ジョン・ホープ (初代リンリスゴー侯爵)
初代リンリスゴー侯爵ジョン・エイドリアン・ルイス・ホープ(英語: John Adrian Louis Hope, 1st Marquess of Linlithgow, KT, GCMG, GCVO, PC、1860年9月25日 - 1908年2月29日)は、イギリスの政治家、貴族。
初代リンリスゴー侯爵 ジョン・ホープ John Hope 1st Marquess of Linlithgow | |
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初代リンリスゴー侯爵ジョン・ホープ | |
生年月日 | 1860年9月25日 |
出生地 |
イギリス スコットランド サウス・クイーンズフェリー |
没年月日 | 1908年2月29日(47歳没) |
死没地 |
フランス共和国 バス=ピレネー県 ポー |
出身校 |
イートン校 サンドハースト王立士官学校 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | #栄典参照 |
配偶者 | ハーシー・ホープ |
子女 | #家族参照 |
在任期間 | 1901年1月1日 - 1902年7月17日 |
国王 |
ヴィクトリア エドワード7世 |
首相 | エドモンド・バートン |
在任期間 | 1889年12月28日 - 1895年7月12日 |
国王 | ヴィクトリア |
首相 |
ダンカン・ジルズ ジェームズ・マンロー ウィリアム・シールズ ジェームズ・パターソン ジョージ・ターナー |
内閣 | アーサー・バルフォア内閣 |
在任期間 | 1905年2月2日 - 1905年12月4日 |
経歴
編集1860年9月25日にスコットランド貴族第6代ホープトン伯爵ジョン・ホープとその妻エセルレッド(旧姓レイナードソン)の間の長男として生まれる[1][2]。
イートン校へ進学[1]。1873年4月に父の死により第7代ホープトン伯爵位を継承した[1][2]。
1883年から保守党の貴族院院内幹事に選ばれ、1886年には侍従たる貴族院議員(与党貴族院院内幹事)となった[3]。さらに1887年から1889年にかけてスコットランド教会総会への勅使を務めた[1][2]。
1889年から1895年にかけてオーストラリアのビクトリア州総督を務めた。彼の在任期間中大きな連邦改革があり、彼もその支持者であった[3]。1895年から1898年にかけて第3次ソールズベリー侯爵内閣で陸軍支払長官、1898年から1900年まで同内閣の宮内長官を務めた[3][1][2]。
1900年から1902年までオーストラリア総督兼オーストラリア軍最高司令官に就任[1][2]。1902年10月に連合王国貴族爵位のリンリスゴー侯爵に叙せられた[1][2]。
1904年から1908年にかけてスコットランド銀行副総裁(Deputy Governor of the Bank of Scotland)を務めた[1][2]。1905年2月から12月にかけてはスコットランド担当大臣を務めた[1][2]。
栄典
編集爵位・準男爵位
編集1873年4月1日に父ジョン・ホープの死去により以下の爵位を継承した[1][2]。
- 第7代ホープトン伯爵 (7th Earl of Hopetoun)
- 第7代エイザリー子爵 (7th Viscount Aithrie)
- (1703年4月15日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- 第7代ホープ卿 (7th Lord Hope)
- (1703年4月15日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- ホープトンの第5代ホープトン男爵 (5th Baron Hopetoun, of Hopetoun)
- リンリスゴー州におけるニドリー城の第4代ニドリー男爵 (4th Baron Niddry, of Niddry Castle in the County of Linlithgow)
1902年10月27日に以下の爵位を新規に叙される[1][2]。
- 初代リンリスゴー侯爵 (1st Marquess of Linlithgow)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章
編集- 1889年、聖マイケル・聖ジョージ勲章(騎士団)ナイト・グランド・クロス (GCMG)
- 1900年、ロイヤル・ヴィクトリア勲章(騎士団)ナイト・グランド・クロス (GCVO)
- 1900年、シッスル勲章(騎士団)ナイト (KT)
家族
編集1886年10月18日、第4代ヴェントリー男爵ブラッケニー・イヴェリー・ド・モリーンズの娘ハーシーと結婚。彼女との間に以下の2男2女を儲けた[1][2]。
- 第1子(長男)ヴィクター・アレグザンダー・ジョン・ホープ (1887-1952) 第2代リンリスゴー侯爵。インド総督。
- 第2子(次男)チャールズ・メルバーン・ホープ (1892-1962) 儀礼称号で卿(Lord)。
- 第3子(長女)ジャクリーン・アリス・ホープ (1896) 儀礼称号で嬢(Lady)。夭折。
- 第4子(次女)メアリー・ドロシア・ホープ (1903-1995) 儀礼称号で嬢(Lady)。第16代ペンブルック伯爵シドニー・ペンブルックと結婚。
脚注
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m Lundy, Darryl. “John Adrian Louis Hope, 1st Marquess of Linlithgow” (英語). thepeerage.com. 2016年10月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l Heraldic Media Limited. “Linlithgow, Marquess of (UK, 1902)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年10月27日閲覧。
- ^ a b c Cunneen 1983a.
参考文献
編集- Cunneen, Christopher (1983a). "Hopetoun, seventh Earl of (1860–1908)". Australian Dictionary of Biography (英語). Vol. 9. Canberra: Australian National University.
外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、初代リンリスゴー侯爵ジョン・ホープに関するカテゴリがあります。
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Marquess of Linlithgow
公職 | ||
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先代 第5代サーロー男爵 |
侍従たる貴族院議員 1886年–1889年 |
次代 第3代チャーチル男爵 |
先代 チャールズ・シール・ヘイン |
陸軍支払長官 1895年–1899年 |
次代 第9代マールバラ公爵 |
先代 初代レイサム伯爵 |
宮内長官 1898年–1900年 |
次代 第5代クラレンドン伯爵 |
先代 アンドリュー・マリー |
スコットランド大臣 1905年 |
次代 ジョン・シンクレア |
官職 | ||
先代 サー・ヘンリー・ロッチ |
ビクトリア州総督 1889年–1895年 |
次代 初代ブラッシー男爵 |
新設 | オーストラリア総督 1901年–1903年 |
次代 第2代テニソン男爵 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代リンリスゴー侯爵 1902年–1908年 |
次代 ヴィクター・ホープ |
スコットランドの爵位 | ||
先代 ジョン・ホープ |
第7代ホープトン伯爵 1873年–1908年 |
次代 ヴィクター・ホープ |