ジョン・ダルリンプル (初代ステア伯爵)

初代ステア伯爵ジョン・ダルリンプル: John Dalrymple, 1st Earl of stair,PC 1648年 - 1707年1月8日)は、名誉革命期のスコットランド貴族。法曹家を多く輩出したダルリンプル家に生まれ、自身も法務長官英語版民事控訴院主席書記官英語版を歴任した。スコットランド王国イングランド王国を合同させた1706年の連合条約(Treaty of Union)で重要な役割を果たす。後年はグレンコーの虐殺の首謀者として策動してその悪名を馳せた[1]

初代ステア伯ジョン・ダルリンプル

生涯

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初代ステア子爵ジェイムズ・ダルリンプル英語版とマーガレット・ロス(Margaret Ross、ジェームズ・ロスの娘)との息子として生まれた[2][3]。生家ダルリンプル家は貴族に昇るほどの家格を有していなかったものの、父ジェイムズが司法官僚として成功したことを契機として急速に勃興した一族である[4]。その父の叙爵の背景には、イングランド王国スコットランド王国の合同に向けて政治力のある法曹家を味方につける狙いがあった[5]。よってその叙爵以降は一族からは弁護士や判事が数多く輩出されており、ジョン自身もその道を歩むこととなる。

父から子爵位を継承後は初は第2代ステア子爵としてスコットランド王兼イングランド王ジェームズ2世に仕えるが、1688年のスコットランド議会ではウィリアム3世を王として迎え入れるよう力を尽くす。1689年にウィリアム3世はダルリンプルの奉公に応えるため、ジェームズ・ジョンストンとともにスコットランド長官(Secretary of Scotland)として統治をゆだねた。

当時スコットランドでは、高地地方の豪族(ハイランダー)がマクドナルド氏族・マクリーン氏族・キャメロン氏族などの主要氏族に率いられ、ウィリアム3世の新政権に抵抗していた。ダルリンプルはハイランダーが帰順を拒んだ時に乗じて彼らを殲滅し、スコットランド全土に平和と自由を強制しようと考えていた。

1692年、ダルリンプルは指揮官にロカバーロキールケポックグレンガリグレンコーの諸地方を全滅する準備をするよう命じ、マクドナルド一門がかねて布告されていた帰順の期限日より4日遅れて誓約を出したことを口実に「かの盗賊一味を絶滅せんがため」という命令書を国王に提出し、許可の署名をえた。続いて「厳秘かつ迅速に行動すべし」と、実行にあたるハミルトン大佐へ命令を下す。そしてグレンコーでマクドナルド一族30名が謀殺され、逃げた者も山中で寒さと飢餓でほとんど消滅したという報告を聞いた時、ダルリンプルは「残念なのは一人残さず殺せなかったことだ」と言った[6]。高地地方は平穏になり、再建事業はエディンバラにおいて進行することになる。

1695年にスコットランド議会は、この虐殺事件の調査を要求し報告が発表された時に「グレンコー虐殺は犯罪である」と投票した[注釈 1]。ダルリンプルはスコットランド長官の職を解かれるが、1700年になってスコットランド枢密院(Privy Council of Scotland)のメンバーとして復帰した。1703年にはアン女王によってステア伯爵ダルリンプル子爵及びニューリストン=グレンルース=ストランラー卿に叙された[2][8]。その後は親イングランド派としてイングランドとスコットランドの連合に協力して1707年に死去、同名の息子ジョンが爵位を継承した[9]

評価

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グレンコーの恐るべき虐殺はジャコバイト的感情を高ぶらせ、政府に対する不信感を助長するのに一役買った[10]G・K・チェスタートンは作中人物のブラウン神父に、ダルリンプルについてこう語らせている。「この男は忘れられたばっかりに汚名を免れているのです。グレンコーの虐殺をやったのはこの男なのですよ。学識が深く、頭の鋭い法律家で、政治家の道についてきわめて大きな考えをもった政治家でもあり、人柄はおとなしく、顔つきだって洗練されたインテリのそれだった。こういう男こそ悪魔におのれを売り渡すのです。」(「翼ある剣」より)[11]

一方、推理小説作家のジョセフィン・テイは、ダルリンプルが「熱烈な国民盟約派」、つまりイングランドによるスコットランド支配に抵抗する側にいた、と判断している[12]

家族

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1668年頃にエリザベス・ダンダス英語版(Elizabeth Dundas、1731年没、サー・ジョン・ダンダスの娘)と結婚して、6男4女をもうけた[2]

注釈

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  1. ^ イギリスの歴史家トレヴェリアンは、名誉革命がスコットランドに独立精神を導入し、その結果として「ウィリアムの治世には、エディンバラ議会はグレンコーの犯罪を取りあげ、調査と摘発を主張した」と評価している[7]

脚注

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  1. ^ 小林 照夫17世紀のスコットランドの宗教と政治―イングランドとの比較研究』(pdf)関東学院大学,文学部人文学会〈関東学院大学文学部紀要 第119号〉、2010年、86頁https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=NI20000887&elmid=Body&fname=kobayashi.pdf&loginflg=on&block_id=_296&once=true 
  2. ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Stair, Earl of (S, 1703)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月8日閲覧。
  3. ^ Cokayne 1896, p. 222-223.
  4. ^ 松園(2015) p.75
  5. ^ 松園(2015) p.74
  6. ^ グリーン、P1133、トランター、P303 - P305。
  7. ^ G・M・トレヴェリアン『イングランド革命』みすず書房、1978年、180頁。 
  8. ^ Cokayne 1896, p. 223.
  9. ^ トランター、P309。
  10. ^ トレヴェリアン、P206。
  11. ^ チェスタートン、P212。
  12. ^ ジョセフィン・テイ『時の娘』ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1974年、155頁。 
  13. ^ DALRYMPLE, Hon. William (1678-1744), of Glenmuir, Ayr.”. History of Parliament Online (1715-1754). 2021年3月8日閲覧。

参考文献

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  • J・R・グリーン『イギリス国民史』鹿島研究所出版会、1968年。
  • G・M・トレヴェリアン『イギリス史・2』みすず書房、1974年。
  • G・K・チェスタートン『ブラウン神父の不信』創元推理文庫、1982年。
  • ナイジェル・トランター著、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
  • 青木康編著仲丸英起松園伸君塚直隆 他薩摩真介一柳峻夫、金澤周作、川分圭子『イギリス近世・近代史と議会制統治』吉田書店、2015年。ISBN 9784905497387 
  • Cokayne, G.E. (1896). Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct, or dormant (S to T). 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. https://archive.org/details/completepeerage07cokahrish/page/n223/mode/2up 

外部リンク

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司法職
先代
ジョージ・マッケンジー英語版
法務長官英語版
1687 – 1688
次代
ジョージ・マッケンジー英語版
先代
サー・
ジェームズ・フォーリス
英語版
民事控訴院主席書記官英語版
1688 – 1690
次代
アレクサンダー・キャンベル
先代
ジョージ・マッケンジー英語版
法務長官英語版
1689 – 1692
次代
ジェームズ・ステュアート英語版
公職
先代
ジョージ・メルヴィル英語版
スコットランド国務大臣
1691 – 1695
次代
ジェームズ・ジョンストン英語版
スコットランド王国議会英語版
先代
パトリック・パターソン
スコットランド議会議員英語版
ストランラー選挙区英語版選出

1689
次代
サー・パトリック・マレー
スコットランドの爵位
新設 ステア伯爵
1703 – 1707
次代
ジョン・ダルリンプル
先代
ジェイムズ・ダルリンプル英語版
ステア子爵
1695 – 1707