タントラ
タントラ(तन्त्र Tantra)とは、
- ヒンドゥー教においては、神妃(シヴァ神妃)になぞらえられる女性的力動の概念シャクティ(性力)の教義を説くシャークタ派の聖典群の通称[1]。タントラ (ヒンドゥー教の文献)
- 仏教においては、中世インドの主に8世紀以降に成立した後期密教聖典の通称[2]。広く密教聖典全般をタントラとみなす場合もある。タントラ (密教の文献)
- インド亜大陸、南アジアにおける思想実践としてのタントラ。タントリズム、タントラ教。タントラ (南アジアの思想潮流)。学術的な議論においては、遅くても7世紀以降の、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の伝統に共通する特定の宗教的教義と実践を指す[3]。非常に定義が困難だが、大まかに言うと、ウパニシャッドの梵我一如に表される大宇宙と小宇宙の相関符合の神秘思想によって世界観が基礎づけられたもので、ヴェーダ的な伝統を受け継ぎつつも、軽視あるいは否定する面を持ち、絶対的最高原理を認め、これと融合・合一することで生前解脱することを目指し、現世を肯定し自在に支配しようという、全体として秘儀的な教義と実践の体系である[4]。その実践は、肉食、飲酒、下のカーストの相手とのセックス等、主流社会では通常禁止された行為を含み、過激で危険な実践であるとされた[3]。
- 3 の伝統的なタントラを近現代の西洋で再解釈・再パッケージした「スピリチュアルなセックス」[5][6]。強烈な肉体的充足と霊的・精神的超越の両方に性的オーガズムを利用すること[6]。セックスと瞑想を融合したエキゾチックでエロティックな慣習[5]。
概要
編集スートラは糸を意味し、「経」(縦糸)と漢訳されたが[7]、これに対してタントラはサンスクリットで織機(はた)、縦糸、連続などを意味し[8]、経典[要曖昧さ回避]に表れない秘密を示した典籍であることを含意する[9]。チベット仏教では「連続」(相続)[10]として定義され、ある種の密教の教えが記された聖典を指す言葉として用いられる[11]。 タントラという宗教文献の存在は、インドを訪れたキリスト教の宣教師によって18世紀末頃に西洋に紹介された[12]。今日、欧米の研究者らは、タントリズムという用語をヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の各宗教の一部にみられるある種の汎インド的宗教形態を指す言葉として用いている(学的操作概念であり、タントリズムの従事者が自らそう呼んでいるわけではない)[12]。タントラはタントリズムの文献であると言えるが、仏教のタントリズムである密教の聖典がみなタントラと名付けられているわけではない[12]。ヒンドゥー教の一派であるシャークタ派の聖典はタントラと通称されるが、ヒンドゥー教タントリズムの文献がすべてタントラと呼ばれるわけではない[12]。
ヒンドゥー教シャークタ派の聖典はインドで 800年前後(ある種のタントラ文献は7世紀)に作られたと考えられ、64種あるいは 192種あるとされる[13]。タントラ文献には、さらには実践行法に関する規則、神を祀る次第や具体的方法も含む[14]。通説ではタントラは7 - 8世紀に成立したと考えられているが、パンチャラートラ派の最古のサンヒターの成立年代や、タントラ的要素を多く含む仏教の密教仏典の漢訳年代も考えると、5世紀までさかのぼる可能性があり、思想や儀式が洗練されて普及し文献にまとめられた期間を考慮すると、文献成立よりさらに古い可能性がある[15]。ヒンドゥー教のタントラ文献と、密教の文献は同時期に成立している[16]。
西洋では上記のタントラから、後にタントリズム(タントラ教)という言葉が生まれた[12]。タントラは、思想潮流を指す言葉としても使われており、諸聖典を指してのタントラが、思想潮流としてのタントリズムという言葉の元になっている[16]。思想としては、正統派ヒンドゥー教とは別種の救済、解脱の道を説き、シャクティを重視する秘儀的な潮流、霊的方法論で、のちに仏教、チベット仏教において密教(秘密仏教、タントラ仏教、仏教タントリズム)として発展した。タントラは転じて教義一般を指す普通名詞になったため、思想としてのタントラ(タントリズム、タントラ教)は、特定の思想体系を意味するものではない[17]。一般的には、ヴィシュヌ派、特にパンチャラートラ派のサンヒター、シャイヴァ・シッダーンタ派(聖典シヴァ派)のアーガマ、シャークタ派のタントラなどを指して「タントラ文献」と称する[18]。思想としてのタントラは、タントラ文献によって代表される思想体系あるいは特定の学派のみを指すわけではない[17]。タントラ文献が全てタントリズムの聖典であるとは限らず、「サンヒター」「アーガマ」「スートラ」など「タントラ」以外の名で呼ばれる文献にも、タントリズムの性格を有するものが多くある[18]。
アメリカのインド学者デイヴィッド・ゴードン・ホワイトは、タントラ的実践や儀礼が行われていた地域として南アジア、チベット、モンゴル、中国、韓国、日本、カンボジア、ミャンマー、インドネシアなどを挙げ、タントラ的諸神格が汎アジア的に信仰されていたことから、ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教にそれぞれ別個にタントリズムが存在したというよりむしろ、前近代のアジアの諸宗教では、各宗教のタントリズム的ヴァリエーションという形で、宗教横断的に「タントラ」という伝統が存在していたのだと説明している[19]。
現代の西洋人にとっては、南アジアの伝統的なタントラを近現代の西洋で再解釈・再パッケージした「スピリチュアルなセックス」であり[5][6]、インドやチベット発祥の、セックスと瞑想を融合させた、エキゾチックでエロティックな、興奮させられる慣習である[20]。支持者は「エクスタシーのカルト」として称賛し、性と霊性の理想的な融合であり、慎み深く抑圧的な現代の西洋を正す待望の教えであるとしている[20]。
聖典(タントラ)
編集密教聖典
編集タントラ(密教聖典)は仏の直説とされ、よって作者名はない[21]。タントラは礼拝の対象でもある[21]。根本タントラとは、タントリズムの実践者たちの集団の基本的な思想が説かれた文献で、その続編が続タントラである[21]。釈タントラは、根本タントラを註釈し、各々の主題を敷衍して説く[21]。註釈書では、このようなタントラが解説される[21]。
インド密教
編集8世紀、ブッダグヒヤは『大日経』の解説書である『大日経広釈』の中で、タントラを所作(kriyā 〔クリヤー〕)、行(caryā 〔チャリヤー〕)、瑜伽(yoga 〔ヨーガ〕)の3種に分類している。また、10世紀に成立したと考えられる『智金剛集タントラ』においては大ヨーガ、両、行、所作、儀軌[要曖昧さ回避]の5つに分類している[22]。
