渉に成功した例となった。
米国に戻ってからは、フィラデルフィア海軍施設長を務めた。1855年9月13日に予備役に編入され、1860年3月5日にフィラデルフィアで死亡した[3]。
脚注
編集- ^ The history of our Navy from its origin to the present day, 1775-1897 By John Randolph Spears, pg. 100
- ^ ウィリアム・グリフィス (1905年8月6日). “Edmund Roberts, Our First Envoy to Japan”. New York Times. 2010年2月19日閲覧。
- ^ New York Times (1860年3月10日). “Obituary (of Commodore David Geisinger)”. New York Times. 2010年2月19日閲覧。
軍職 | ||
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先代 ウィリアム・シュブリック |
東インド艦隊司令官 第7代:1848 - 1850 |
次代 フィリップ・ヴォーヒーズ |