カンクリ(Qangli)は、12世紀から13世紀ごろカザフステップに存在したテュルク系遊牧民族ホラズム・シャー朝において強い勢力を持ち、モンゴル帝国によって征服された。『金史』『元史』などの中国史料では康里と表記される[1][2]元朝期にはいわゆる色目人として有力者を輩出した。

名前の由来

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Qangliとはテュルク語で「二輪の車」を意味する[3]

起源

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集史』部族篇には、オグズ族の分派としてウイグルキプチャクカルルクカラジアガチェリとともにその名が記されている[4]

オグズが自分の父、叔父、兄弟、甥たちと戦い、彼らの国を襲撃し掠奪していたまさにその時、その他の人たちは獲物を駄獣に背負わせていたのに、すべての人々の中で、彼に合流して彼と一緒になった彼の一族から出たこの者たちは皆、自らの知見により、荷馬車を作ってそれに(全ての)鹵獲物を積み込んだ。(荷車をテュルク語で「カンクリ」というので、)そのため、彼らもカンクリの名で呼ばれたのである。カンクリの全枝族は、彼らの子孫から(出ている)。ともあれ、アッラーはもっとよくご存じである! — ラシードゥッディーン『集史』部族篇

名称やその由来に類似点がある弓月族や高車族との関係が考えられるが、これについては議論がある[5][6]。村上正二によると、むしろキプチャク族の分派かエメク(Ämäk)族[7]などから分岐したものかもしれないとする[3]

ホラズム・シャー朝との関係

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カンクリ族の一部族であるバヤウト部族のジンクシ・カンの娘テルケン・ハートゥーンホラズム・シャー朝スルターンであるアラーウッディーン・テキシュと結婚して以来、その親族である多くのカンクリ族の首領たちはホラズム領内に住むようになり、ホラズムのスルターンに仕えるようになった。テルケン・ハートゥーンの信任やその他のカンクリ兵の功績により、カンクリの首領たちはホラズム諸将のなかでも最高位に進められ、ホラズム国内において強い権力を振るうことができた。テルケン・ハートゥーンは次のスルターンであるアラーウッディーン・ムハンマドの母でもあり、カンクリ族の将軍たちで組織された党派の指導者でもあったため、スルターンと同等の権力をもっていた。例えば、アラーウッディーン・ムハンマドとテルケン・ハートゥーンの両者から異なった命令が下った場合、その受命者はその日付が新しい方を採用したり、アラーウッディーン・ムハンマドが一州を獲得した場合はその大部分をテルケン・ハートゥーンにやらねばならなかった。また、テルケン・ハートゥーンは「フダーバンダ・ジャハーン(世界の君主)」という称号をもっていた。

[8]

居住地

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12世紀末の中央アジア

カンクリ族の居住地はホラズム湖(アラル海)の北、カスピ海の北東、ウラル川の東にあたる乾燥平原であり、その西隣にはキプチャク族がいた[9]

著名な人物

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脚注

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  1. ^   (中国語)『金史 巻121 列伝第59 忠義1 粘割韓奴伝』。ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ 松田壽男 1930, p. 94.
  3. ^ a b 村上正二 1965.
  4. ^ 佐口(1968), p. 308.
  5. ^ 白鳥庫吉 1911, pp. 329–330.
  6. ^ 松田壽男 1930, pp. 94–96.
  7. ^ キプチャクと共に「2つのエメク(Iki-Ämäk)」(キマク Kīmāk)を形成した遊牧民族。
  8. ^ 佐口(1968), p. 170-172.
  9. ^ 佐口(1968), p. 170-171.

参考資料

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  • ドーソン、佐口透『モンゴル帝国史』平凡社〈東洋文庫〉、1968年。ISBN 4582801102NCID BN01448196https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I008251601-00 
  • 松田壽男弓月に就いての考」『東洋学報』第18巻第4号、東洋文庫、1930年10月、NAID 120006515120 
  • 白鳥庫吉西域史上の新研究(1)」『東洋学報』第1巻第3号、東洋文庫、1911年10月、NAID 120006514707 
  • 村上正二「モンゴル帝國成立以前における遊牧民諸部族について : ラシィード・ウッ・ディーンの「部族篇」をめぐって」『東洋史研究』第23巻第4号、東洋史研究會、1965年3月、478-507頁、doi:10.14989/152678hdl:2433/152678ISSN 0386-9059 

関連項目

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