また、11世紀には後にチベットに訪れたアティーシャが所作、行、儀軌、両、ヨーガ、大ヨーガ、無上ヨーガ(無上瑜伽タントラ)の7種に分類している。この分類はインドの経典においては最も一般的なものであるが、他にもさまざまな分類が乱立しており、学者の間で統一された分類というものはない[22]。
チベット密教
編集チベット密教では、タントラを所作(蔵: bya ba, 梵: kriyā)、行(蔵: spyod pa, 梵: caryā)、瑜伽(蔵: rnal 'byor, 梵: yoga)、無上瑜伽(蔵: rnal 'byor bla med, 梵: anuttarayoga)の4種に分けている。これは歴史の中で少しずつ作られていったもので、なぜこの4種なのか、という点に関しては宗派により説明が異なる[22]。
12世紀のサキャ派の学者ソナムツェモは、タントラを4つに分類した理由の解説を試みている。ソナムツェモは、インド宗教への信仰、顕教の教え、人の執着を満足させる方法のそれぞれが4種に分類可能であり、タントラ4種はそれぞれに対応するためにあるのだと説く[22]。
13世紀、チベットの大学者プトゥンは、4種タントラが、断じるべき執着、インドの社会カースト、断じるべき煩悩、修行者の能力、一時的な薫習、時代を考慮して分類されていると述べている[22]。
14世紀、ゲルク派の祖であるツォンカパは、『真言道次第大論』の中で顕教と密教を比較解説し、ソナムツェモの解説に対する批判を試みている。ツォンカパは『サンプタ・タントラ』に「笑う、見る、手と手を繋ぐ、抱く」の4種の煩悩があるとされていることを根拠に、これらの煩悩を菩提への道として転用するためにタントラが存在するのだと説く[22]。
思想潮流(タントラ、タントラ教、タントリズム)
編集ヒンドゥー教
編集タントラ文献は、ヴェーダ聖典とはかかわりなく、ヒンドゥー教の神々によって直接啓示されたとされ、ヴェーダとは異なる儀礼、救済、解脱の道を説く[23]。タントラは、カーストや男女の差別を排し、原則としてすべての人に開かれた、より安易な解脱の道を示し、荘厳重厚で閉鎖的なヴェーダやウパニシャッドと対照をなす[23]。ウパニシャッドや原始仏教の厭世・隠遁を良しとする世界観とは異なり、厭世を条件としておらず、この世の生を肯定するタントリズムの大前提は、古いヴェーダの明るく大らかな世界観を受け継ぐものである[23]。タントリズムの初期の歴史ははっきりしないが、5-6世紀頃にヒンドゥー教のシヴァ信仰、シヴァ派の伝統の中で生まれたようである[24][25]。
一般的にタントリズムの伝統は、ヒンドゥー教のヴェーダの伝統の儀式や、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の禁欲的伝統の瞑想から広範囲に取り入れている[24]。しかし、ヴェーダの伝統における儀式的清浄や、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教における放棄・自制の重視を否定する傾向があり、これに代わり解脱への道として、世界や感覚との関わりを主張する傾向がある[24]。タントリズムでは、紀元前5 - 3世紀にかけて確立した厭世、現世放棄主義による「主体の否定」に対する反動として生じたと考えられており、「我」は幻想であるという考えに対し、現実に苦しみの主体として実感される「我」が我でありながら救済されることが目指され、我は人格神である絶対者(例えばシヴァ神)の限定された一部である、という形で救済が理論化された[16]。ここで言う絶対者は梵我一如におけるブラフマンのような非人格的存在ではない[16]。
自らの経験を通じて最高真理を知る道であり、神と一体になるために儀式に参加することが重視された[25]。公開された儀式だけではなく、多くの非公開の儀式があり、それはグルを通して明かされる[25]。真理を得るために、男女に代表されるすべての統一が必要とされ、シヴァと神妃、リンガ(男性器すなわちシヴァ)とヨーニ(女性器すなわち神妃)の統一という考えから、性儀式が生じ、性愛または性交を通じて宇宙の最高真理を認識することが目指された[25]。
ヒンドゥー教タントリズムの主な関心事は生前解脱と現世の享受であり、行者は超越者と同化しながら自己の内にそれを取り込み、世界の生成消滅をコントロールし、自己だけでなく宇宙全体の主になることを目指した[23]。従来のインドの宗教における主体性の放棄の姿勢に対して主体性の回復という側面があり、自己はその「欲望する主体」としての価値が回復されるが、単なる現世肯定ではなく、修行の過程では、瞑想において「これは自己ではない」という徹底的な自己否定がなされ、その積み重ねの果てに、真の我としての人格神である絶対者が見いだされる[16]。
タントリズムで重要な概念にシャクティの概念があり、これは宇宙だけでなく個体に生命あらしめる原動力で、神の属性とも、一様相ともされる女性原理である[23]。二元論のサーンキヤ哲学同様に、宇宙の最高原理である神は永遠不滅で自らは活動しないとし、神妃になぞらえられるシャクティが宇宙の生成消滅を司った[23]。シャクティは、最高女神から下は魔女、妖精まで女性に帰せられ、人間の緊縛も解脱もその中にあるとされる[23]。シャクティは解脱の障碍にも宇宙支配の手段ともなり、なだめ支配する必要があるとされ、これは性の謳歌に通じた[26]。一方、退廃の危険性をはらみ、淫乱・狂操という性格も持っていた[26]。人間を生贄にする人身供犠のような、血なまぐさく陰惨な側面もみられた[27]。
宇宙全体の主になりコントロールするという考えから、治病、蘇生、占星術、魔法などの俗信的要素とも結びついた[23]。神通力・神秘力の体得がもてはやされ、特有の行法の秘儀・神秘的人体学が発達した。こうした神秘的な人体生理学は、古くヴェーダの神学者が祭式を宇宙のめぐりの象徴としてみたように、個人の生命力を宇宙のエネルギーと同一視し、そこに人間を参加させるものである[28]。宇宙生命力としてのプラーナが、人体のナーディー(脈管)を循環し、チャクラに集約されると考えられた[28]。ヨーガが真理に到達するための主な方法のひとつである[25]。ヨーガによって会陰部のムーラダーラ・チャクラのクンダリニー女神(プラーナ(気)、シャクティ(明妃)、ビンドゥ(精滴)とも。タントラ仏教の場合はボーディチッタ(菩提心)とも[29])を目覚めさせ、頭頂のサハスラーラのシヴァ神と合一することで法悦に浸るとされ、このヨーガに関連して、マンダラ、ヤントラ(聖なる幾何学模様)、チャクラ、ムドラー(印契)といった神秘的道具、附属物が考案され、グルによる入信聖別式は秘密性を深めた[28]。秘儀性は常識を超えた社会的禁忌へと接近させ、肉食、飲酒、乱交の勧めともなった[28]。
