大セルジューク朝
- 大セルジューク朝
セルジューク帝国 - آل سلجوق
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↓ 1038年 - 1157年(1194年) ↓ (13世紀初頭にルーム・セルジューク朝とアナトリア半島のベイリクに採用された双頭の鷲)
大セルジューク朝の最大版図(1092年)-
公用語 ペルシア語
アラビア語
オグズ・テュルク語宗教 イスラム教スンナ派(ハナフィー学派) 首都 ニーシャープール
(1038年 - 1043年)
シャフレ・レイ
(1043年 - 1051年)
エスファハーン
(1051年 - 1118年)
メルブ(東の首都)
(1118年 - 1153年)
ハマダーン(西の首都)
(1118年 - 1194年)- スルターン
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1038年 - 1063年 トゥグリル・ベグ 1118年 - 1157年 アフマド・サンジャル - 宰相(ワズィール)
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1064年 - 1092年 ニザームルムルク - 面積
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1080年 3,900,000km² - 変遷
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建国 1038年 ダンダーナカーンの戦い 1040年5月25日 バグダード入城 1055年 マラズギルトの戦い
(セルジューク・ビザンツ戦争)1071年8月26日 第一回十字軍 1096年 - 1099年 カトワーンの戦い 1141年 アフマド・サンジャル死去 1157年5月8日
現在 イラン
トルクメニスタン
ウズベキスタン
アフガニスタン
カザフスタン
タジキスタン
キルギス
中国
トルコ
アゼルバイジャン
アルメニア
ジョージア
ロシア
イラク
シリア
レバノン
ヨルダン
イスラエル
パレスチナ
エジプト
クウェート
アラブ首長国連邦
イエメン -
先代 次代 オグズ
ガズナ朝
ブワイフ朝
ビザンツ帝国
ファーティマ朝
カラハン朝ルーム・セルジューク朝
イラク・セルジューク朝
シリア・セルジューク朝
ケルマーン・セルジューク朝
ホラズム・シャー朝
ザンギー朝
ブーリー朝
イルデニズ朝
ダニシュメンド朝
アルトゥク朝
ナブハーニ朝
サルグル朝
ゴール朝
アイユーブ朝
シャッダード朝
ベイリク
大セルジューク朝(Seljuk Empire(ペルシア語: آل سلجوق)またはGreat Seljuq Empire[1][注 1])は、オグズのキニク部族から始まる中世盛期のトルコ系ペルシャ人[4]のスンナ派帝国である[5]。最大で大セルジューク朝は東は西アナトリア半島とレバントからヒンドゥークシュ山脈に至り南は中央アジアからペルシア湾に至る広大な地域を支配した。
大セルジューク朝は1037年にトゥグリル・ベグ(990年 - 1063年)と兄のチャグリー・ベグ(989年 - 1060年)により建国された。アラル海に近い本拠地からセルジューク族は最初ホラーサーンに拡大し、結局バグダードを確保し東アナトリア半島を征服する前にペルシャに拡大した。ここでセルジューク族は1071年のマラズギルトの戦いに勝ち、東ローマ帝国からアナトリア半島の殆どを征服し、第1回十字軍(1095年 - 1099年)の原因の一つになった。1150年から1250年に大セルジューク朝は衰退し、1260年頃にモンゴル族に侵攻された。モンゴル族はアナトリア半島を首長国に分割した。結局その1つのオスマン帝国が残りを征服することになる。
セルジュークは自分の名前を大セルジューク朝とセルジューク朝双方に与えた。セルジューク族は東のイスラム世界の分裂した政治情勢を統一し、第1回十字軍と第2回十字軍で主要な役割を演じた。文化[6]と言語[7]で高度にペルシャ化して[8]、アナトリア半島にペルシャ文化を輸出さえして[9][10]トルコ系ペルシャ人の伝統の発展にも重要な役割を演じた[11]。近隣の諸国の侵攻をかわす戦略的軍事目的で、大セルジューク朝の周辺部の西北地区のトルコ族の移住は、この地域の発展的なトルコ化に導いた[12]。
建国者
編集セルジューク族の最初の先祖は、950年にイスラム教に改宗したジャンド近くのホラズムに移住したハザール軍に仕えたと一般に言われるベグ(セルジューク)であった[13]。
拡大
