デイヴィッド・リンジー (第11代クロフォード伯爵)
第11代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジー(英語: David Lindsay, 11th Earl of Crawford PC、1557年頃 – 1607年秋)は、スコットランド貴族。
生涯
編集第10代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジーとマーガレット・ビートン(Margaret Beaton、1574年以降没、デイヴィッド・ビートンの娘)の息子として、1557年頃に生まれた[1]。1574年秋に父が死去すると、クロフォード伯爵位を継承、翌1575年10月28日にスコットランド枢密院の枢密顧問官に就任した[1]。
1578年3月17日、スコットランド大法官の第8代グラームズ卿ジョン・ライアンが乱闘で殺害される事件に関わった[2]。この日、クロフォード伯爵とグラームズ卿はスターリングで国王ジェームズ6世に謁見したが、路上で遭遇したところ両者ともに従者に道を譲るよう命じた[2]。しかし、かねてよりライアン家とリンジー家が敵対していることもあり[1]、2人の従者は従わず、このことをきっかけとして乱闘にもつれ込んだ[2]。この乱闘でグラームズ卿が射殺されたが、クロフォード伯爵は射撃の名手だったこともあって、グラームズ卿を射殺した犯人と目され、エディンバラ城に投獄された[2]。6月14日、クロフォード伯爵はケアニーの自宅に一時的に戻り、15日後に戻ってくることを許諾した上でエゼル卿デイヴィッド・リンジー(第9代クロフォード伯爵の長男)と第6代リンジー卿パトリック・リンジー(同族の遠戚)を保証人として指名した[2]。しかし、クロフォード伯爵が約束を破ったため、2人の保証人は罰金を課された[2]。9月1日、2人の保証人はクロフォード伯爵が11月3日にエディンバラのオールド・トルブース(市政府の建物)に出頭することへの保証金として2万ポンドを支払った[2]。そして、クロフォード伯爵は無罪判決を受けたのち、12月7日に3年間の海外渡航許可を得て、直後に第6代ハントリー伯爵ジョージ・ゴードンとともにフランス王国に向かった(クロフォード伯爵は1581年2月28日までに帰国した[2])。
1582年に国王ジェームズ6世が幽閉地であるリヴァン城から脱出すると(リヴァン城襲撃)、多くの貴族が国王を支持してセント・アンドルーズに集まったが、クロフォード伯爵もそのうちの1人だった[2]。同年8月に第3代アラン伯爵ジェイムズ・ハミルトンが復権すると、クロフォード伯爵はアラン伯爵を支持した[2]。11月にはフランスから帰国してきた第2代レノックス公爵ルドヴィック・ステュアートに同伴してジェイムズ6世のもとに向かい、翌年5月に初代ガウリ伯爵ウィリアム・リヴァン(ジェームズ6世を幽閉した貴族)の裁判に参加した[2]。
1587年5月に貴族間の和解を目指して宴会が行われ、クロフォード伯爵も宴会でトマス・ライアン(第8代グラームズ卿の弟)と腕を組み合って歩いたが、和解宴会には実効がなかった[2]。
イエズス会士ウィリアム・クライトンの手引きでカトリックに改宗したのち、初代ペイズリー卿クラウド・ハミルトンや第6代ハントリー伯爵、第9代エロル伯爵フランシス・ヘイとともに英西戦争中のスペインと文通を交わし、スペインによるイングランド侵攻計画に関与した[2]。1589年春にはハントリー伯爵とともに私兵を率いてパースに集まり、そこからディー橋に進軍したが、ジェームズ6世率いる少数の軍勢を前に自軍を解散した[2]。同年5月20日にエディンバラに出頭、「国王に自軍を招集するよう明示されたというハントリー伯爵の言葉に騙された」と弁明するも21日に反逆罪で有罪とされ、セント・アンドルーズ城に幽閉された[2]。同年9月に釈放されると、イングランド経由でフランスに渡るセーフ・コンダクト(安導権)を得た[2]。この後、クロフォード伯爵が実際にフランスに向かったかについて確証はないが、1591年2月3日にスコットランド枢密院の会議に出席した記録があるため、それまでに帰国したものとされる[2]。
人物
編集「気品のある人だが、浪費家でもある」という[1]。また、フランス好きで宗教では無定見であった(in affection French, in religion unsettled)[2]。
家族
編集1573年2月12日、パースでリリアス・ドラモンド(Lilias Drummond、第2代ドラモンド卿デイヴィッド・ドラモンドの娘)と結婚したが、リリアスは後に実家に送り返された[1]。リリアスが息子(早世)を出産した後、その息子の本当の父についての冗談を述べたことが理由とされた[1]。
1581年12月、グリゼル・ステュアート(Grizell Stewart、第4代アソル伯爵ジョン・ステュアートの娘)と再婚[1]、3男1女をもうけた[3]。
- デイヴィッド(1576年 – 1620年) - 第12代クロフォード伯爵
- ジェイムズ - 生涯未婚
- クラウド(Claud) - 生涯未婚
- メアリー
出典
編集- ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 516–517.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Henderson, Thomas Finlayson (1893). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. pp. 295–297.
- ^ "Crawford, Earl of (S, 1398)". Cracroft's Peerage (英語). 22 March 2005. 2020年7月6日閲覧。
スコットランドの爵位 | ||
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