仏教学者の津田真一は、インド密教の「般若・母系タントラ」に分類される『ヘーヴァジュラ・ラントラ』とサンヴァラ系密教は、インド中世社会の裏面に存在した(と推定される)魔女崇拝的なカルト「尸林(屍林)の宗教」(津田の造語[注 1])を採り入れたと考え、その宗教について次のようの説明している。
彼女ら(インド中世社会の裏面に存在した(と推定される)魔女崇拝的なカルトで、その儀礼の基盤を形成している一種の鬼女であるダーキニー(荼枳尼)あるいはヨーギニー(瑜伽女))は現実にはインド各地に点在するそのカルトの聖地・巡礼地(それをpithaという)に土着の(ksetraja)賤種階級に属する女たちであり、その階級に特有の、空中飛行等の魔術的な能力(siddhi)と、そして異常なる性的能力を所有している(と想像されている)。彼女らは特定の祭礼(メーラー、mela)の夜間、尸林(smasana)、すなわち、地域の共同の墓所、火葬所ないし屍体遺棄所に集会してグループ(cakra、輪(りん))を形成し、肉食(時には人肉をも)、飲酒、奏楽歌舞して一種の狂宴(オルギー)を現出する。そのオルギー的儀礼の中心をなすものは、尸林の(賤種に対応する)シヴァ神たるバイラヴァ(Bhairava)と同視される男性行者(外来の「勇者」viraすなわち、virileなる、瑜伽(ヨーガ)に熟達した指導者)を中央に囲んで行う集団的な性交(samayoga)であり、それによってその場にこの世のものならぬ快楽の状態を現出する。[31]
こうした尸林(墓地)で行われた性ヨーガと酒宴を伴う共食の儀礼は、ガナチャクラ(聚輪)と呼ばれる場合もある[32]。津田は、この邪教的な儀式の意味は、神話によって次のように説明されると述べている[31]。シヴァ神の貞淑な妻サティーは夫の名誉のために焼身自殺し、妻の死に激怒し暴れ狂うシヴァ神を見かねたヴィシュヌ神は、死んだサティーの身体をバラバラに切断し世界にばらまき、この身体の部位が落下したところが聖地ピータ(pltha)である[31]。尸林での儀礼において、ピータはダーキニーたちの「座」であり、座にある彼女たちは切断され地上に落下したサティーの身体の部分である[31]。彼女たちが儀式でこの世のものならぬ快楽サンヴァラによって統合されることは、「それはサティーが生き返ったこと、世界の存在性がその善き、美しき局面において回復されたことを意味し、またそれは、他面において世界の意味としての神がsivaなる(吉祥なる、恵み深き)ものとして新たに生成したこに他ならないのである。」[31][注 2]
12-13世紀にはタントラの影響下で、ヨーガの密教版ともいえるクンダリニーの重要性を説くヨーガが生まれ、ハタ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガと呼ばれた。ハタ・ヨーガは体位坐法・調息法・ムドラーなどの身体的修練を重視し、プラーナ(気)の流れを論じ、肉体の限界に挑み、さらに超能力の獲得や神秘体験も目指される[29]。その人体生理学は、シヴァ派のタントラやタントラ仏教(密教)、『バルド・トェ・ドル(チベット死者の書)』の説と共通点が多い[29]。
伝統的なタントリカ(タントラ入信者)の修行は秘密主義的であり、社会的なものごとを真っ向から拒絶する(そのため外部からの想像力を誘う面がある)[20]。世間の人々と関わらないという教えは、パーシュパタ・スートラにまで遡り、修行者たちはさらに、世間の人々に孤独を脅かされないよう、彼らに否定的なイメージを与えるよう教えられている[20]。そのため伝統的なタントラのある地域では、彼らは生きた食屍鬼、恐るべき「他者」として想像されている[20]。古典的描写と現代的描写の両方で一般的に、人身御供や人食い、セックスなどを通じて、常に力を求め、規範を拒否する人間として描かれており、どちらも中心にあるのは違反行為である[20]。また、どちらの描写でも、慈悲や愛のないものと描かれる[20]。タントリカは社会規範の外にある恐ろしい他者として描かれているが、現代ではセックスの肯定が強調されることで、ややロマンチックなものになっている[20]。
現代インドにおけるタントラへの拒絶や流用は、西洋の東洋学者の影響を受けている[20]。アーリヤ・サマージ(1875年設立)のダヤーナンダ・サラスヴァティーやブラフモ・サマージ(1828年設立)のラーム・モーハン・ローイ等のインドのヒンドゥー教改革運動の活動家・思想家は、古代インドは純粋な一神教であったという西洋人受けするロマンチックな栄光の過去のイメージを持ち、タントラや多神教、偶像崇拝を、その次の退廃の時代の産物であると考え否定した[20]。キリスト教の宣教師達はタントラに注目し、ヒンドゥー教を汚らわしく血生臭い偶像崇拝の左道として描写し批判した[20]。
仏教
編集仏教もヒンドゥー教のタントリズムの潮流の影響を受け、パーラ朝 (750頃 - 1199頃) の頃に、大乗仏教から秘密仏教、すなわち密教が生じ、盛んになった[25][34][35]。無上瑜伽タントラとも呼ばれるインドの後期密教を、俗にタントラ仏教とも言う[36]。デビッド・B・グレイは、仏教コミュニティには古くから在家信者も含まれていたため、僧侶の修道生活や禁欲生活が仏教の全てというわけではなく、仏教のタントリズムの伝統は、在家信者により適した霊的な道の発展を通じて、僧侶の権威に挑戦したと述べている[24]。
人間の世界の外側に象徴的な聖なる仏の世界が実在的にあるものとされ、インドの密教では、俗なる世界にいる在家の修行者が聖なる世界の仏と合一することを目指し、具体的な方法として音(マントラ(真言)、お経の朗読)、目(マンダラ(曼荼羅)の熟視)、身振り(ムドラー(印契)、熟慮など)を通じて涅槃(ニルヴァーナ)に達するとされ、最速で涅槃に至る道であるとされた[25]。マントラ、マンダラ、ムドラーは三密行と呼ばれる[36]。
インドの後期密教では、それまでほとんど行われなかった性的行法や生理的行法が大胆に輸入され、仏の世界の女性原理を般若波羅蜜(仏母、すなわち悟りを生む智恵)とし、般若波羅蜜を生身の女性(大印、マハームドラー mahāmudrā、または明妃、ヴィディヤー[要曖昧さ回避]vidyā[注 3])、特殊な魔術的能力を有するとされ、人身供犠など特異な儀式を行う瑜伽女輪(yoginīcakra)または荼枳尼網(ḍākinījāla)と呼ばれる集会を催す被差別民・アウトカーストの女性(ヨーギニー、瑜伽女、魔女)たちと同置して、彼女らと性的にヨーガ(瑜伽、合一)することで、中性的真実在の現成(悟り)、即身成仏を目指した[36][21][38][39]。性ヨーガによる成仏を唱えたことで、他宗派からは左道密教と呼ばれる事もあるが、その本質は「インド的精神性の原点への復帰」であると考えられる事もある[38]。
