サー・ジョージ・ベイリー・サンソム(Sir George Bailey Sansom、KCMG1883年11月28日 - 1965年3月8日)は、イギリス外交官で、前近代の日本に関する歴史学者。特に日本の文化に関する研究で知られる。

経歴

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サンソムは1883年11月28日ケントで生まれフランスで教育を受けた。1904年東京駐日英国大使館(1905年までは公使館)に通訳生として着任した。サンソムは初代の駐日英国大使となったクロード・マクドナルドの私設秘書を務めた。それから1941年までの35年間、時おり帰国する他は、青壮年期のほとんどを外交官として日本で過した。1923年からは商務参事官として経済問題を担当した[注釈 1]

この間に7人の駐日大使の下で働いたが、仏教の研究家であったチャールズ・エリオット大使(任期1919年-1926年)の影響もあり、日本学研究にはげんだ。これは、アーネスト・サトウウィリアム・ジョージ・アストンジョン・ガビンズと続く、英国大使館の伝統でもあった。エリオットは大使を辞任した後も日本に留まり「Japanese Buddhism」[注釈 2]の執筆に励んだが、サンソムとの交友関係は続いた。結局、体調の悪化(1931年、帰国途中の船上で死亡)によりエリオットはこの著作を完成させることができず、サンソムが続きを執筆して1934年に出版された。

1931年、サンソムは「A History of Japan」を出版し、1934年には日本学士院から名誉会員に推薦された(1951年には客員)。1935年には、聖マイケル・聖ジョージ勲章、を受賞し、サーの称号を得ている。この頃より、『西欧世界と日本』の執筆準備にとりかかる。西欧史家の目によって、開国による西洋世界の衝撃をうけて、自己変容をとげてゆく日本の近代化の過程を近世初期より描いたものであるが、出版は第二次世界大戦後の1949年であった。

1933年6月、サンソムはフランシス・リンドリー大使の推薦を受けて、日本とインドの商業協定締結の会議に派遣された。サンソムは英国とインドの両政府に助言する他、綿製品貿易に対する日本の立場を説明した。

学者としては親日的なサンソムであるが、政治判断に関しては冷静で、1930年代後半に見られた帝国日本の親英的態度は上辺だけのものであると判断していた。サンソムはまた当時の日本に「穏健派」[注釈 3]が存在するとしても「急進派」との違いはその目的ではなく手法であり、何れにせよ数は少なく影響力は限られていると悲観的であった。この点で、日本との妥協をはかろうとする駐在武官のフランシス・ピゴット少将と意見が対立した。ロバート・クライヴ大使はサンソムを支持したが、戦前の最後の大使となったロバート・クレイギーはピゴットの意見を受け入れた[注釈 4]

日英間の戦争が近づいた1941年にはワシントンD.C.、続いてシンガポールに派遣された。マレー沖海戦の前日には、イギリス海軍の高官と意見を交わしている。シンガポール陥落前に、サンソムはワシントンD.C.に移動し、第二次世界大戦中はそこにあって海軍軍令部、陸軍情報部に勤務した。

大戦終了後、連合国極東委員会英国代表として日本を視察した。1947年から1953年にかけ、サンソムはコロンビア大学で教鞭をとったが、1930年代後半より、ここで客員講師の立場で日本史を教えていた。サンソムは「東アジア研究所」初代所長にもなった。

引退後はスタンフォード大学のあるパロ・アルトに住んだが、スタンフォード大学出版で、1931年に著作「日本文化史」、後に「A History of Japan」が3分冊で出版された。スタンフォードではヘレン・クレイグ・マッカラらの日本学者と交流を持ち、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院にも友人が多かった。

1965年3月8日アリゾナ州ツーソンで没した。

没後、後妻のキャサリン・サンソムが夫の書簡などを公表し、学者以外の顔も知られるようになった。

妻・キャサリン

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キャサリン・サンソム(Katharine Sansom、1883-1981)は、ジョージの後妻で、ノース・ヨークシャー州のスキプトン近郊に5人兄弟の長女として生まれた。父はヨークシャーで紡績工場を営み、母はランカシャーの名家の出だった。留学先のドイツで音楽を修めたのち、1909年に弁護士スティーブン・ゴードンと結婚して一男一女をもうけた。1917年に夫の友人だったジョージ・サンソムと知り合い、その後交際に発展。1927年、夫に離婚を申し出るやジョージ・サンソムを追って来日し、1928年に横浜で結婚、同年5月28日東京のイギリス大使館内の宿舎にて式を挙げた[2]。ともに再婚[3]。夫妻は1939年5月まで東京に滞在した[3]