編集セルジューク族はカラハン朝に対抗してペルシア人のサーマーン朝のシャーと連合した。しかしガズナ朝が興隆するとマー・ワラー・アンナフル(992年-999年)のカラハニドに投降した。セルジューク族は自身の独立の基礎を築く前にこの権力構造に関わることになった。
トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグ
編集大セルジューク朝をガズナ朝からもぎ取ったトゥグリル・ベグは、セルジュークの孫であり、チャグリー・ベグの弟であった。最初のうちはセルジューク族はマフムードに撃退され、ホラズムに撤退したが、トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグは、メルブとニーシャープール奪取に導いた(1037年)[14]。後にホラサンとバルフを通じて後継者と繰り返し襲撃し領土を交換し、1037年にガズニーを略奪さえした[15]。1040年にダンダーナカーンの戦いでセルジューク族へと西の領土の大半を放棄させながら、決定的にマスード1世を破った。1048年から1049年に、トゥグリル・ベグの同母異父の兄弟イブラヒム・イナルが指揮するセルジューク・トルコは、イベリア州の東ローマ帝国の前線地区で最初の侵入を行い、1048年9月10日にカペトロンの戦いで5万人の東ローマ帝国・グルジア連合軍と衝突した。セルジューク族の興隆で残された荒廃は、非常に酷いもので、東ローマ帝国の流力者エウスタティオス・ボイラスは、1051年から1052年にかけてこの土地を「蛇や蠍、野生動物が生息する不潔で手の施しようのない場所」と表現した。アラブの編年史家イブン・アスィールは、イブラヒムは捕虜10万人とらくだ1万頭の背に載せた莫大な略奪品を返却したと報告している[16]。1055年、トゥグリル・ベグはアッバース朝から委託を受けてシーア派のブワイフ朝からバグダードを奪取した。
アルプ・アルスラーン
編集チャグリー・ベグの息子のアルプ・アルスラーンは、アナトリア半島のほぼ全域を併合するアルメニアとグルジアを1064年に加え東ローマ帝国に1068年に侵攻することで明確にトゥグリルの領土を拡大させた[17]。1071年のマラズギルトの戦いでのアルスラーンの決定的な勝利は、事実上トルコのアナトリア半島侵攻に対して東ローマ帝国の抵抗を中立化させた[18]。グルジアはイベリア州を防衛することでアルプ・アルスラーンの侵攻から奪還できたが、アナトリア半島から東ローマ帝国が撤退することでグルジアがセルジューク族と更に直接接触することになった。1073年、ガンジャやドヴィン、ドミニシのセルジュークアミールは、成功裏にカルスの要塞を奪取したジョージ2世との戦いでグルジアに侵攻し敗れた[19]。セルジュークアミールアフマドによる報復攻撃は、クヴェリスツィケでグルジアを破った[20]。
忠誠を誓うアタベクとしてアルプ・アルスラーンは嘗ての東ローマ帝国のアナトリア半島からの土地を分割する権限をトルコ人の将軍に与えた。2年以内にトルコ人は数多のベグリク(現在のトルコのベイリク)の下でエーゲ海まで支配を伸ばした(東北アナトリア半島のサルトゥーク朝、東アナトリア半島のシャーアルメンスとメンギュジェク朝、東南アナトリア半島のアルトゥク朝、中央アナトリア半島のダニシュメンド朝、西アナトリア半島の(後に中央アナトリア半島に移動する)ルーム・セルジューク朝(スライマーンのベグリク)、イズミル(スミルナ)のベイリク)。
マリク・シャー
編集アルプ・アルスラーンの後継者マリク・シャーと2人のペルシャ人ワズィール[21]ニザームルムルクとタージルムルクの下でセルジューク国はアラブ侵攻以前の嘗てのイラン国境に向けて様々な方面に拡張し、その為に間もなく東は中国と西は東ローマ帝国と国境を接した。マリク・シャーは首都をシャフレ・レイからエスファハーンに遷し、大セルジューク朝が絶頂期を迎えたのは、この時代であった[22]。イクタ軍事組織とバグダードのアルニザミッヤ大学がニザームルムルクにより創立され、マリク・シャーの時代は、「大セルジューク朝」の黄金時代と考えられた。アッバース朝カリフは1087年に「東西のスルタン」と名付けた。しかしハサン・サッバーフの暗殺教団(ハシュシャシン)は、この時代に一団となり始め、その指導の下で多くの指導者を暗殺し、多くの出典によると、この犠牲者にニザームルムルクがいた。
1076年、マリク・シャーはグルジアに押し寄せ、多くの入植地を破滅に追い込んだ。1079年から1080年にかけてグルジアは毎年の朝貢という相当な犠牲を払って高価な平和を耐え忍ばせるマリク・シャーに服従するように圧力を受けた。
統治