仏教学者の津田真一は、インド密教の分類法において無上瑜伽タントラのうちの「般若・母系タントラ」に分類される『ヘーヴァジュラ・ラントラ』とサンヴァラ系密教の本質を、「尸林の宗教」(津田の造語)と規定し、魔女崇拝的なカルトに属するダーキニー、ヨーギニーと呼ばれる賤種階級の女性たちが墓所や火葬所、屍体遺棄所に集まり、外来の男性ヨーガ行者と行う集団的性交の儀式が持つ心理・生理的な強度に仏教徒が着目し、そこに実践の基盤を移して成立させたのが般若・母系タントラであり、彼ら仏教タントリカ達はその快楽の状態をサンヴァラ(samvara、最勝楽)と称し、悟りの境地と同視したと説明している[31]。般若・母系タントラは、一種の鬼女であるダーキニー、ヨーギニー、すなわち「母たち」を般若波羅蜜と同視することで成立している[31]。
インド密教において瑜伽女(ヨーギニー、ダーキニー)は、下級の鬼神を出自としながらも、半女神から至高の存在にまでなった尊格を体現する女性であり、男性ヨーガ行者にとっての理想的な、仏教徒によって教化された従属的な性ヨーガのパートナーとしての女性でもある[40][41]。行法としての側面から見ると、男性の女性支配が前面に出ることもあれば、男性ヨーガ行者が畏怖する存在として、彼らから自立し優越する瑜伽女という側面もあり、共に母なるもの、般若波羅蜜を具現した存在であるとされ、その女性観は両義的である[40]。儀式において阿閣梨の性ヨーガの相手を務めた女性については、ヨーガに熟達した女性指導者であるとも、または儀式に捧げられた16歳(または12歳から25歳)の若い処女であるともいわれる[41]。文献には、性ヨーガの相手としての大印、明妃について、容姿と年齢の具体的指定が見られる。
密教はその豊富な儀式と瞑想の技法によって、霊的にも世俗的にも強力な力を発揮する霊験あらたかな仏教と捉えられてきた[42]。密教の教典や師はしばしば、密教儀式による国家鎮護が可能であると主張し、それにより、何人もの唐の皇帝に長年仕えた不空のように、支配者の庇護を得ていた[42]。儀式は密教を権威付けた最も重要な要素の一つであり、権力者によって公的に保護され、中世アジアの全土への普及を促進した[24]。インド密教の経典は中国・チベットで皇帝の支援を受けて翻訳されたが、敵を殺害する黒魔術的儀式もある密教は権力に対する潜在的脅威とみなされる可能性があること、密教経典が含む逸脱的レトリックは、政治秩序だけでなく伝統的な道徳体系、ひいては社会秩序に対する脅威とみなされる可能性があることから、権力による検閲と翻訳者による自己検閲が行われ、密教の受容は選択に行われた[42]。中国では仏典の翻訳と帝国との結びつきが非常に強かったが、チベットは10-11世紀までに複数の小規模な地方政体に別れたため、チベットでのタントラの翻訳は政治当局からの監視が弱まった[42]。西チベットの何人かの支配者は、タントラ文献の普及をコントロールしようとして失敗し、チベットでタントラの文献と実践がほぼ制限なく広まる一因となった[42]。
密教はチベット、ブータン、モンゴルで特に発展し、これらの地域では唯一の仏教宗派となり、西洋ではラマ教(ラマイズム)とも呼ばれた[25]。後期密教は中国大陸においてはサキャ派を保護した元王朝など、モンゴル文化圏で支持されたが(モンゴルの仏教)、日本では中期密教の勢力が強く普及しなかった。
近現代のタントラ
編集インド亜大陸で生まれた、主に女神シャクティを崇拝し、社会の精神や規範に反し、多様な象徴を利用し、秘密主義的な特定のグループ内で信仰を共有・伝承する宗教的慣習は、西洋でタントラと呼ばれ、大部分のヨーロッパの東洋学者、イギリスの植民地当局、ヴィクトリア朝時代のキリスト教宣教師にとっては、性的逸脱と黒魔術の薄暗い宗教として否定的に理解され、「悪魔の乱交」「最も粗野で汚らわしい黒魔術」等と批判された[5]。
神智学者のW・L・ハレや、同性愛権利論者で、性の解放・性科学を説いたエドワード・カーペンターといった西洋思想家の著作も、タントラ思想の影響を受けている[43]。
多くの仏教やヒンドゥー教のタントリズムの文献に含まれる性的な言説から、西洋ではタントラという言葉が性愛と包括的に関連付けられているが、これは現代的な現象であり、西洋人が19世紀から現代に至るまでのアジアの宗教的伝統の要素を流用し、変革を試みた結果である[24]。
近代タントラ学の父 ジョン・ウッドロフ
編集ジョン・ウッドロフ(アーサー・アヴァロン)は、近代タントラ学の父として知られており、英領インドの裁判官であると同時に、シヴァチャンドラ・ヴィッディヤルナヤ・バッタチャルヤというベンガル地方のグルに帰依したタントリカだった[44]。著作の中で、タントラの暴力的イメージを刷新を試み、タントラの女性原理を慈悲深いものとして説き、インド哲学のアドヴァイタ・ヴェーダーンタをベースにタントラの宇宙論の再解釈を行った。
ウッドロフの著作『シャクティとシャークタ』(1918年。1920年改訂)では、非体系的で網羅的にタントラが論じられているが、「母神礼拝」「母神礼賛」「シャクティ崇拝」という女性原理をめぐる儀礼実践が繰り返され、女性原理の「シャクティ」、あるいは、シヴァ神との結合を果たした両性具有者・原理である「シヴァ・シャクティ」を理論の中核に据えている[45]。(同時代のヴィヴェーカーナンダの男性主義的ナショナリズムや、植民地主義イデオロギーの特徴である超男性性(ハイパー・マスキュリニティ)とはかなり対照的である[45]。)
『シャクティとシャークタ』は、「女性のシャーストラ」とも呼ばれる『マハーニルヴァーナ・タントラ(Mahānirvāna-tantra)』の詳細な研究に由来しており、「女神を恐ろしい、暴力的力を持つカーリー女神のイメージとして描写する他のタントラ文献とは対照的に」、タントラの女性原理が「無限の憐れみを持つ〔…〕慈悲の蜜の大海」として語られている[45]。これは、ウッドロフの著作が、同時代の植民地主義者や、ベンガル人郷紳層のタントラ思想への偏見を壊そうとする試みであったことも理由にある[45]。
本書の宇宙論は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの枠組みをベースにしており、シャクティ崇拝、シャークタ派のヨーガ思想における解脱(モクーシャ)は、アートマンと「現実」「全体」「全て」との融合を意味するものであると説明している[45]。
彼のヨーガ論は、ヴィヴェーカーナンダが重視したラージャ・ヨーガ(静的な瞑想)ではなく、「蛇(性欲)の力」であるクンダリニー・ヨーガ(ラヤ・ヨーガ)に依拠したもので、解脱をシヴァ神とパールヴァティ―姫神の象徴的結合を身体化したものとみなしている[45]。『蛇の力』(1919年)では、クンダリニー・ヨーガで精液が頭頂に達するウールドヴァレーターにおける「精液」は、「微細な精液」とされ、体外に排出される「粗雑な精液」と区別されており、超ジェンダー的な両性具有的エネルギーとなっている[45]。
