ディオゴ結城
ディオゴ結城(ディオゴゆうき、天正2年〈1574年〉 - 寛永13年1月10日〈1636年2月16日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのカトリック司祭、イエズス会士。号は了雪。平島公方・足利義種室の祐賀の兄とされる。
福者 ディオゴ結城 | |
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イエズス会司祭 | |
教会 | カトリック教会 |
個人情報 | |
出生 |
天正2年(1574年) 阿波国(現・徳島県) |
死去 | 寛永13年1月10日(1636年2月16日) |
聖人 | |
記念日 | 7月1日 |
称号 |
福者 殉教者 |
列福 | 2008年11月24日 |
列福決定者 | ベネディクト16世 |
生涯
編集天正2年(1574年)阿波国[1]もしくは河内国で誕生[2]。
天正14年(1586年)、摂津国高槻にあった司祭養成学校(セミナリヨ)に入り、勉学を始めたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の指令でセミナリヨは移転を余儀なくされ、ディオゴは長崎で幽閉された。
その後、幽閉先を脱出したディオゴは文禄4年(1595年)に天草でイエズス会に入会。河内浦にあった司祭養成の高等機関(コレジオ)で学び、慶長6年(1601年)に伊東マンショ、中浦ジュリアンと共にマカオに渡り、司祭になるための勉学を続けた。
帰国後は畿内を中心に活動し、慶長12年(1607年)には伏見の教会の仕事を任され、この年徳島藩主・蜂須賀家政、平島公方・足利義種にキリスト教の教えを説いた。
やがて、江戸幕府によってキリスト教が禁制になり、ディオゴは慶長19年(1614年)高山右近らとマニラに追放された。ディオゴはマニラのイエズス会学校で勉学を続け、同地で司祭叙階を受けた。
元和2年(1616年)、禁教下の日本で活動すべく極秘で長崎に渡り、陸路京へと向かった。こうして再び畿内において司祭として信徒たちを尋ね、秘蹟を授け、教え励ます活動を行うようになった。また、密かに四国や江戸にまで足を延ばしていたと伝わる。
元和5年(1619年)に京で幼児を含めた52名が殉教した「都の大殉教」が起こると、ベント・フェルナンデス神父やミカエル草庵とともに、残った信者らを励ましたり、遺体を葬ったといわれている。
その後、幕府の宣教師捕縛が徹底される中、ディオゴは山中で隠れて暮らしていたが、寛永12年(1635年)、阿波国大坂峠で捕縛された。同13年(1636年)、大坂で穴吊りの刑を受け、3日後に処刑された。
没後の動き
編集平成20年(2008年)11月に長崎で「福者」に列せられた(ペトロ岐部と187殉教者)。
出自について
編集徳島県那賀川町町史編纂室が発見した系図は、平島公方・足利義種(周暠の従兄弟・義助の子)の妻・祐賀(平島義次の生母)を、周暠の孫と記している。同系図は平島公方の子孫に伝わった中世・近世文書群である『阿波足利家文書』の一つで、祐賀に光義・秀景・朝能の三人の兄があることも記されている。光義は文禄・慶長の役で戦死したとされる。
一方、徳島県立文書館所蔵の『板東村近藤家文書』の記述から、ディオゴ結城(了雪)は、祐賀の兄と推定されていたが、発見された系図の朝能は「結城喜太郎」と注釈されており、同一人物である可能性が高い。秀景はまた、「近藤家文書」に現れる祐賀の近親者「兵庫」とみられる。
脚注
編集- ^ イエズス会の名簿による
- ^ セミナリオの名簿による
- ^ 広報編集長の小窓 8月(2)(2021年12月4日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
関連項目
編集- 日本のキリシタン一覧
- 結城了悟(スペイン生まれのイエズス会司祭。キリシタン史研究者。帰化名はディオゴ結城に由来。)
外部リンク
編集- 大坂の最後の宣教師 ディオゴ結城了雪 - カトリック中央協議会