タラト・ザフェリ

北マケドニアの政治家
タラト・ジャフェリから転送)

タラト・ザフェリまたはタラト・ジャフェリ[1]マケドニア語: Талат Џафери, ['talat d͡ʒa'fɛri]1962年4月15日 - )は北マケドニアの政治家、元軍人。2017年から2024年まで議会議長を務め、2024年1月28日から同年6月23日まで首相を務めた。

タラト・ザフェリ
Талат Џафери
(2023年)
北マケドニア共和国の旗 北マケドニア共和国首相
任期
2024年1月28日 – 2024年6月23日
大統領ステボ・ペンダロフスキ
前任者ディミタル・コバチェフスキ
後任者フリスティヤン・ミツコスキ
北マケドニア共和国の旗 北マケドニア議会議長
任期
2017年4月27日 – 2024年1月25日
前任者トラジコ・ヴェリャノフスキ英語版
後任者ヨヴァン・ミトレスキ英語版
北マケドニア共和国の旗 国防大臣英語版
任期
2013年2月18日 – 2014年6月19日
首相ニコラ・グルエフスキ
前任者ファトミール・べシミ英語版
後任者ゾラン・ジョレフスキ英語版
個人情報
生誕 (1962-04-15) 1962年4月15日(62歳)
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国マケドニア社会主義共和国フォリノ英語版
(現在の北マケドニア
政党民主統合連合
子供2人
出身校ベオグラード陸軍士官学校英語版
署名

経歴

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1962年に、北西部のポロク地方に位置する村フォリノ英語版で生まれた。ザフェリはベオグラードサラエボにあるユーゴスラビア人民軍陸軍歩兵学校の陸軍士官学校で中等教育を受け、2013年に防衛学の修士号を取得した[2]。1985年から1991年まで、ザフェリはユーゴスラビア人民軍の士官を務め、1992年から2001年までマケドニア共和国陸軍士官として勤務[3]

2001年に発生したマケドニア紛争ではテトヴォ兵舎で佐官として、部隊を指揮。数日後に陸軍から脱走し、民族解放軍ゲリラとなり、出身地のフォリノを偽名として名乗った[4]。紛争終結後、身柄を拘束されるが、オフリド合意恩赦を受ける。2002年にマケドニア議会に初当選後、2004年から2006年まで、ザフェリは国防副大臣を務めた。2013年にはニコラ・グルエフスキ内閣の国防大臣に任命され、公約として軍隊を「共存、寛容、違いの尊重の象徴」にすることであると述べた。

2017年4月、アルバニア人であったザフェリは民主統合連合の支援を受けてマケドニア議会議長に選出されると、国会議事堂でデモが発生(2017年の北マケドニア議会襲撃英語版)。襲撃でゾラン・ザエフ首相を含む議会議員が負傷し、覆面をした15人のデモ参加者が検挙される事態に発展した[5]。2019年11月26日、アルバニア地震が発生した際、アルバニアのイリル・メタ大統領に哀悼の意を表明。その後、震源地のドゥラスを訪問[6]

2024年1月28日、5月8日に執行される議会選挙に伴い実質的な選挙管理内閣が樹立され、ザフェリが首相候補に指名された。議会はザフェリの首相就任を賛成65、反対3、棄権52票で承認[7][8][9]

2024年5月8日に投開票された議会総選挙により、保守系野党の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党連合が大勝し、ザフェリ陣営は下野する見通しとなった[10]

2024年6月23日、議会が内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党を中心とした3党連立政権を承認し、新たにフリスティヤン・ミツコスキが首相に選出された。 これをもってザフェリは首相の座を譲ることになった[11]

出典

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  1. ^ 中根外務副大臣のジャフェリ・マケドニア旧ユーゴスラビア共和国国会議長表敬”. 外務省 (2017年9月11日). 2024年2月16日閲覧。
  2. ^ Собрание на Република Северна Македонија - Демократска унија за интеграција” (英語). www.sobranie.mk. 2024年1月30日閲覧。
  3. ^ Dimovski, Sase (2013年2月22日). “Talat Xhaferi: Macedonia's Controversial Defence Chief”. Balkan Insight (BIRN). 2017年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ2024年2月16日閲覧。
  4. ^ Груевски го предложи Командант Форина од УЧК за прв човек на македонската одбрана”. kirilica.com. 2024年2月16日閲覧。
  5. ^ Testorides, Konstantin (2017年4月27日). “Protesters attack Macedonian lawmakers over leadership vote, dozens injured” (英語). Chicago Tribune. オリジナルの2017年4月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170429045125/http://www.chicagotribune.com/news/nationworld/ct-macedonia-parliament-protests-20170427-story.html 2024年2月16日閲覧。 
  6. ^ “Meta në Durrës me Talat Xhaferrin dhe Ali Ahmetin: Nuk do e harrojmë kurrë ndihmën tuaj” (アルバニア語). ABC News. http://abcnews.al/meta-ne-durres-me-talat-xhaferrin-dhe-ali-ahmetin-nuk-do-e-harrojme-kurre-ndihmen-tuaj/ 2024年2月16日閲覧。 
  7. ^ [1] ABCニュース 2024年1月28日配信 2024年1月28日閲覧
  8. ^ [2] Radiofreeeurope 2024年1月28日配信 2024年1月28日閲覧
  9. ^ Parliament elects caretaker Government led by Talat Xhaferi with 65 votes in favor Media Information Agency 2024年1月28日配信 2024年1月29日閲覧
  10. ^ [3]朝日新聞DIGITAL 2024年5月9日配信 2024年6月25日閲覧
  11. ^ [4]産經新聞 2024年6月24日配信 2024年6月25日閲覧
公職
先代
ディミタル・コバチェフスキ
  北マケドニア共和国首相
第13代:2024年
次代
フリスティヤン・ミツコスキ