社会思想史の研究者間永次郎は、マハトマ・ガンディーは非正統的な独自のブラフマチャリヤ思想を説き実践したが、この思想との関係で、影響を受けたとして唯一個人名を挙げているのがウッドロフであり[46]、青年期の性的トラウマからくる自身の抑圧的なブラフマチャリヤ思想を乗り越え、拡大する哲学的基盤になったと評している[47]。
O.T.O.とアレイスター・クロウリーの性魔術
編集テオドール・ロイス[注 4]やアレイスター・クロウリー、アメリカ人ヨーガ行者でオカルティストのピエール・バーナードなど、19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパ・アメリカでは、性の解放と肉体の賛美の道としてタントラを強く求める人も現れた[5]。カール・ケラー[注 5]と、テオドール・ロイスが設立した性魔術を行うドイツのオカルト団体・フリーメーソン組織 O.T.O.(東方聖堂騎士団、東方テンプル騎士団)等の近代ヨーロッパの秘教グループや、イギリスのオカルティスト達、アレイスター・クロウリーは、タントラを肯定的に再評価した[5]。 O.T.O.の実践の多くは、アメリカの心霊主義者パスカル・ビヴァリー・ランドルフや、ルクソールのヘルメス同胞団などの19世紀の西洋の性魔術の活動から明らかに影響を受けているが、19 世紀の東洋学者によるタントラの研究からも大きく影響を受けている[5]。ロイスはタントラをあらゆる神秘主義と宗教の最も深遠な源泉と捉え直し、彼以前の多くの東洋学者と同様にタントラを性愛と同一視して「性宗教」とみなし、西洋古代の男根崇拝と何ら変わりはないと考えた[5]。ロイスは、タントラの性的な実践と自身の新グノーシス主義の霊性を結びつけることで、肉体の本能を否定する抑圧的な道徳に代わる新しい道徳、新しい文明、新しい社会の新時代をもたらしたいと考えていた[5]。
O.T.O.の最も影響力のある指導者は、物議を醸したイギリスのオカルティスト、詩人、小説家のアレイスター・クロウリーで、彼は黄金の夜明け団など様々な西洋の秘教グループに参加し、ヨーガ、仏教の瞑想、タントラなどの南アジアの慣習について書いた[5]。彼のタントラに関する実際の知識はそれほど深くなく、ほとんどが二次資料から得たものだったが、自身の性魔術の体系とタントラの技法に類似点があると考えた[5]。また、自身の性魔術に自慰行為、同性愛を取り入れ、これらは南アジアのタントラの伝統とは全く異なるが[注 6]、20世紀初頭のイギリスでは自慰行為は精神異常を引き起こすと広く信じられており、男色は違法であったため、彼の性魔術の特徴であるタブーの侵害を意図したものだったようである[5]。
聖なるセックスの実践はペイガニズムにも見られ、ペイガニズムの重要な先駆者である魔術師のアレイスター・クロウリーは、意識状態の変化をもたらすために、タントラも取り入れて性的呪術を作った[49]。ただし、研究者の岡田明憲は、クロウリーの性魔術とタントラは本質的に無関係であり、クロウリーによる両者の強い関連性の主張は、彼の誤解によるものであると述べている[48]。
クロウリーの信奉者ケネス・グラント(1924 - 2011年)が、クロウリーの魔術とタントラの統合の多くを行った[5]。グラントは1960年代・1970年代にクロウリーの著作への注目を復活させ、盛り上がりつつあったカウンターカルチャーと性革命の中でクロウリーの著作はうまく受け入れられた[5]。グラントによるクロウリーの魔術とタントラの統合は、その後のほぼ全てのオカルティズムとニューエイジに永続的な影響を与え、今日これらは Left-Hand Path (LHP、左道)として広く知られ、ネオペイガニズム、オカルティズム、現代のサタニズムの実践者によって様々な形で表現・実践されている[5]。グラントは、ヨーガをアメリカに伝えたインド人グルヴィヴェーカーナンダや、ヒンドゥー教改革者達とは全く対照的に、ヴァーマーチャーラ(vāmācāra)をタントラの実践の最高の形態とみなした[5]。グラントは、ヴァーマチャーラは酒、肉食、性液など通常は不純として禁じられている物を意図的に摂取することで、人間と神の境界を含む全てのタブー、全ての社会的境界を越えることを目指すものだとみなし、「究極の目的は女神への完全な没入であり、これは時には女神の化身である女祭司との性的結合を通じて達成される」と述べている[5]。
ヴァーマチャーラ・タントラの最も影響力のある推進者の一人に、物議を醸したイタリアの学者ユリウス・エヴォラがいる[5]。
サタン教会系での左道の過激化と自己神格化
編集物議を醸したサタン教会の開祖アントン・ラヴェイ(1930年 - 1997年)は、最もわかりやすく有名な左道への転向者であり、「カウンターカルチャーのダークサイド」を代表する人物でもある[5]。ラヴェイにとってサタン(悪魔)とは、地獄にいる想像上の存在ではなく、肉体的、官能的、性的、暴力的な衝動と欲望のすべてを備えた人間の象徴であり、肉体的欲望の道、世俗的な欲望と個人的満足の宗教としての左道の実践の具現化である[5]。
こうした左道の理想は、サタン教会やその他の多くの分派に引き継がれた[5]。左道の悪魔的バージョンの最も明確なものは、ラヴェイの娘ジーナ・シュレックとパートナーのニコラス・シュレックによる活動である。シュレック夫妻は2002年の著書『肉体の悪魔: 左道の性魔術完全ガイド(Demons of the Flesh: The Complete Guide to Left Hand Path Sex Magic)』は、左道の本質的なエリート主義と非民主性を強調するエヴォラの考えを反映しており、彼らの見解では、左道とは危険な儀式に従事できる少数の強者だけのためのものだとされている[5]。シュレック夫妻は南アジアのヴァーマチャーラ・タントラの伝統に根ざそうとしているが、伝統かなり改変しており、彼らの左道は何よりもセックス、エロティックな儀式、「性的高揚」を重視し、あらゆる社会的、宗教的タブーの明らかな侵害を求める[5]。『肉体の悪魔』は、「セックスは力である」という原則を掲げ、「サドマゾヒズム、乱交、タブー破り、フェティシズム、オーガズムの持続、性的吸血鬼行為、神や悪魔の存在との儀式的性交、女性的悪魔性の覚醒」、および「エロティックな脱洗脳と脱条件付け」の秘密を明らかにすることを約束しており、宗教学者のヒュー・アーバンは、シュレック夫妻の左道は、南アジアのタントラの最も「ハードコア」な形態よりはるかに過激だと述べている[5]。
アメリカのタントラとピエール・バーナード
