サトゥ・マーレ
サトゥ・マーレまたはサトゥ・マレ(ルーマニア語:Satu Mare、発音/'sa.tu 'ma.re/; ハンガリー語: Szatmárnémeti, ドイツ語: Sathmar, イディッシュ語: סאטמאר (Satmar))は、ルーマニア、サトゥ・マーレ県の都市。
サトゥ・マーレ サトマール ドイツ人 Satu Mare Szatmárnémeti Sathmar סאטמאר | |||||
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標語 : "Împreună dăm culoare orașului!
Egyűtt tesszük színesebbé a várost!" | |||||
位置 | |||||
サトゥ・マーレの位置 | |||||
位置 | |||||
座標 : 北緯47度47分24秒 東経22度53分24秒 / 北緯47.79000度 東経22.89000度 | |||||
行政 | |||||
国 | ルーマニア | ||||
県 | サトゥ・マーレ県 | ||||
市 | サトゥ・マーレ | ||||
市長 | Gábor Kereskényi[1] (RMDSZ) | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 150.3 km2 | ||||
人口 | |||||
人口 | (2021年現在) | ||||
市域 | 90 384人 | ||||
人口密度 | 608,92人/km2 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) | ||||
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) | ||||
44xyz | 44xyz | ||||
市外局番 | +40 x61 | ||||
公式ウェブサイト : https://www.primariasm.ro/ |
現在ニューヨーク・エルサレム・ロンドンなどルーマニア国外に居住する、ハシディズム・ユダヤ教徒のサトマール派の発祥地である。
地理
編集ルーマニア北西部、ソメシュ川河岸にあり、ハンガリー国境から13 km, ウクライナ国境から27 kmしか離れていない。
人口
編集サトゥ・マーレの人口における民族分布は以下のとおりである。
歴史
編集石器時代より人が定住していた。10世紀初頭、ハンガリーの年代記にゾトマール (Zotmar) という名の要塞があったことが記載されている。年代記によると、3日間の戦いの後、要塞はハンガリーが落としたという。1006年、ハンガリー王妃ギーゼラの要請で、ドイツ人が要塞周辺に移住した。のち、さらなるドイツ移民が、ソメシュ川対岸にミンティウという定住地をつくった。
1543年以後、要塞はバートリ家の所有となり、要塞の南側の防御のため、ソメシュ川の流れが変えられ、要塞はソメシュ川にかかる3つの橋によって通りと結ばれる島の上に建つことになった。1562年にはオスマン帝国軍に要塞を包囲され、次にハプスブルク軍に包囲された。トランシルヴァニア軍は、砦を燃やし、放棄した。その後、イタリアの様式を採用して、5つの塔を持つ五角形の要塞が再建された。
1712年から1715年に、サトゥ・マーレと対岸のミンティウは徐々に合併された。1721年、神聖ローマ皇帝カール6世は統合を認め、同時に王立自由都市とされた。
18世紀には都市化が始まり、蒸気による製粉所、レンガ工場、木製品工場、材木工場など、種々の工場が作られていった。また、19世紀には商業道の交差点の立地であるため、鉄道で周辺の自治体と結ばれた。サトゥ・マーレ - カレイ線は1871年に造られた。そして、1872年にサトゥ・マーレ - シゲトゥ・マルマツィエイ線が続き、1894年にはバイア・マーレ、1900年以降にはアルドゥド、ビクサドに接続した。
1918年のルーマニアとトランシルヴァニアの統一により、サトゥ・マーレはオーストリア=ハンガリーの一部からルーマニアへ併合された。1940年に、第二次ウィーン裁定で、サトゥ・マーレを含む北トランシルヴァニア地域はハンガリーの所有になった。1944年10月に、都市はルーマニアに取り戻された。
経済
編集ハンガリー、ウクライナとの国境に近いため、流通と工業団地の位置に適している。サトゥ・マーレ工業団地は63 haの面積を持つ。サトゥ・マーレで工場を稼働させている会社は、エレクトロラックス、コンチネンタルなどがある。ドイツ、フランスの外資系小売業も市内でスーパーマーケットを展開している。
姉妹都市
編集脚注
編集- ^ “Results of the 2020 local elections”. Central Electoral Bureau. 8 June 2021閲覧。
関連項目
編集- サトゥ・マーレ市電(廃止)