ジョンズタウン (競走馬)
ジョンズタウン(Johnstown、1936年 - 1950年)とは、アメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、および種牡馬である。1939年のアメリカクラシック二冠馬。1992年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。
ジョンズタウン | |
---|---|
欧字表記 | Johnstown |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1936年 |
死没 | 1950年 |
父 | Jamestown |
母 | La France |
母の父 | Sir Gallahad |
生国 | アメリカ合衆国 |
生産者 | Arthur B. Hancock |
馬主 | Belair Stud |
調教師 | James E. Fitzsimmons |
競走成績 | |
生涯成績 | 21戦14勝[1][2] |
獲得賞金 | 169,315ドル[1][2] |
経歴
編集若駒時代
編集1936年に、アーサー・ボイド・ハンコックのクレイボーンファームで生産されたサラブレッドの競走馬である。のちにウィリアム・ウッドワードに購入され、彼の持つベルエアースタッド名義で競走馬として登録された。馬名はペンシルベニア州の町ジョンズタウンに由来する[3]。
ウィリアムの学友でもあったジム・フィッツシモンズ調教師に預けられ、以後の21戦すべてでジェームズ・スタウトが騎乗した[2]。デビュー戦こそ落とすものの、4月のジャマイカ競馬場で行われた2戦目で初勝利を挙げている[2]。その後はブリーダーズフューチュリティ優勝など一線級で活躍、この年12戦7勝の成績を挙げた。しかし、後のアメリカ殿堂馬エイトサーティや、ホープフルステークス優勝馬のエルチコ[注 1]などに度々破れており、この時点では超一流と呼べるほどの馬ではなかった。
クラシック路線
編集3歳シーズンは4月から始動、初戦となった4月15日のポーモノクハンデキャップでは古馬を相手にしながら勝利を手にした[c 1]。続くジャマイカ競馬場での一般戦をも勝ち、前年末から続く連勝を5に伸ばした。ケンタッキーダービーの前哨戦・ウッドメモリアルステークスでは2着馬を8馬身突き放す圧勝を見せ、フィッツシモンズは同競走4連覇を達成した。
ケンタッキーダービーでは単勝オッズ1.6倍という支持を集めて、断然の1番人気に推された[1][4]。スタートこそよくなかったものの、前へと駆け出してエルチコを2番手に抑え、先頭を独走。ずるずる後退するエルチコを尻目に、1マイル(約1609メートル)を過ぎたあたりで鞍上のスタウトの合図を受け、その差をどんどんと広げていった。最終的には2着のシャルドンに8馬身の差をつけてゴール、圧勝劇でその人気に応えた[1][5]。
翌戦の三冠第2戦・プリークネスステークスは重馬場での開催となり、これはジョンズタウンに不利に働き、優勝したシャルドンから大きく離されて5着に敗退[c 1]、連勝記録も7でストップした[2]。その2週間後に迎えたウィザーズステークスでは、馬場にも恵まれて6馬身差で快勝している[c 1][2]。6月3日に行われた三冠最終戦のベルモントステークスにはシャルドンが出走しておらず、ジョンズタウンは楽に走りながらも、2着馬に5馬身差をつけて優勝し、クラシック二冠を達成した[c 2][2]。
3歳後半
編集ベルモントステークスの2週間後に迎えたドワイヤーステークスにおいて、ジョンズタウンとシャルドンは再戦を果たした。両馬はスタート直後からハナの奪い合いを演じたが、前半の3ハロンが過ぎたあたりでジョンズタウンが先頭を確保すると、そのまま終始譲らずにゴール、2着馬サンラヴァーに1馬身差をつけて勝利を飾った[c 2]。このときの1分48秒40という記録は、ディスカヴァリーが保持していたベルモントパーク競馬場9ハロンのトラックレコードとタイ記録であった[c 2]。
7月に入って出走したアーリントンパーク競馬場でのクラシックステークスでもシャルドンとの対戦となった。ジョンズタウンはここでも先頭を奪うことに成功したが、1マイルを過ぎたあたりで疲れた様子を見せ始め、シャルドンとサンラヴァーの2頭に交わされて3着に敗れた[c 2]。この競走で故障を発生し、しばらくは復帰を目指して調整されていたものの、結局は競走に戻ることなく引退に至った[c 2]。
引退後
編集引退後は故郷のクレイボーンファームで繋養され[4]、1940年より種牡馬として活動を始めた。その成績は現役のころに比べると物足りないものとなった。代表産駒としては1946年のケンタッキーオークスに勝利したファーストページ[6]がいる。またCCAオークス3着馬のセグラが母としてナシュアを出した[4]。
