キルデリク1世

5世紀のフランク人サリ族の王

キルデリク1世フランス語: Childéric, ラテン語: Childericus, 435年頃 – 481/2年)はフランク人サリ族の王で、西ローマ帝国の軍人としては第二ベルギカ属州属州総督[1]。フランク族を統一してメロヴィング朝を開いたクローヴィス1世の父である。

キルデリク1世の印章指輪(複製、実物は1831年に盗難)。"CHILDIRICI REGIS"(王キルデリク)と記されている。実物はトゥルネーの墓から発見された(パリ造幣局蔵)。

生涯

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キルデリクは435年頃に生まれた[2]トゥールのグレゴリウスによれば父はフランク人サリ族の王メロヴィクス[3]、『偽フレデガリウス年代記』によれば祖父はローマ軍の将校クロディオ英語版[注 1]とされる[3][4][2][注 2]

450年頃、キルデリクはフランク族から追放された[5][2][6]年代記を記した聖職者たちは、その理由はキルデリク1世の放埒な私生活にフランク族が不満を抱いたからであるとする[5]。その期間のキルデリクについては、トゥールのグレゴリウスはテューリンゲン族ドイツ語版英語版の王バシン英語版と彼の妻であるバシナ王妃の元に身を寄せていたとし、『偽フレデガリウス年代記』はコンスタンティノープルの皇帝マルキアヌスのもとに滞在していたと伝えている[5]

キルデリクは458年頃にフランク族のもとに戻り[5]、父メロヴィクスの地位を引き継いだ[5]ランス司教レミギウスによれば、キルデリクはローマ帝国において重要な地位を占めた役人の一人であり、第二ベルギカ属州の統治者としてローマの称号によって識別されていた[7]

463年ゴート人の王テオドリック2世ローマ皇帝セウェルス3世の命令でソワソン管区へと侵攻を開始すると、キルデリク1世はソワソン管区の将軍アエギディウスに味方し、テオドリック2世の弟フレデリックポルトガル語版を戦死させてテオドリック2世を撃退した[8][2]。アエギディウスの死後、キルデリク1世はアンジェコメスであったパウルスフランス語版を支援した[9][注 3]。パウルスは、ローマ人とフランク人とともに、ゴート族を倒して戦利品を獲得した[14][注 3]オドアケルの指揮するサクソン人がアンジェを占領したが、キルデリク1世は469年にアンジェを取り返した[9][注 3]。アンジェを解放したキルデリク1世はロアール川大西洋側の河口の島々までサクソン人を追いかけ、そこで彼らを虐殺した[注 3]476年から481年の間にキルデリク1世はオドアケルと連携し、イタリア侵攻を企てたアラマンニ人に対抗した[2][15]

キルデリク1世は481年または482年に死亡し、トゥルネーに埋葬された[15][16]。キルデリク1世の死後には、彼の息子であるクロヴィスが地位を継承した[17]

 
金のハチ

キルデリク1世の墓は1653年ベルギーにあるトゥルネー12世紀の聖ブリス教会からさほど遠くないところで発見された[18][19][20][21][22]ガーネットクロワゾネ七宝[20]、ローマ帝国の金貨[20][22][21]、十字型のフィブラ[20][21][注 4]、金でできた雄牛の頭、ローマ帝国の行政文書を認証するための印璽[22][21]、王の名前が彫られた指輪[20]、など多くの貴重な品々が発見された。およそ300の金でできた蜂またはセミも王のマントの上に置かれた状態で発見された[18][21]。出土した金貨の大部分はコンスタンティノープル由来のものであり、それはキルデリク1世と東ローマ帝国との強い結びつきを想起させるものだった[21]。さらにはローマ帝国に無かった馬の蹄鉄までもが出土している[23]南ネーデルラント総督であったレオポルト・ヴィルヘルム大公は、この発見をラテン語で出版させた。宝物はまずウィーンのハプスブルク家にわたり、次にルイ14世に贈られた。彼は宝物に感銘をうけず、それを王室の図書館(革命中にフランス国立図書館になった)に保管した。ナポレオンはよりキルデリクの蜂に感銘を受け、ブルボン家のフルール・ド・リスの紋章に勝るシンボルを探していた彼は、フランス帝国のシンボルとしてキルデリクの蜂を設定した。1831年9月5日から6日にかけての夜に図書館から約80キロ分のキルデリクの宝が盗まれ、溶かして金にされた。2体の蜂を含むいくつかの宝物はセーヌの隠れ家で発見され回収された。しかし現在、宝物の記録は発見された当時に作られた素晴らしい版画と、ハプスブルク家のために作られたレプリカとしてのみ存在する。