編集宗教学者のロバート・C・フラーは、個の境界を揺るがせる性愛の力は、「アメリカのタントラ」と呼べる歴史的伝統の中核を形成しており、これは約1世紀半にわたりアメリカ文化に存続してきた「性ヨーガ(タントリック・セックス)」の緩やかなつながりの系譜であると述べている[50]。
アメリカのタントラの初期の人物には、霊的実践を性魔術の体系に統合した最初のアメリカ人の一人で、自由黒人のパスカル・ビヴァリー・ランドルフや、タントラやヨーガを教えたアメリカ人ヨーガ行者でオカルティストのピエール・バーナード(1875年 - 1955年)がいる[50]。
ピエール・バーナードは、アメリカにおいて、タントラの現代的再解釈でおそらく最も重要な人物で、アメリカにおけるヨーガの創始者と讃えられることもある[5]。彼の経歴は曖昧だが、アメリカで生まれ、ネブラスカ州にいた10代の頃、カルカッタ出身の若いシリア系インド人と親しくなり、2人はオカルトに興味を持ち、バーナードは彼の弟子になってヨーガとヴァーマチャラ・タントラの基礎を学び、西海岸を旅してヨーガとアメリカ風の新しい形のタントラを教えた[5]。1906年にピエール・バーナードという名前でアメリカに独自のタントラ教団「タントラ兄弟団(Tantrik Brotherhood)」を設立しサンフランシスコ地震の後ニューヨーク市に拠点を移し「東洋の聖域(Oriental Sanctum)」バーナードの教団は、おそらく米国で最初のネオタントラのグループであり、作曲家のレオポルド・ストコフスキーや鉄道王のヴァンダービルト家の人々といった著名人・富裕層の一部を魅了した[5]。バーナードはテオドール・ロイスやアレイスター・クロウリー等のヨーロッパの同時代人と同様に、性欲こそが人間の本性における最も根本的で強力な衝動であり、個人および社会の変革の鍵であるとみなし、愛と性の力を認め、その衝動を霊的・精神的開放の手段とするタントラは特別な宗教的技法だと考えていた[5]。ニューヨークのマスコミで激しいゴシップとスキャンダルの的となり、大衆メディアで「愛のグル(Loving Guru)」と呼ばれ、東洋の音楽と女性の(快感の)叫び声が聞こえるタントラ・セッションで悪名高く、周辺住民は男女のいかがわしい有様を見聞きしたと述べており、地元の評判は悪かった[5]。
彼のアメリカ独自の実践の影響は大きく、20世紀・21世紀のタントラの大部分の再定義に寄与した[5]。1996年にニューエイジの教祖ニック・ダグラスはバーナードのグループを引き継いでタントラ教団を創始し、バーナードのタントラ文書の「かなり性差別的で、難解で時代遅れ」な言葉遣いを一部修正し「ニューエイジ」に向けてタントラの秘密を提供した[5]。
心理療法と代替医療における身体ムーブメントとエサレン研究所
編集アメリカのタントラの発展におけるもう一つの重要な段階は、心理療法と代替医療における「身体ムーブメント」で、心理学者のヴィルヘルム・ライヒ (1897年 - 1957年)が最も重要な人物である[50]。彼は、身体に潜む性的エネルギーを「発見」してオルゴン・エネルギーと呼び、これは脊柱に沿って流れ、(トラウマによる強張りで生じた)「身体の鎧」の7つの部分である「リング」が脊柱に沿って存在すると考えた[50]。宗教学者のジェフリー・クリパルが指摘しているように、彼のシステムはアジアのタントラの主要な教義を要約したものとなっている[50]。
ニューエイジの中心の一つであるエサレン研究所は、スタンフォード大学の卒業生マイケル・マーフィーとリチャード・プライスが人類の進化を促進するために設立したもので、多くの心理学者や宗教の教師が教え、ボディワークやマッサージが行われた[50]。ヨーガやアジアの霊的実践のクラスが毎週設けられ、現在アメリカのタントラの伝統を構成する多くの教えや実践を後押しした[50]。
エサレンでは様々な著名人が教え、全員が性愛が霊的変容の鍵であるという考えを称賛したわけではないが、何らかの形で次のような霊的ビジョンの発展と普及に貢献した[50]。
- 正統的な聖書の伝統から外れ、自らを新しく啓示されたもの、大胆で反抗的なものとして表現する。
- 肉体に対して肯定的な態度を取り、聖書の宗教の潔癖な傾向を非難する。
- 悟りに至るために、過激で逸脱した方法の使用を提唱し、時にアルコール、幻覚剤、性交の儀式的利用など、物議を醸すアンチノミアニズム(反律法主義・無律法主義)的な実践を行う。
- 肉体を小宇宙として理解し、宇宙全体または大宇宙のすべての力やエネルギーを模倣する。
- 神秘的生理学の「微細身(サトル・ボディ)」と「微細なエネルギー(サトル・エネルギー)」の存在を肯定する。[50]
このようにエサレン研究所は、アメリカの代替的霊性のタントラ的要素の情報センターとして、非常に重要な役割を果たしたが[50]、ヌード・セラピーやセックス・セラピーが提供されることはなかった。
エサレン研究所の初期の貢献者の一人アラン・ワッツは、1971年に、タントラの基本原理を解説する『Erotic Spirituality(エロティック・スピリチュアリティ)』を出版した[50]。彼の解説では、タントラは標準的なヨーガのほぼオーソドックスな発展形とされ、ヨーガの実際の訓練は、一時的な精神の停止をもたらす様々なウパーヤ(悟りへと導く巧みな手立て)で構成されており、エロティックな緊張と性的なオーガズムは、昔ながらのウパーヤの中で最も効果的であると説明した[50]。セックスは我々を非言語的な次元の経験に導き、個人的なエゴの世界を超えて、愛の広大な空(くう、Śūnyatā)へと導いてくれるのだという[50]。
また、チベット学者のジェフリー・ホプキンスは『Sex, Orgasm, and the Mind of Clear Light(セックス、オーガズム、そして澄んだ光の心)』を出版し、本書は人気を博した[50][注 7]。性的な神秘主義がいかにアメリカ人の代替的な霊的修養の探求に浸透したかが明らかにされており、その主なメッセージは、(キリスト教の原罪と対照的に)ヒンドゥー教と仏教の伝統はどちらも、人間の心の本質は「澄んだ光(光明)」であり、明るく智恵に満ちている(自性清浄)と主張しているということである[50]。オーガズムの快楽は、異性愛であれ同性愛であれ、粗大な意識レベル(通常の自我意識)の停止を伴い、それにより心のより微細なレベルが顕れるとし、オーガスムは私たちの本質を明らかにするもので、性ヨーガの目的は、目に見えるものの奥にある至福と空(くう)という根本的現実を明らかにすることであると述べている[50]。
オショー・ラジニーシ運動