ジョンズタウンは14歳となった1950年に脳溢血が元で死亡[3]、その遺骸はクレイボーンファームの墓地に埋葬された[2]。のちの1992年、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はその競走成績を評価して、ジョンズタウンを殿堂馬の一頭として加えた[2][4]。
評価
編集おもな勝鞍
編集※当時はグレード制未導入
- 1938年(2歳) 12戦7勝[2]
- ベイビロンステークス、リチャードジョンソンステークス、ブリーダーズフューチュリティ、レムゼンハンデキャップ
- 1939年(3歳) 9戦7勝[2]
- ポーモノクハンデキャップ、ウッドメモリアルステークス、ケンタッキーダービー、ベルモントステークス、ドワイヤーステークス、ウィザーズステークス
表彰
編集- 1992年 - アメリカ競馬名誉の殿堂博物館により、殿堂馬として選定される。
- 1999年 - ブラッド・ホース誌の選ぶ20世紀のアメリカ名馬100選において、第73位に選ばれる。
血統表
編集ジョンズタウンの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ハンプトン系(ダークロナルド系) |
[§ 2] | ||
父 Jamestown 1928 鹿毛 アメリカ |
父の父 St. James1921 鹿毛 アメリカ |
Ambassador | Dark Ronald | |
Excellenza | ||||
Bobolink | Willonyx | |||
Chelandry | ||||
父の母 Mlle. Dazie1917 鹿毛 アメリカ |
Fair Play | Hastings | ||
Fairy Gold | ||||
Toggery | Rock Sand | |||
Tea's Over | ||||
母 La France 1928 鹿毛 アメリカ |
Sir Gallahad 1920 鹿毛 フランス |
Teddy | Ajax | |
Rondeau | ||||
Plucky Liege | Spearmint | |||
Concertina | ||||
母の母 Flambette1918 鹿毛 フランス |
Durbar | Rabelais | ||
Armenia | ||||
La Flambee | Ajax | |||
Medeah | ||||
母系(F-No.) | (FN:17-b) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Ajax 母内4x4=12.50%、 Bay Ronald 5x5=6.25%、 St. Simon 母内5x5=6.25% | [§ 4] | ||
出典 |
脚注
編集参考文献
編集- William H. P. Robertson (1964). The History of Thoroughbred Racing in America. Bonanza Books. ASIN B000B8NBV6
出典
編集- ^ a b c d “1939”. kentuckyderby.com. 2018年6月5日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c d e f g h i j k “Johnstown”. National Museum of Racing and Hall of Fame. 2018年6月5日閲覧。
- ^ a b “Johnstown (horse)”. American Classic Pedigrees. 2018年6月5日閲覧。
- ^ a b c d “Derby countdown”. The Courier-Journal. 2018年6月14日閲覧。
- ^ “1939”. kentuckyderby.com. 2018年6月14日閲覧。
- ^ “First Page (USA)”. Equibase. 2018年6月14日閲覧。
- ^ a b c “Johnstown(USA)”. JBISサーチ. 2018年6月5日閲覧。
- ^ a b “Johnstown”. netkeiba.com. 2018年6月5日閲覧。
注釈
編集- ^ エルチコ(El Chico)はJorn P. Grier産駒の牡馬で、馬主はウィリアム・ジーグラー・ジュニア、調教師はマット・ブレイディ。2歳時にホープフルステークスを含む7戦7勝を記録し、最優秀2歳牡馬に選ばれている。2歳の牡馬ながら、1歳の牝馬のような小柄な馬であったという。(Robertson p.327)