この間、キャサリンは友人や親戚から尋ねられる“東京での生活はどのようなものか”との問いに答えるつもりで、1936年に滞日見聞記「LIVING IN TOKYO」を執筆し、翌年ロンドンでこれを出版した[3](訳書は『東京に暮す-1928~1936』岩波文庫[注釈 5])。この著書の中でキャサリンは、戦前の東京における暮らしを紹介しながら日英両国の共通点を挙げ、それぞれに学ぶことの多いこと、さらに東洋と西洋が互いに意識し、理解し合い、協力し合うことの必要性を説いた[4][注釈 6]

受勲

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著作

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1917年に商務省と外務省の合弁事業として海外貿易局が設立された。商務参事官はここに所属した。一般的に大使はじめ外交官(書記官)たちは商業の問題にあまり関心を持っていなかったため、サンソムによると「自分自身で采配を振るい、自分自身の時間は自分で処理し、誰にも相談しなくて良いという大いなる独立性」を得た。
  2. ^ google bookより 、エリオット没後の1935年刊。電子書籍Routledge)でリプリント版(2018年)。ISBN 978-0700702633
  3. ^ 穏健派と見られた人物は山本五十六吉田茂松平恒雄永井松三など
  4. ^ ハリファックス外務大臣もサンソムのアドバイスに従い、日本人は虚勢を張っているので経済分野で報復が可能との考えを固めた[1]
  5. ^ 大久保美春訳、マージョリー西脇(西脇順三郎の先妻)による挿絵多数。
    昭和初期の東京の街と人々の暮しを、軽妙な筆致で描写した人間観察記で、母親のねんねこの中で眠る赤ん坊、本屋で立ち読みに夢中になる学生たちなど、庶民の姿が温かい目差しで描かれている。訳者の大久保美春が「英国外交官夫人による1930年代日本の随想見聞記」として先行紹介している(『外国人による日本論の名著』の第24章、中公新書、1987年)
  6. ^ キャサリンについては、牧野陽子 の論文「赤裸々の人間讃歌―キャサリン・サンソムの東京時代」(所収 平川祐弘編『叢書 比較文学比較文化(2) 異文化を生きた人々』中央公論社、1993年)に詳しい。
  7. ^ 古代から江戸中期まで。訳者は美術史家で、『福井利吉郎美術史論集』(中央公論美術出版、上・中・下)がある。
  8. ^ 訳者平川祐弘によるサンソムの伝記があり『東の橘 西のオレンジ』(文藝春秋、1981年)と、文庫新版に収録。

出典

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  1. ^ アントニー・ベスト (Antony・Best)『大英帝国の親日派』武田知己訳、中央公論新社〈中公叢書〉、2015年、109頁。ISBN 978-4-12-004757-2OCLC 929379066 
  2. ^ キャサリン・サンソム『東京に暮す』岩波文庫、1997年、259、260頁。
  3. ^ a b c キャサリン・サンソム『東京に暮す』岩波文庫、1997年、260頁。
  4. ^ キャサリン・サンソム『東京に暮す』岩波文庫、1997年、265、268頁。

参考文献

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  • Frederic, Louis (2002). Japan Encyclopedia. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press.
  • Howes, John F. (1975) "Sir George Sansom and Japan", Review of Pacific Affairs. University of British Columbia.
  • Sansom, Katharine (1972). Sir George Sansom and Japan: A Memoir. Tallahassee, Florida: The Diplomatic Press Inc.
  • Winchester, Simon. (2008). The Man Who Loved China: the Fantastic Story of the Eccentric Scientist Who Unlocked the Mysteries of the Middle Kingdom. New York: Harper. ISBN 978-0-060-88459-8
  • 細谷千博「ジョージ・サンソムと敗戦日本 一〈知日派〉外交官の軌跡」(『中央公論』1975年9月号)。吉野作造賞受賞論文
  • ヒュー・コータッツィ編 『歴代の駐日英国大使』(日英文化交流研究会訳、文眞堂、2007年)。ISBN 978-4830945878
  • キャサリン・サンソム『東京に暮す-1928~1936』大久保美春訳、岩波文庫、1994年、ISBN 4003346610

外部リンク

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