編集ヒュー・アーバンは、現代のタントラの世界的普及で最も大きな役割を果たしたのは、バグワン・シュリ・ラジニーシ[注 8]、晩年にはオショー(1931年 - 1990年)として知られた物議を醸したインド人グルであると評している(便宜的にオショー・ラジニーシと表記)。彼は今日、1980年代にオレゴン州中部に大規模で短期間ながら非常に成功したユートピア共同体を設立し世界的な注目を集めた「ロールスロイスのグル」「お金持ちグル」「セックス・グル」として知られている[5][51]。アーバンは、「Netflixの最近のドキュメンタリーシリーズ『ワイルド・ワイルド・カントリー』に見られるように、このユートピア的な実験はすぐに軌道を外れ、米国史上最大のバイオテロ攻撃(ラジニーシ教団によるバイオテロ事件)や最大規模の移民詐欺、盗聴陰謀等の一連の犯罪行為に終わった」が、オショー・ラジニーシ運動は「そのさもしく時にシュールな歴史にもかかわらず、世界的な文脈におけるタントラの現代的な発展と変容を理解する上でも極めて重要である[注 9]」と述べている[5]。オショー・ラジニーシはカリフォルニアのエサレン研究所などのニューエイジ・センターで広まっていたアメリカ風のタントラと性的解放の理想に強く影響を受け、ヒンドゥー教と仏教のタントラの側面をアメリカのニューエイジ運動にあった現代の心理学、精神分析理論と技法と統合し、「ネオタントラ」という語を作った[5][51]。彼は無礼なユーモアと、ガンディー、ネルー、マザー・テレサなどの宗教的指導者・政治的指導者に対するアイコノクラスティック(偶像破壊的)な攻撃で知られ、「インドで最も危険なグル」として悪名高くなり、インドのアーシュラムには欧米の若者が集まり、ここでヒューマン・ポテンシャル運動のセラピスト達に実験的な試みを行わせ、「東洋のエサレン」として知られ、一時期エサレン研究所と活発に交流した[5][52][注 10]。
アーバンは、オショー・ラジニーシの哲学は因習を打破しようとするものだが、折衷的で、しばしば矛盾しているように見えると評し、その核心にあるのは、「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想であると述べている[5]。オショー・ラジニーシは、他の宗教が物質的なものと霊的なものを分離しようとするのに対し、完全に悟りを開いた存在は、『その男ゾルバ』の主人公のギリシャ人ゾルバの感覚的な享受と生への欲望と、仏陀の精神性と超越的な洞察力とを併せ持つと主張した[5]。
彼は最初から既成のイデオロギーを覆し、それまでのあらゆる考え方を再定義しようとし、その運動は、既存のあらゆる伝統の教条主義を否定する「無宗教の宗教」と呼ばれた[5]。彼の信奉者たちは、「官能的な快楽や世俗的な欲望の追求を放棄する必要がある」という考え「のみ」を放棄した「ネオ・サンニヤーシン」と呼ばれ、彼が教えた瞑想は、原始的な叫び声や自由な形態のダンスを伴うダイナミックなセッションだった[5]。また、伝統的な南アジアのタントラを再定義し、性愛と性的快楽、オーガズムの原始的な力を究極の神性の源、一種の「超意識」に変えることに主に焦点を当てた独自の「ネオタントラ」を創り出した[5]。その性愛の理解とタントラの再定義は、ポスト・フロイト派の精神分析家ヴィルヘルム・ライヒの研究に大きく依拠しており、クンダリニーは肉体に潜在する一種の原始的な性的エネルギーであるというオショー・ラジニーシの考えは、肉体を巡る生来の性的パワーであるオルゴン・エネルギーというライヒの概念と十二分に似ている[5]。また、ライヒと同様に、性的抑圧を社会的、政治的抑圧と明確に結び付け、したがって性的解放を社会的、政治的変革の究極の源泉と見なしており、ライヒのことを、東洋の源泉とは独立してタントラ・セックスの秘密を発見した一種の西洋のタントリカだと認識していた[5]。
1960年代から1970年代にかけて、タントラはカウンターカルチャーと性革命の重要な部分となり、 オショー・ラジニーシ等の有名なグルが「ネオタントラ」の実践を推進し始め[5]、ニューエイジと自己啓発運動の中で広まった[51]。バーナードのような西洋のタントラ指導者やラジニーシのようなインドのグルはどちらも、セックスと瞑想を融合したエキゾチックで興奮させられる慣習という西洋人的なタントラ文化のイメージに賛同している[20]。東洋と西洋を複雑に融合させたオショー・ラジニーシのネオタントラは、1970年代以降、ヨーロッパとアメリカで人気のある性ヨーガのほぼすべてに多大な影響を与えている[5]。
現代のタントラはニューエイジと自己啓発運動の中で広まり、ネオタントラのセンターの設立者、現在活動しているタントラの指導者は、マーゴ・アーナンダ等オショー・ラジニーシの弟子が多い[51]。ネオタントラは現在、主に「スピリチュアルな性科学」の一種と考えられている[5]。ハワイでアート・オブ・ビーイング(The Art of Being)を運営するアラン・ローウェン(Alan Lowen)もタントラの指導者としてよく知られている[51]。人気のある書籍の多くがオショー・ラジニーシの直接的な影響を認めているだけでなく、マーゴ・アーナンダの『The Art of Sexual Ecstasy(性的エクスタシーの技法)』(1990年)、訓練を受けたライヒ派セラピストのアニーシャ・ディロン『Tantric Pulsation(タントラの鼓動)』(2005年)等の弟子の作品が多大な影響力を持つベストセラー作品となっている[5]。また、タントラとヨーガに関する彼自身の書籍やDVDも世界中で売れ続けている[5]。
広まりと消費文化
編集ニューエイジは一般的に「自己の祝福と近代性の神聖化」を特徴とするが、「ネオタントラ」や「アメリカン・タントラ」とも呼ばれる現代のタントラは、そのわかりやすい一例となっている[5]。ネオタントラでは、男女の親密な交わりが霊性の発達に必要であると主張され、男女の関係を向上を目指す[49]。
アラン・ワッツやジェフリー・ホプキンスは、幅広い学問的背景を活かしてタントラと霊的なセックスにアプローチしたが、一般読者の多くは大雑把に折衷的(シンクレティズム)であり、スーフィーダンス、太極拳、ネイティブ・アメリカンの伝承、自己啓発(セルフヘルプ)の俗流心理学、西洋のオカルティズムなどの他のニューエイジの関心事とタントラを混ぜ合わせている[50]。近現代のアメリカのタントラの伝統は、ヒュー・アーバンが言うように、「東洋と西洋、古代と現代の糸が交差し、学術的および一般的な想像力の複雑な異文化相互作用によって織り上げられ、それぞれの時代において新しく創造的に再構築された、密に絡み合った網の目のようなもの」となっている[50]。
