ジョセフ・ラウントリー (実業家)
ジョセフ・ラウントリー(Joseph Rowntree、1836年5月24日 - 1925年2月24日)は、イングランドのヨーク出身のクエーカーの実業家、慈善家。おそらくラウントリーは、卓越した社会改革家として、チャールス・ブースの協力者、友人として、また、当時はラウントリー家の家業であり、イギリスを代表するチョコレート製造業者のひとつとなったラウントリーズの経営者として、最もよく知られていた。有力な実業家であったラウントリーは、従業員の生活の質の改善に深く関心を寄せており、それを契機として慈善家となり、数多くのチャリティー活動に関わった。
ジョセフ・ラウントリー | |
---|---|
26歳ころのラウントリー。 | |
生誕 |
1836年5月24日 イングランド ヨーク |
死没 | 1925年2月24日 (88歳没) |
職業 | チョコレート製造 |
配偶者 |
Julia Seebohm (結婚 1862年–1863年) Emma Seebohm (1867–1925, his death) |
子供 | 6 |
公式サイト | Rowntree Society |
ラウントリーは1904年に3つのトラスト(信託財団)を創設したが、そのうちジョセフ・ラウントリー・ヴィレッジ・トラスト ( Joseph Rowntree Village Trust, JRVT) は、ガーデン・ヴィレッジとして建設されたヨーク郊外のニュー・イアーズウィックの経営にあたる組織として設立されたものであり、このほかに、ジョセフ・ラウントリー・チャリタブル・ トラスト ( Joseph Rowntree Charitable Trus, JRCT) とジョセフ・ラウントリー・ソーシャル・サービス・トラスト (Joseph Rowntree Social Services Trust, JRSST) が設立された。あとの2者は、社会改革を目指して設立されたもので、 JRCTはチャリティーとして、JRSSTは有限責任会社として設立されており、法的規制からチャリティーでは提供できない類の社会的、政治的業務をJRSSTが担うように意図されていた[1]。ラウントリー自身は、恒久的に存続するのはJRVTだけであろうと述べていたが[2]、実際にはすべてのトラストが存続し続けることとなり、JRSSTは名称をジョセフ・ラウントリー・リフォーム・トラスト (Joseph Rowntree Reform Trust) と名称を変更し、JRVTからは1968年にジョセフ・ラウントリー・ハウジング・トラスト (Joseph Rowntree Housing Trust) が分離されたため、ラウントリーが創設したトラスト群は今では4つの組織となっている。
生い立ち
編集ラウントリーは、母サラ (Sarah) と父ジョセフ・ラウントリーの間の息子として、父が食料雑貨店を営んでいたヨークのペイブメント通り (The Pavement) で生まれた[3]。彼は、ブーサム校に学んだ[4]。14歳のときに、父に従ってアイルランドへ旅行し、ジャガイモ飢饉の影響を目撃した [5]。この経験は、後の彼の政治的見解や事業の発想の基礎を作ることになった。
経歴
編集ラウントリーは、この旅行の翌年から父の店で徒弟として働き始め、1859年の父の死を受け、兄であるジョン・スティーヴンソン・ラウントリーとの共同経営で事業を継承した。
1869年には、弟であるヘンリー・アイザック・ラウントリーが所有していたチョコレート工場の経営に参画した。ヘンリー・アイザックは1883年に死去し、ジョセフは、この事業の所有者となった。彼は、この事業、ラウントリーズ社の経営において、その進歩的な着想を次々と打ち出し、1881年に開設した新工場の設計や、工場におけるその後の経営実践に活かし、例えば、独自の企業年金制度なども導入した[5]
ラウントリーズ社の工場の従業員数は、30人から始まり、19世紀末には4,000人になっており、当時のイギリスにおいて80番目に大きな工場となっていた[6]。この事業は後に、1969年にはジョン・マッキントッシュ・アンド・カンパニー (John Mackintosh and Co.)と合併し、さらに1988年にはネスレによって買収されることとなる。
ジョセフ・ラウントリーは2度結婚し、1862年に結婚した妻ジュリア・イライザ・シーボーム (Julia Eliza Seebohm) とは1863年に死別したが、1867年に亡妻の従姉妹であったエマ・アントワネット・シーボーム (Emma Antoinette Seebohm) と再婚して、6人の子どもをもうけた[6]。社会調査家として知られるシーボーム・ラウントリーは、彼の息子のひとりである。
ジョセフ・ラウントリーの墓は、一族の多くの墓とともに、ヨークのヘルシントン・ロード (Heslington Road) の The Retreat の敷地の一角にあるクエーカー墓地にある。
慈善家としてのラウントリーは、政治において、自由主義的価値を支持し、従業員の生活の質の改善に心を砕いていた。彼は、従業員たちのために図書館や無料の教育機会、企業内雑誌『The Cocoa Workers Magazine』、社会福祉の担当者、医師、歯科医師、年金基金を提供した[7]。
ジョセフ・ラウントリー・スクール
編集1942年、ニュー・イアーズウィックに、彼の名を冠したジョセフ・ラウントリー・スクール (Joseph Rowntree School) が、ジョセフ・ラウントリー・ヴィレッジ・トラストによって設立された。2010年に、この学校は、2900万ポンドをかけて、新たな場所へ移転した。この学校の生徒たちは、学校のことを「ジョロ (Jo Ro)」と通称している[8]。
銅像の設置を求める声
編集2012年夏には、ヨーク中心部の目立つ場所にジョセフ・ラウントリーの銅像を設置することを求める運動が始まった、と報じられた[9][10]。
脚注
編集- ^ 岡村、2012、p.11,
- ^ 岡村、2012、p.5,
- ^ Anne Vernon (2005). Quaker Business Man: The Life of Joseph Rowntree. Taylor & Francis. p. 10. ISBN 978-0-415-38160-4
- ^ Oxford Dictionary of National Biography[リンク切れ]
- ^ a b Joseph Rowntree Biography Archived 2008年8月29日, at the Wayback Machine. – The Joseph Rowntree Foundation 2004
- ^ a b Joseph Rowntree Biography – Oxford Dictionary of National Biography
- ^ 岡村、2012、pp.4-5,
- ^ “Ex Joseph Rowntree School pupils invited to step back into the classroom”. York Press. (2010年1月21日) 2016年5月27日閲覧。
- ^ Liptrot, Kate (2012年8月21日). “Campaign for statue of Joseph Rowntree on former “splash palace” site in York”. The Press 2017年4月21日閲覧。
- ^ Wootton, Katharine (2012年8月21日). “Statue Campaign to remember Joseph Rowntree”. One & Other. 2017年4月21日閲覧。
参考文献
編集- 岡村東洋光「ジョーゼフ・ラウントリーの「公益」思想 : 三トラストの活動を中心に」『経済学論集』第78巻第1号、東京大学経済学会、2012年、2-15頁。 NAID 120005289897
関連文献
編集- アン・ヴァーノン 著、佐伯岩夫、岡村東洋光 訳『ジョーゼフ・ラウントリーの生涯:あるクエーカー実業家のなしたフィランソロピー』創元社、2006年。
- 上記の一部に相当する部分訳:アン・ヴァーノン「翻訳 アン・ヴァーノン著『クエーカー企業家 ジョーゼフ・ラウントリーの生涯1836-1925』(上)」『エコノミクス』第10巻2/3/4、九州産業大学、2006年3月30日、65-126頁。 NAID 110006178907