編集セルジューク族の勢いは、確かにマリク・シャーの下で絶頂期であり、カラハン朝とガズナ朝は共にセルジューク族の専制君主としての地位を認めなければならなかった[23]。セルジューク族の領土がイランとイラクの古代サーサーン朝の領土を超えて形成され、中央アジアや現代のアフガニスタンの領域同様にアナトリア半島(シリア)を含んだ[23]。セルジューク族の支配は、トルコやモンゴルの遊牧民に共通の部族組織を手本にし、「家族連合」や「アパナージュ国」に似ていた[23]。この組織の下で最高位の家族の指導者が独立したアパナージュとして領土の一部を家族に割り当てた[23]。
分割
編集マリク・シャーが1092年に死去すると、大セルジューク朝は兄弟と4人の息子が大セルジューク朝の配分を巡って不和になり分裂した。マリク・シャーの地位はアナトリア半島ではルーム・セルジューク朝を建国したクルチ・アルスラーン1世が、シリアでは兄弟のトゥトゥシュが継承した。ペルシャでは統治が3人の兄弟イラクのバルキヤールクやバグダードのムハンマド1世、ホラサンのアフマド・サンジャルから異議を申し立てられた息子のマフムード1世が継承した。トゥトゥシュが死ぬと、息子のリドワーンとドゥカークがそれぞれアレッポとダマスカスを相続し、同様に互いに争い、更に互いに反目し合いながらシリアを首長に分配した。
1118年、三男のアフマド・サンジャルが大セルジューク朝を掌握した。彼の甥でありムハンマド1世の息子にあたるマフムード2世はアフマドの王位の主張を承認せず、自らがスルタンであると宣言し、最終的に公式にアフマド・サンジャルに退位させられる1131年までバグダードに首都を構えた。
名目だけのセルジューク領は他に東北シリアと北メソポタミアのアルトゥク朝があり、1098年までエルサレムを支配した。ダニシュメンド朝が東アナトリア半島と北シリアに建国し、ルーム・セルジューク朝と領土を争い、ケルボガはモースルのアタベクとして独立した。
第1回十字軍(1095年-1099年)
編集第1回十字軍でセルジューク族の分裂国家は、一般に十字軍戦士に対して協調するよりも自国領を強化し隣国の支配を得ることの方に関心があった。セルジューク族は容易に1096年に到着する民衆十字軍を破ったが、エルサレムに行軍するニカイア(イズニク)やコンヤ、カイセリ、アンティオキア(アンタキヤ)のような重要な都市を奪取する続く王子十字軍の軍勢の前進は止められなかった。1099年、十字軍戦士は遂に聖なる国を奪取し、第一次ウトラメールを建国した。セルジューク族は既に十字軍戦士が獲得する直前に再奪取していたファーティマ朝にパレスチナを奪われていた。
エデッサ伯国を略奪するとセルジュークの司令官イルガジは、十字軍戦士と講和した。1121年、義理の息子のサダカーやギャンジャのスルタンマリクが率いる部隊を含む恐らく25万から35万に上る部隊とグルジアに向けて北上し、グルジア王国に侵攻した[24][25]。ダヴィド4世はイルガジの膨大な軍と戦うモナスパ衛兵5000人やキプチャク兵15000人、アラン兵300人、フランスの十字軍戦士100人などグルジア戦士4万人を召集した。ディドゴリの戦いが1121年8月12日にグルジア王国軍と大セルジューク朝軍の間で行われた。その結果、セルジューク族は数日間グルジア騎兵隊を追跡することで疲弊し、徹底的に打ち破られ戦場から敗走した。ディドゴリの戦いはイルガジ軍の圧力を受けていた十字軍諸国を助けた。ラテン公国の主要な敵が弱体化したことは、ボードゥアン2世王が統治するエルサレム王国にとって有益であった。
第2回十字軍(1147年-1149年)
編集この間にウトラメールとの騒乱も断続的に行われ、第1回十字軍後に互いに領土を巡って張り合ったので益々独立したアタベクが頻繁に他のアタベクに対してウトラメールと連合することになる。モースルではザンギーがアタベクとしてケルボガの後継者になり、成功裏にシリアのアタベクの統合を開始した。1144年、エデッサ伯国が自分に対してアルトゥク朝と連合したので、ザンギーはエデッサを奪取した。この事件は第2回十字軍開始の契機となった。アレッポのアタベクとして後継したザンギーの息子の一人ヌールッディーンは、1147年に上陸した第2回十字軍と戦う地域で同盟関係を構築した。
衰退
編集アフマド・サンジャルは東の西遼の遊牧民の侵攻同様にマー・ワラー・アンナフルのカラハン朝やアフガニスタンのゴール朝、現在のキルギスのカルルクによる暴動を封じ込めるために戦った。増大する西遼は、初めホジェンドでセルジューク族の従属国であった、その際西カラハン朝を粉砕することで続いた東カラハン朝を破った。カラハン朝はサンジャルが西遼に対して個人的に軍勢を率いることで応じたセルジューク族を援助のために領主に転属させた。しかしサンジャルの軍勢は、1141年9月9日のカトワーンの戦いで耶律大石の軍勢に決定的に破られた。サンジャルは命からがら逃げられたとはいえ、妻を含む身近な親族の多くは、戦闘の余波で捕虜になった。サンジャルが東からの侵犯する脅威を与えることに失敗した結果、大セルジューク朝はシルダリヤ川までの東の諸県全てを失い、西カラハン朝の家臣は、西遼に強奪された[26]。