近代化、グローバリゼーション、消費資本主義の文脈によって、タントラの表現、一般的なイメージ、実践は、過去200年間で劇的に変化しており、タントラは現代の世界的な大衆文化のあらゆるところに見られる[5]。1980年代から1990年代には、大衆化されたネオタントラは、ニューエイジ運動、もっと広く代替的霊性(スピリチュアル系)に広まり、無数の書籍、映像、官能的な商品を通じて大量に販売され、多くの点でニューエイジ・スピリチュアリティ全体の象徴となっている[5]。これらは基本的にセックスありきのタントラという考えに基づいており、インドの古典『カーマ・スートラ』のエロティックなセックスの体位と、健康的な範囲での「セックスの喜び」との組み合わせである[5]。タントラは自己実現と個人的な喜びへの究極の道として紹介され、「セックスによる涅槃」の技、「驚くほど素晴らしいセックス」の秘密とされ、タントラは「現代的な」実践であり、非常に個人主義的で、物質主義的で、即効性を必要とする我々のライフスタイルに適している等と宣伝され、その「秘密」はいたるところで簡単に知ることができる[5]。
現代のタントラ的スピリチュアリティは、軽薄な大衆化として批判されつつも、世界の多くの宗教にある女性、性、身体を蔑視、軽視、否定する考えに対抗し、肯定するスピリチュアリティを生み出し、普及させることに寄与しているとも評されている[49]。修行に何年もの時間を費やす伝統的なタントリカからは、西洋のタントラは快楽主義・物質主義の実践の一部になってしまっており、お手軽に成就者になれるという考えを起こさせるもので、本来のタントラの方法論が歪められているという批判もある。一方、アジアのタントラは男女の性の技法を扱わないことで衰退しているという批判もある[49](現代のチベット密教は生身の女性相手ではなく、イメージを用いるとされている)。
なお、現代の南アジアの大衆文化におけるタントラのイメージは、アメリカやヨーロッパの大衆文化におけるスピリチュアルで性的なイメージとは大きく異なり、タントラのテーマを扱ったボリウッド映画の大衆作品等では、ほぼ常に黒魔術、呪術、恐怖と同一視されて描かれている[5]。西洋と南アジアで、タントラは共通の起源を持ちながらも、それぞれの文化的背景の中でかなり違った形に発展し、南アジアの伝統的なタントラのイメージが別々の方向に誇張されている[5]。
インドの宗教の研究者スタネシュワール・ティマルシナは、タントラを性的逸脱と黒魔術の薄暗い汚らわしい宗教と捉える植民地時代の西洋の理解(誤解)は、伝統的にタントラを実践したインドの一部の人々とは対照的であり、西洋人はインドを「他者」とみて、彼らにとって神聖なものを文化の盗用と商品化の対象にしてきたと指摘している[20]。
日本
編集1970年代に「精神世界」への興味の高まりからタントリズムも紹介され、邪教と批判される際の見解そのままに評価を肯定的に反転させたかのような、「性的修行を行う現世肯定的な神秘主義」というイメージであったようであるが、これは単純化が過ぎる理解である[16]。
現代日本では、タントラはオウム真理教に利用された[25]。教祖の麻原彰晃が使った用語から、タントラの実践であるハタ・ヨーガを、ヒンディー語を経由した英語文献から学んだと考えられている[16]。オウム真理教には、神秘体験と超能力の素朴な追及が中心にあり、自己の本性についての理論的考察・反省が十分になく、サーンキヤ哲学風の真我論と仏教的な煩惱・無明の論理が無批判的に結合したことで、真我の本来の属性であるはずの「絶対自由」(意欲作用)を「無明」として滅していくという矛盾した修行体系となり、真の自己の成就を求めると言いながらも自己の滅却に帰結した[16]。また、ハタ・ヨーガなど本来のインド的な考え方では、師は弟子の中に潜在する力を目覚めさせる手助けをするのみだが、オウム真理教では師から弟子への一方的な恩恵という風に変質している[16]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 津田による「尸林(屍林)の宗教」という呼称は、多くの研究者が踏襲している[30]。
- ^ ただし、仏教学者の森雅秀は、インド亜大陸で尸林の宗教に関する儀礼(ガナチャクラ)が行われたことと、複数のピータがネットワークを形成し男性修行者がそれを巡礼することは同じではなく、検討する必要があると述べ、文献に登場するピータは全体が一つの円環となっており、その構造自体がマンダラと重ね合わされる等の意味が与えられているが、現実の聖地巡礼のルートは直線的に結びついているだけと思われ、構造的にも相似となっていないと指摘している[32][33]。
- ^ 後期密教経典「秘密集会タントラ」の解釈学派聖者流では、性的行法における生身の女性パートナーを業印(カルマムドラー、karmamudrā)、観想(イメージを用いた瞑想)上の女性パートナー(女尊)を智印(ジュニャーナムドラー、jñānamudrā)という。[37]
- ^ テオドール・ロイスはイギリス系ドイツ人のオカルティスト、フリーメイソン、ジャーナリストであり、西洋の性魔術とタントラについて多くの著作を書いた。その中には男根崇拝に関する『Lingam-Yoni』(1906年)もある。[5]
- ^ カール・ケラーはフリーメイソンで、イスラームのスーフィーと二人のヨーギーからタントラの性のテクニックを伝授されたと主張している。彼が学んだというヨーギーの一人は、インドのベンガル地方のタントリカだった可能性がある。[5]
- ^ 歴史的に、タントラの文献の性行為の説明は、階級や純潔等の規範の違反にもかかわらず、常に異性愛的である[5]南アジアの伝統的なタントラの大部分は、異性愛規範的でかなり本質主義的な形而上学的システムに基づいており、男女の結びつきでなくては意味をもたないため、同性愛のタントラは存在しない[48]。例えばヒンドゥー教のタントラでは、宇宙の男性原理と女性原理、シヴァとシャクティ、リンガとヨーニなどの相互作用を通じて宇宙が展開する。[5]。また、タントラの行法には自慰行為もほぼ見られない[48]。
- ^ この本の出版には、アメリカの異性愛者のスピリチュアル系の人々にタントラの原理を広めたゲンドゥン・チュンペルの 『チベット愛の書』のゲイ版を提供したいという彼の願いもあった。[50]
- ^ 「バグワン」は「栄光」や「聖なる」という意味で、伝統的な神の名前[5]。
- ^ 「Yet despite its sordid and often surreal history, the Osho-Rajneesh movement is also critically important for our understanding of the modern development and transformation of Tantra in a global context.[5]」
- ^ エサレン研究所の設立者の一人リチャード・プライスがオショー・ラジニーシに傾倒していたが、アーシュラムで行われているセラピーでの参加者同士の暴力などの過激な側面を知って幻滅し、交流は途絶えた[52]。
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