コンスタンティノープル包囲戦の一覧
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東ローマ帝国の歴史上、コンスタンティノープル包囲戦と呼ばれる包囲戦が数多く存在する。その中でコンスタンティノープルが軍事的に完全に陥落したのは、1204年の第4次十字軍によるコンスタンティノープルの奪取と、1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落、この2回のみである。本項では、20回以上に及ぶ東ローマ帝国首都コンスタンティノープルの攻防戦に、前身のビュザンティオン・ビザンティウムで行われた包囲戦を加えて列挙する。
古代ビュザンティオン・ビザンティウム
編集ビュザンティオンは従来アケメネス朝に服属していたが、紀元前478年にギリシア連合軍に奪取され、以降その勢力圏となった。
- ビュザンティオン包囲戦 (紀元前510年), アケメネス朝がビュザンティオン市の反乱を鎮圧
- ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年), ペルシア戦争中、ギリシア連合軍がアケメネス朝から奪取
- ビュザンティオン包囲戦 (紀元前408年), アテナイに反抗したことによる懲罰攻撃。ビュザンティオンの武装解除
- ビュザンティオン包囲戦 (紀元前340年-紀元前339年), マケドニア王フィリッポス2世による攻撃。アテナイとの海戦に敗れ失敗
- ビュザンティオン包囲戦 (紀元前278年‐紀元前277年), ガラティア王国による攻撃、講和
- ビュザンティオン包囲戦 (紀元前251年), セレウコス朝による攻撃、失敗
以降の包囲戦は、ローマ帝国の防衛戦もしくはその内乱中の戦闘である。
- ビュザンティオン包囲戦 (紀元前73年‐紀元前72年), 第三次ミトリダテス戦争中、ポントス王ミトリダテス6世による攻撃、失敗
- ビザンティウム包囲戦 (193年-195年), 五皇帝の内戦中、セプティミウス・セウェルスがペスケンニウス・ニゲルから奪取
- ビザンティウム包囲戦 (313年), マクシミヌス・ダイアがリキニウスから奪取、しかし彼は直後のツィラッルムの戦いでリキニウスに敗れ没落
- ビザンティウム包囲戦 (324年), コンスタンティヌス1世がリキニウスから奪取、ビザンティウムはローマ帝国の首都に
諸勢力の攻撃
編集以降の包囲戦は、原則東ローマ帝国の防衛線もしくはその内乱中の戦闘である(1235年~1261年のラテン帝国期を除く)。
- コンスタンティノープル包囲戦 (626年), アヴァール人、スラヴ人、サーサーン朝による攻撃、失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (669年), ウマイヤ朝による攻撃、失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年), 同上、失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年), 同上、失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (813年), ブルガリア皇帝クルムによる攻撃、失敗
ルーシ族の攻撃
編集- コンスタンティノープル包囲戦 (860年), ルーシ族による攻撃、失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (907年), キエフ大公オレグによる攻撃。907年と911年の二度にわたり有利なルーシ・ビザンツ条約を締結
- コンスタンティノープル包囲戦 (941年), キエフ大公イーゴリ1世による攻撃、失敗。945年にルーシ・ビザンツ条約を改定
東ローマ帝国の内戦
編集- コンスタンティノープル包囲戦 (715年), テオドシオス3世による攻撃。皇位簒奪に成功
- コンスタンティノープル包囲戦 (821年-822年), トマスの反乱中、スラヴ人トマスによる攻撃、失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (1047年), レオーン・トルニキオスによる攻撃、失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (1376年), オスマン帝国の支援を受けたアンドロニコス4世パレオロゴスによる攻撃、失敗
十字軍の攻撃
編集- コンスタンティノープル包囲戦 (1203年), 第4回十字軍による最初の攻撃。アレクシオス3世アンゲロスを追放し、アレクシオス4世アンゲロスを皇帝に即位させることに成功。
- コンスタンティノープル包囲戦 (1204年) , アレクシオス4世が暗殺されアレクシオス5世ドゥーカスが登位したことによる2回目の攻撃。コンスタンティノープルは陥落、東ローマ帝国は一時滅亡して、ラテン帝国が成立した。
ニカイア帝国の攻撃
編集東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国は、ラテン帝国との数度の戦争の末にコンスタンティノープルを奪回、東ローマ帝国を復活させた。
- コンスタンティノープル包囲戦 (1235年), 第二次ブルガリア帝国とニカイア帝国の連合軍による攻撃、失敗。2年間の休戦
- コンスタンティノープル包囲戦 (1248年), ゲオルギオス・アクロポリテスが包囲戦があったと述べているが、詳細は不明。
- コンスタンティノープル包囲戦 (1260年), ニカイア帝国による攻撃、失敗
- コンスタンティノープルの回復 (1261年), ニカイア帝国の将軍アレクシオス・ストラテゴポウロス率いる部隊が、ラテン帝国軍の主力が出払った隙をついてコンスタンティノープル占領に成功。ラテン帝国は消滅し、東ローマ帝国によるコンスタンティノープル支配が復活した。最後のラテン皇帝ボードゥアン2世は抵抗を見せず亡命した。市の抵抗も少なく、包囲戦と呼べるような戦闘は発生していない。
オスマン帝国の攻撃
編集- コンスタンティノープル包囲戦 (1391年), バヤズィト1世による攻撃。マヌエル2世パレオロゴスの即位を承認し貢納を約束させて撤退
- コンスタンティノープル包囲戦 (1394年-1396年), 同上、ニコポリスの戦いのため中断
- コンスタンティノープル包囲戦 (1397年-1402年), 同上、アンカラの戦いのため失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (1411年), 空位時代中、オスマン帝国帝位請求者ムーサー・チェレビによる攻撃、東ローマ帝国と組んだメフメト1世に敗れ失敗
- コンスタンティノープル包囲戦 (1422年), ムラト2世による攻撃、失敗
- コンスタンティノープルの陥落 (1453年), メフメト2世による攻撃。コンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国が滅亡した。