ホラズム朝とアイユーブ朝による征服
編集1153年、オグズは謀反を起こしサンジャルを捕えた。3年後に脱走できたが、1年後に死亡した。ザンギー朝やアルトゥク朝のようなアタベクは、名目上に限って言えばセルジューク朝のスルタンの支配を受けたが、一般的には独立してシリアを支配した。アフマド・サンジャルが1157年に死ぬと、大セルジューク朝は分裂し、事実上アタベクを独立させた。
- ホラーサーンとトランスオクシアナのホラーサーン・セルジューク朝。首都:メルブ
- ケルマーン・セルジューク朝
- ルーム・セルジューク朝(またはトルコのセルジューク族)。首都:イズニク(ニカイア)、後にコンヤ
- イランのサルグル朝のアタベク
- イラクとアゼルバイジャンのイルデニズ朝のアタベク(アゼルバイジャンのアタベク[27])[28]。首都:ナヒチェヴァン[29](1136年-1175年)、ハマダーン(1176年-1186年)、タブリーズ[30](1187年-1225年)
- シリアのブーリー朝のアタベク。首都:ダマスカス
- ジャズィーラ(北メソポタミア)のザンギーのアタベク。首都:モースル
- テュルクマーン・ベグリク:小アジアのダニシュメンド朝、アルトゥク朝、サルトゥーク朝、メンギュジェク家
第2回十字軍の後でヌールッディーンの将軍シール・クーフは、ファーティマ朝のエジプトで名声を確立し、サラーフッディーンにより継承された。結局はサラーフッディーンはヌールッディーンに反旗を翻し、その死に際してサラーフッディーンはその未亡人と結婚し、シリアの殆どを手に入れ、アイユーブ朝を創設した。
別の戦線では、グルジアが地域の強国になり始め、大セルジューク朝を侵食しながら国境を拡大した。同じことはアナトリア半島でレオ2世が統治するキリキア・アルメニア王国の復興期にも起きた。アッバース朝カリフナースィルもカリフの権威を再び主張し始め、ホラズムシャーアラーウッディーン・テキシュと連合した。
短期間トゥグリル3世はアナトリア半島を除く全セルジューク朝のスルタンであった。しかし1194年にトゥグリルはホラズム朝シャーアラーウッディーン・テキシュに破れ大セルジューク朝は遂に崩壊した。嘗ての大セルジューク朝の内アナトリア半島のルーム・セルジューク朝だけが残った。
王朝が13世紀半ばに衰退したので、モンゴル帝国が1260年代にアナトリア半島に侵攻し、ベイリクと呼ばれる小さな首長国に分割した。結局この内の一つのオスマン帝国が強大になり、残りを征服した。
遺産
編集セルジューク族は奴隷や傭兵としてムスリム宮廷に勤めることで教育を受けた。王朝は信仰復活や精力、アラブ人やペルシャ人に従来統治されていたイスラム文明への再結合をもたらした。
セルジューク族は大学を創立し芸術や文学の保護者でもあった。その影響力はウマル・ハイヤームのようなペルシア人天文学者やペルシア人哲学者ガザーリーにより特徴付けられている。セルジューク族の下でアラビア語文化の中心がバグダードからカイロに移る一方で新ペルシャ語が歴史を記録する言語になった[31]。
スルタン一覧
編集# | ラカブ | 即位名 | 統治期間 | 結婚 | 相続権 |
---|---|---|---|---|---|
1 | ラクン・アドゥンヤ・ワ・アッディン رکن الدنیا والدین, |
トゥグリル・ベグ | 1037年–1063年 | 1) アルトゥン・ジャン・ハトゥン (2) アカ・ハトゥン (3) フラナ・ハトゥン (アブー・カリジャルの娘) (4) セッイダー・ハトゥン (カーイム(アッバース朝カリフ)の娘) (5) フラナ・ハトゥン (チャグリー・ベグの未亡人) |
ミーカーイールの息子 (セルジュークの孫) |
2 | ディヤ・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・アドゥド・アッダウラー ضياء الدنيا و الدين عضد الدولة |
アルプ・アルスラーン | 1063年–1072年 | 1) アカ・ハトゥン (トゥグリル・ベグの未亡人) (2) サファリッヤ・ハトゥン (ユスフ・カディール・ハーン(カラハン朝のカガン)の娘) (3) フラナ・ハトゥン (スンバト・ロルヒの娘) (4) フラナ・ハトゥン (クルッチュ・ビン・ヤヌス・ビン・セルジュークの娘) |
チャグリー・ベグの息子 |
3 | ムイッズ・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・ジャラル・アッダウラー معز الدین جلال الدولہ |
