ダシドルジーン・ナツァグドルジ

ボルジギン・ダシドルジーン・ナツァグドルジモンゴル語:Боржгин Дашдоржийн Нацагдоржラテン文字表記例:Borjgin Dashdorjiin Natsagdorj1906年11月17日 - 1937年6月13日)は、(現:モンゴルトゥブ県出身の詩人小説家劇作家

ダシドルジーン・ナツァグドルジ
誕生 Боржгин Дашдоржийн Нацагдорж
(1906-11-17) 1906年11月17日
清の旗 トゥブ県
死没 (1937-06-13) 1937年6月13日(30歳没)
モンゴル人民共和国の旗 モンゴル人民共和国ウランバートル
職業 詩人小説家
言語 モンゴル語
国籍 モンゴルの旗 モンゴル
活動期間 1927年 - 1937年
ジャンル 小説戯曲エッセイ
文学活動 社会主義リアリズム
代表作わが故郷英語版』(1933年
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ウランバートルにあるナツァグドルジのモニュメント
ナツァグドルジの代表的な詩『わが故郷英語版』の碑文

代表作は、1933年に著されたモンゴルの自然を流麗な筆致や写実で歌い上げたわが故郷英語版』で、広く国民に愛読された。30歳で夭折するまで短編小説戯曲を発表し、革命後のモンゴルに新しい社会主義リアリズムモンゴル文学を築き上げたことから[1]近代モンゴル文学の父[2]と称される。

生涯

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1906年11月17日、清のトゥブ県にボルジギン氏の流れを汲む[3][4]貧しいモンゴル人貴族の元に生まれ、家庭教師から初等教育を学んだ。

1921年のモンゴル革命英語版を機に翌年1922年モンゴル人民党に入党し、同国出身の革命家ホルローギーン・チョイバルサンハタンバートル・マクサルジャプ英語版の影響を受け、革命運動に参加する[5]。革命中に生まれた初めての文化機構「スフバートル・クラブ」では中枢的な存在として様々な文化工作を展開した[5]

1926年頃から1929年にかけてソビエト連邦ドイツフランス留学[2]1927年頃より執筆活動を始めた[5]

帰国後はモンゴルにピオネールの創設や指導にあたり、モンゴル科学アカデミー英語版の研究員としてモンゴル語モンゴルの歴史を研究した[2]が、1932年頃に左翼イデオロギーの持ち主だとして約半年間投獄される。

出所後は文筆活動に勤しむが、1937年6月13日に30歳で死去。

ナツァグドルジは、翻訳家としてもドイツ語からフランスの作家ギ・ド・モーパッサンアメリカの作家エドガー・アラン・ポージャック・ロンドンの作品や千夜一夜物語をモンゴル語に翻訳した他、ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンの作品を初めてモンゴル語に翻訳したことでも知られる。

著名な作品

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  • 1927年、『Алс газар сурахаар явагч
  • 1930年 - 1933年、『わが故郷(Миний нутаг)』
  • 1930年、『Миний хэнз хурга
  • 1930年、『Харанхуй хад
  • 1930年、『Шувуун саарал
  • 1931年、『Ламбагуайн нулимс
  • 1931年、『Нойрын дунд
  • 1931年、『Хөдөө талын үзэсгэлэн
  • 1934年、『ホーチン・フー(Хуучин хүү)』
  • 1934年、『Соёлыг гайхав
  • 1934年、『Монголын үрс олон болтугай
  • 1934年、『Адууны манаанд
  • 1935年、『まだ見ぬ事(Үзэгдээгүй юм)』
  • 1935年、『Хайран охин
  • 1935年、『Миний ээж
  • 1935年、『Ертөнцийн гурван гайхамшиг
  • 1935年、『Өргүй бол баян өвчингүй бол жаргалан
  • 1935年、『Эрүүл явбал улсын наадмыг үзнэ

脚注

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  1. ^ グランド現代百科事典 1983, p. 192.
  2. ^ a b c ナツァグドルジとは - コトバンク、2014年8月14日閲覧。
  3. ^ 陈岗龙, 乌日斯嘎拉主编. 经典解读——达·纳楚克道尔基. 北京:民族出版社. 2009. ISBN 978-710509822-4
  4. ^ 达·那楚克道尔吉,内蒙古科学技术出版社,2009年
  5. ^ a b c 万有百科大事典 1973, p. 442.

参考文献

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関連項目

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