クラウディオ・ガブリオレ・デ・ローネー
クラウディオ・ガブリオレ・デ・ローネー(イタリア語: Claudio Gabriele de Launay, 1786年10月6日‐1850年2月21日)は、イタリアのイタリア統一運動時代の政治家、軍人、愛国者である。サルデーニャ王国首相を務めた。
クラウディオ・ガブリオレ・デ・ローネー Claudio Gabriele de Launay | |
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生年月日 | 1786年10月6日 |
出生地 | サルデーニャ王国、デュアン |
没年月日 | 1850年2月21日(63歳没) |
死没地 | サルデーニャ王国、トリノ |
所属政党 | 歴史的右翼 |
サルデーニャ王国第7代首相 | |
内閣 | デ・ローネー内閣 |
在任期間 | 1849年3月27日 - 1849年5月7日 |
国王 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 |
生涯
編集クラウディオ・ガブリオレ・デ・ローネーはサルデーニャ王国が領有していたサヴォワ地方のデュアンに生まれた(現在はフランス領)。出生地がフランス語圏とイタリア語圏の中間地点にあったため、結婚した妻カミーユ・アンジェリーク・カーズ・ド・メリー(フランス語: Camille-Angélique de Caze de Méry)もフランス系の貴族であった[1]。
サルデーニャ軍への一時的な入隊を経てオーストリア軍に入隊後、デ・ローネーは第六次対仏大同盟及び第七次対仏大同盟に参加してナポレオン勢力に対抗。ナポレオン体制崩壊後は再びサルデーニャ軍に戻り、1825年に少佐、1831年に大佐、1843年に中将に昇格した。その後、1847年までには王の代理としてピエモンテを統治するピエモンテ総督の地位に就いた[1][2]。
第一次イタリア独立戦争では指揮官として活躍。サルデーニャ王国は敗戦し、無理な継戦で権威を失墜したカルロ・アルベルトはポルトガルに亡命、急遽ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が国王に即位するなどの混乱のさなか、1849年3月27日にはピエモンテ総督としての統治経験が評価されてサルデーニャ王国首相に任命された。なお、デ・ローネーはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の治世下で最初の首相であった。敗戦後の危機克服のため議会の解散、権力の空白の解消などに尽力したが、デ・ローネーの支持基盤は不安定でありそれら目標を達成し危機を脱したのち、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は首相をマッシモ・ダゼリオに置き換えてデ・ローネーは解任された[1]。
脚注
編集- ^ a b c d DE LAUNAY, Gabrieleイタリア人名辞典
- ^ De Launay, Clàudio Gabrièle