マリク・シャー | 1072年–1092年 | 1) テルケン・ハトゥン (ベリティギン(西カラハン朝のカガン)の娘) (2) ズベイダ・ハトゥン (ヤグティ・イブン・チャグリーの娘) (3) サファリッヤ・ハトゥン (イサ・ハーン(サマルカンドのスルタン)の娘) (4) フラナ・ハトゥン (ロマノス4世ディオゲネス)の娘) |
アルプ・アルスラーンの息子 |
4 | ナシル・アッドゥンヤ・ワ・アッディン ناصر الدنیا والدین |
マフムード1世 | 1092年–1094年 | マリク・シャーの息子 | |
5 | ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン رکن الدنیا والدین |
バルキヤールク | 1094年–1105年 | マリク・シャーの息子 | |
6 | ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・ジャラル・アッダウラー رکن الدنیا والدین جلال الدولہ |
マリク・シャー2世 | 1105年 | バルキヤールクの息子 | |
7 | ギヤト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン غیاث الدنیا والدین |
ムハンマド・タパル | 1105年–1118年 | 1) ニサンダル・ジハン・ハトゥン (2) ゴウハル・ハトゥン (イスマーイル・ビン・ヤクティの娘) (3) フラナ・ハトゥン (アクスングル・ベグの娘) |
マリク・シャーの息子 |
8 | ムギト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・ジャラル・アッダウラー مُغيث الدنيا و الدين جلال الدولة |
マフムード2世 | 1118年–1131年 | 1) マーイ・ムルク・ハトゥン(1130年死去) (アフマド・サンジャルの娘) (2) アミル・シティ・ハトゥン (アフマド・サンジャルの娘) (3) アタ・ハトゥン (アリー・ビン・ファラマルズの娘) |
ムハンマド・タパルの息子 |
9 | ムイッズ・アドゥンヤ・ワ・アッディン・アドゥド・アッダウラー مُعز الدنيا و الدين جلال الدولة |
アフマド・サンジャル | 1118年–1153年 | 1) トゥルカン・ハトゥン (ムハンマド・アルスラーン・ハーン(西カラハン朝のカガン)の娘) (2) ルスダン (デメトリウス1世の娘) (3) ゴウハル・ハトゥン (イスマーイル・ビン・ヤクティの娘でムハンマド・タパルの未亡人) (4) フラナ・ハトゥン (アルスラーン・ハーン(西遼捕虜)の娘) |
マリク・シャーの息子 |
10 | ゴリアト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン غیاث الدنیا والدین |
ダウード | 1131年–1132年 | ゴウハル・ハトゥン (マスウードの娘) |
マフムード2世の息子 |
11 | ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン رکن الدنیا والدین |
トゥグリル2世 | 1132年–1135年 | 1) ムミネ・ハトゥン (アルスランシャーの母) (2) ズベイダ・ハトゥン (バルキヤールクの娘) |
ムハンマド・タパルの息子 |
12 | ギヤト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン غیاث الدنیا والدین |
マスウード | 1135年–1152年 | 1) ゴウサル・ナサブ・ハトゥン (アフマド・サンジャルの娘) (2) ズベイダ・ハトゥン (バルキヤールクの娘で, トゥグリル2世の未亡人) (3) ムスタズヒリッヤ・ハトゥン (カーヴルト・ベグの娘) (4) スフラ・ハトゥン (ドゥバイスの娘) (5) アラブ・ハトゥン (ムクタフィーの娘) (6) ウンミハ・ハトゥン (アミド・ウッデウラ・ビン・ジュハイルの娘) (7) アブハジッヤ・ハトゥン (ダヴィド4世の娘) (8) スルタン・ハトゥン (マリクシャー3世の母) |
ムハンマド・タパルの息子 |
13 | ムイン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン مُعين الدنيا و الدين |
マリクシャー3世 | 1152年–1153年 | マフムード2世の息子 | |