逸話

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トゥールのグレゴリウスは『歴史十巻』(Libri Historiarum)の中で、キルデリクがフランク人の妻たちを誘惑したとして自身の王国から追放された話を記録している。彼は追放を解くための交渉を友人に依頼し、その間テューリンゲンのバシン王と彼の妻であるバシナ王妃の元に身を寄せた。キルデリクと友人は一枚の金貨を分割して所持していた。8年後、追放が解かれたとの報せが金貨の片割れと共に届いたことにより、キルデリクは報せが正しいことを確信し、自身の王国に戻った。その頃、バシナは王と離縁した。キルデリクは後を追ってきたバシナに告白され、2人は結婚した[24][25]

妻子

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キルデリク1世はバシナと結婚し、以下の子供を儲けた。妻のバシナについては、トゥールのグレゴリウステューリンゲン族ドイツ語版英語版の王妃であったとし、フランスルネ・ミュソ=グラールフランス語版はキルデリク1世がコンスタンティノープルに滞在していた時期に娶ったビザンツ宮廷に近い女性であったとしている[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ テウドメール英語版の子、リコメルの孫。
  2. ^ トゥールのグレゴリウスは、クロディオとの関係については「キルデリクスの父であるメロヴィクがクロディオの子孫であると主張する者もいる」と言葉を濁している[3]
  3. ^ a b c d これらは『アンジェの年代記ドイツ語版』をもとにしたとされるトゥールのグレゴリウスが残した曖昧な記述の解釈の一つである[10][11]。他にもキルデリクとオドアケルが連携して戦ったとする説[11]、キルデリクとパウルスが連携して戦ったとする説[12]、キルデリクがオドアケルとパウルスからアンジェを奪い取ったとする説[13]、など様々な解釈が存在している[11]。グレゴリウスの曖昧な記述から当時の状況を再現することは極めて困難であり、出来事の詳細については定説と呼べるほどのものはない[11]
  4. ^ ローマ帝国で高位の役人が身につける外套を留めるための装身具[21][20]

出典

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  1. ^ カタリン・エッシェー, ヤロスラフ・レベディンスキー 著、新保良明 訳『アッティラ大王とフン族 〈神の鞭〉と呼ばれた男』講談社、2011年、147頁。ISBN 9784062584777 
  2. ^ a b c d e エチエンヌ・ルナール 著、加納修 訳「中世初期の法テクストの「考古学」 -『サリカ法典』-」、佐藤彰一 編『歴史テクストの解釈学:針路、解釈実践、新たな諸問題 :「テクスト布置の解釈学的研究と教育」第6回国際研究集会報告書』名古屋大学大学院文学研究科、2009年12月。 
  3. ^ a b c グラール2000、pp.20-22。
  4. ^ ジュール・ミシュレ『フランス史 中世I』論創社、2016年、196頁。ISBN 4846015548 
  5. ^ a b c d e f グラール2000、pp.26-32。
  6. ^ Wallace-Hadrill Long-Haired Kings p. 158 - 161
  7. ^ ジャン2009、pp.14-17。
  8. ^ グラール2000、p.27。
  9. ^ a b Collins Early Medieval Europe p. 103
  10. ^ Michel Rouche (1996). Clovis. Fayard. ISBN 9782213596327 
  11. ^ a b c d 加納修 著「西ヨーロッパ世界の再編」、南川高志 編『378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、75-77頁。ISBN 9784634445024 
  12. ^ 五十嵐2003、p.322。
  13. ^ グラール2000、pp.27-28。
  14. ^ Heather Fall of the Roman Empire p. 416
  15. ^ a b Collins Early Medieval Europe p. 112 - 113
  16. ^ Wallace-Hadrill Long-Haired Kings p. 3
  17. ^ Wickham Inheritance of Rome p. 112
  18. ^ a b Wallace-Hadrill Long-Haired Kings p. 162
  19. ^ Location of Childeric's grave: A plaque at the site reads (in French): "Childeric King of the Franks Died in his palace in Tournai the year 481. His tomb was found in this place in the year 1653"”. Archaeology in Europe. 2015年12月9日閲覧。
  20. ^ a b c d e f ジャン2009、p.16。
  21. ^ a b c d e f g グラール2000、pp.32-36。
  22. ^ a b c 五十嵐2003、p.323。
  23. ^ 蹄鐵工沿革調」『中央獸醫會雑誌』 43巻 11号 1930年 p.919-921, 日本獣医学会, doi:10.1292/jvms1888.43.919
  24. ^ トゥールのグレゴリウス著、杉本正俊訳、『フランク史―一〇巻の歴史』第2巻 一二
  25. ^ Gregory of Tours (c. 538-594 A.D.). “Historiae, Libri X” (Latin). The Latin Library. 2017年7月9日閲覧。

参考文献

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関連項目

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先代
メロヴィクス
サリ・フランク族の王
440年 - 481年
次代
クローヴィス1世