デイヴィッド・リンジー (第12代クロフォード伯爵)
第12代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジー(英語: David Lindsay, 12th Earl of Crawford PC、1576年3月8日洗礼 – 1620年6月)は、スコットランド貴族。
生涯
編集第11代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジーと2人目の妻グリゼル・ステュアート(Grizell Stewart、第4代アソル伯爵ジョン・ステュアートの娘)の息子として生まれ、1576年3月8日にパースで洗礼を受けた[1]。
父や祖父と同じく放縦であり、1605年10月25日には遠戚のウォルター・リンジー(第9代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジーの息子)を殺害してしまう[2]。しかし、デイヴィッド・リンジーが逮捕を逃れたため(スコットランド枢密院の怠慢とみられる)、1607年7月5日に叔父にあたる初代スピニー卿アレグザンダー・リンジーと一緒にいるところをウォルターの親族(ウォルターの兄デイヴィッドの息子アレグザンダー[3][4])に襲撃され、スピニー卿が死亡、デイヴィッドが負傷するという事件が起こった[2]。これにより、デイヴィッド(1607年秋にクロフォード伯爵位を継承[1])はアレグザンダーの殺害についてウォルターの兄デイヴィッドとその息子アレグザンダーを訴え、枢密院が1609年8月10日に裁判の日付を9月19日に定めたが、裁判の日にクロフォード伯爵が欠席したため、結局裁判は取り消された[4]。その後、ウォルターの兄デイヴィッドは1610年12月に死去した[4]。
1607年秋に父が死去すると、クロフォード伯爵位を継承、1608年6月28日に正式な継承者として認定された[1]。また、1608年3月10日[1]/5月10日[2]にスコットランド枢密院の枢密顧問官の就任宣誓を行った。
以降も放縦した行為で度々訴えられ、結局親族により「リンジー家の完全なる破滅を防ぐため」としてエディンバラ城に幽閉された[1]。
家族
編集1606年3月4日と1610年4月16日の間にジーン・カー(Jean Kerr、1633年以前没、初代ロジアン伯爵マーク・カーの娘)と結婚[1]、1女をもうけた[5]。その後、2人は離婚した[1]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 516–517.
- ^ a b c Henderson, Thomas Finlayson (1893). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. pp. 295–297.
- ^ Henderson, Thomas Finlayson (1893). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. pp. 280–281.
- ^ a b c Henderson, Thomas Finlayson (1893). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. p. 297.
- ^ "Crawford, Earl of (S, 1398)". Cracroft's Peerage (英語). 22 March 2005. 2020年7月6日閲覧。
スコットランドの爵位 | ||
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先代 デイヴィッド・リンジー |
クロフォード伯爵 1607年 – 1620年 |
次代 ヘンリー・チャータリス |