14 | ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン رکن الدنیا والدین |
ムハンマド | 1153年–1159年 | 1) マード・ラフィ・ハトゥン (キルマンシャーの娘) (2) ゴウハル・ハトゥン (マスウードの娘でダウードの未亡人) (3) ケルマン・ハトゥン (ムクタフィーの娘) (4) キルマニッヤ・ハトゥン (トゥグリルシャー(ケルマーンの支配者)の娘) |
マフムード2世の息子 |
15 | ギヤト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン غیاث الدنیا والدین |
スレイマンシャー | 1159年–1160年 | 1) ホラズミ・ハトゥン (ムハンマド・ホラズム・シャーの娘) (2) アブハジッヤ・ハトゥン (ダヴィド4世の娘でマスードの未亡人) |
ムハンマド・タパルの息子 |
16 | ムイッズ・アッドゥンヤ・ワ・アッディン معز الدنیا والدین |
アルスランシャー | 1160年–1176年 | 1) ケルマン・ハトゥン (ムクタフィーの娘でムハンマドの未亡人) (2) シッティ・ファティマ・ハトゥン (アラ・アッダウラーの娘) (3) キルマニッヤ・ハトゥン (トゥグリルシャー(ケルマーンの支配者)の娘で, ムハンマドの未亡人) (4) フラナ・ハトゥン (イッズ・アッディン・ハサン・キプチャクの姉妹) |
トゥグリル2世の息子 |
17 | ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン رکن الدنیا والدین |
トゥグリル3世 | 1176年–1191年 第1回の統治 |
イナンジ・ハトゥン (イナンチ・ソンクール(シャフレ・レイの支配者)の娘でトゥグリル3世の未亡人) |
アルスランシャーの息子 |
18 | ムザッファル・アッドゥンヤ・ワ・アッディン مظفر الدنیا والدین |
キジル・アルスラーン | 1191年 | イナンジ・ハトゥン (イナンチ・ソンクール(シャフレ・レイの支配者)の娘でムハンマド・イブン・イルデニズの未亡人) |
イルデニズの息子 (アルスランシャーの義理の兄弟) |
— | ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン رکن الدنیا والدین |
トゥグリル3世 | 1192年–1194年 第2回の統治 |
アルスランシャーの息子 |
写真
編集-
12-13世紀のフブの水差しの一部。ブルックリン美術館
-
12-13世紀の即位式が描かれたボール。ブルックリン美術館
-
イランで発見された12-13世紀の王族男子の頭像。
-
イランで1053年に建造されたハラカンツインタワーズは、セルジューク王子の墓である。
-
セルジュークスルタンバルキヤールク
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セルジュークスルタンムハンマド・イブン・マリクシャー
-
セルジュークスルタンアフマド・サンジャル
関連項目
編集- アルトゥク朝
- 暗殺教団
- アタベク
- アナトリア半島のセルジューク家系図
- ダニシュメンド朝
- ガズナ朝
- ラハット・アルスドゥル
- セルジューク建築
- セルジューク朝
- ルーム・セルジューク朝
- トルコ人の歴史
- トルコの王朝と国の一覧
- ルーム・セルジューク朝の時系列
- トルコ人の時系列 (500年-1300年)
- Seldschuken-Fürsten:ドイツ語ウィキペディアのセルジューク支配者の一覧
- トルコ系の移住
注釈
編集参照
編集引用
編集- ^
- A. C. S. Peacock, Great Seljuk Empire, (Edinburgh University Press, 2015), 1–378
- Christian Lange; Songül Mecit, eds., Seljuqs: Politics, Society and Culture (Edinburgh University Press, 2012), 1–328
- P.M. Holt; Ann K.S. Lambton, Bernard Lewis, The Cambridge History of Islam (Volume IA): The Central Islamic Lands from Pre-Islamic Times to the First World War, (Cambridge University Press, 1977), 151, 231–234.
- ^ Mecit 2014, p. 128.
- ^ Peacock & Yıldız 2013, p. 6.
- ^ * "Aḥmad of Niǧde's al-Walad al-Shafīq and the Seljuk Past", A. C. S. Peacock, Anatolian Studies, Vol. 54, (2004), 97; "With the growth of Seljuk power in Rum, a more highly developed Muslim cultural life, based on the Persianate culture of the Seljuk court, was able to take root in Anatolia."
- Meisami, Julie Scott, Persian Historiography to the End of the Twelfth Century, (Edinburgh University Press, 1999), 143; "Nizam al-Mulk also attempted to organise the Saljuq administration according to the Persianate Ghaznavid model k..."
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- Mehmed Fuad Köprülü, "Early Mystics in Turkish Literature", Translated by Gary Leiser and Robert Dankoff, Routledge, 2006, p. 149: "If we wish to sketch, in broad outline, the civilization created by the Seljuks of Anatolia, we must recognize that the local—i.e., non-Muslim, element was fairly insignificant compared to the Turkish and Arab-Persian elements, and that the Persian element was paramount. The Seljuk rulers, to be sure, who were in contact with not only Muslim Persian civilization, but also with the Arab civilizations in al-jazlra and Syria—indeed, with all Muslim peoples as far as India—also had connections with {various} Byzantine courts. Some of these rulers, like the great 'Ala' al-Dln Kai-Qubad I himself, who married Byzantine princesses and thus strengthened relations with their neighbors to the west, lived for many years in Byzantium and became very familiar with the customs and ceremonial at the Byzantine court. Still, this close contact with the ancient Greco-Roman and Christian traditions only resulted in their adoption of a policy of tolerance toward art, aesthetic life, painting, music, independent thought—in short, toward those things that were frowned upon by the narrow and piously ascetic views {of their subjects}. The contact of the common people with the Greeks and Armenians had basically the same result. [Before coming to Anatolia,] the Turkmens had been in contact with many nations and had long shown their ability to synthesize the artistic elements that thev had adopted from these nations. When they settled in Anatolia, they encountered peoples with whom they had not yet been in contact and immediately established relations with them as well. Ala al-Din Kai-Qubad I established ties with the Genoese and, especially, the Venetians at the ports of Sinop and Antalya, which belonged to him, and granted them commercial and legal concessions. Meanwhile, the Mongol invasion, which caused a great number of scholars and artisans to flee from Turkmenistan, Iran, and Khwarazm and settle within the Empire of the Seljuks of Anatolia, resulted in a reinforcing of Persian influence on the Anatolian Turks. Indeed, despite all claims to the contrary, there is no question that Persian influence was paramount among the Seljuks of Anatolia. This is clearly revealed by the fact that the sultans who ascended the throne after Ghiyath al-Din Kai-Khusraw I assumed titles taken from ancient Persian mythology, like Kai-Khusraw, Kai-Ka us, and Kai-Qubad; and that. Ala' al-Din Kai-Qubad I had some passages from the Shahname inscribed on the walls of Konya and Sivas. When we take into consideration domestic life in the Konya courts and the sincerity of the favor and attachment of the rulers to Persian poets and Persian literature, then this fact [i.e., the importance of Persian influence] is undeniable. With regard to the private lives of the rulers, their amusements, and palace ceremonial, the most definite influence was also that of Iran, mixed with the early Turkish traditions, and not that of Byzantium."
- Stephen P. Blake, Shahjahanabad: The Sovereign City in Mughal India, 1639–1739. Cambridge University Press, 1991. pg 123: "For the Seljuks and Il-Khanids in Iran it was the rulers rather than the conquered who were "Persianized and Islamicized"
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- Encyclopædia Britannica, "Seljuq", Online Edition: "Because the Turkish Seljuqs had no Islamic tradition or strong literary heritage of their own, they adopted the cultural language of their Persian instructors in Islam. Literary Persian thus spread to the whole of Iran, and the Arabic language disappeared in that country except in works of religious scholarship ..."
- M. Ravandi, "The Seljuq court at Konya and the Persianisation of Anatolian Cities", in Mesogeios (Mediterranean Studies), vol. 25-6 (2005), pp. 157–69
- F. Daftary, "Sectarian and National Movements in Iran, Khorasan, and Trasoxania during Umayyad and Early Abbasid Times", in History of Civilizations of Central Asia, Vol 4, pt. 1; edited by M.S. Asimov and C.E. Bosworth; UNESCO Publishing, Institute of Ismaili Studies: "Not only did the inhabitants of Khurasan not succumb to the language of the nomadic invaders, but they imposed their own tongue on them. The region could even assimilate the Turkic Ghaznavids and Seljuks (eleventh and twelfth centuries), the Timurids (fourteenth–fifteenth centuries), and the Qajars (nineteenth–twentieth centuries) ..."
- ^ * Encyclopaedia Iranica, "Šahrbānu", Online Edition: "here one might bear in mind that non-Persian dynasties such as the Ghaznavids, Saljuqs and Ilkhanids were rapidly to adopt the Persian language and have their origins traced back to the ancient kings of Persia rather than to Turkish heroes or Muslim saints ..."
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- ^ *An Introduction to the History of the Turkic Peoples (Peter B. Golden. Otto Harrasowitz, 1992). pg 386: "Turkic penetration probably began in the Hunnic era and its aftermath. Steady pressure from Turkic nomads was typical of the Khazar era, although there are no unambiguous references to permanent settlements. These most certainly occurred with the arrival of the Oguz in the 11th century. The Turkicization of much of Azarbayjan, according to Soviet scholars, was completed largely during the Ilxanid period if not by late Seljuk times. Sumer, placing a slightly different emphasis on the data (more correct in my view), posts three periods which Turkicization took place: Seljuk, Mongol and Post-Mongol (Qara Qoyunlu, Aq Qoyunlu and Safavid). In the first two, Oguz Turkic tribes advanced or were driven to the western frontiers (Anatolia) and Northern Azarbaijan (Arran, the Mugan steppe). In the last period, the Turkic elements in Iran (derived from Oguz, with lesser admixture of Uygur, Qipchaq, Qaluq and other Turks brought to Iran during the Chinggisid era, as well as Turkicized Mongols) were joined now by Anatolian Turks migrating back to Iran. This marked the final stage of Turkicization. Although there is some evidence for the presence of Qipchaqs among the Turkic tribes coming to this region, there is little doubt that the critical mass which brought about this linguistic shift was provided by the same Oguz-Turkmen tribes that had come to Anatolia. The Azeris of today are an overwhelmingly sedentary, detribalized people. Anthropologically, they are little distinguished from the Iranian neighbors."
- John Perry: "We should distinguish two complementary ways in which the advent of the Turks affected the language map of Iran. First, since the Turkish-speaking rulers of most Iranian polities from the Ghaznavids and Seljuks onward were already Iranized and patronized Persian literature in their domains, the expansion of Turk-ruled empires served to expand the territorial domain of written Persian into the conquered areas, notably Anatolia and Central and South Asia. Secondly, the influx of massive Turkish-speaking populations (culminating with the rank and file of the Mongol armies) and their settlement in large areas of Iran (particularly in Azerbaijan and the northwest), progressively turkicized local speakers of Persian, Kurdish and other Iranian languages"
- According to C.E. Bosworth:
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出典
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参考文献
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外部リンク
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