アイ・ベク
カンクリ部出身で、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人
アイ・ベク(Ai beg、? - 1254年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、カンクリ部の出身。『元史』などの漢文史料では艾貌(àimào)、もしくは愛伯(àibǎi)と記される。
概要
編集アイ・ベクはカンクリ族の出身で、チンギス・カンの時代にモンゴル帝国に仕えるようになった。アイ・ベクは当初スブタイの指揮下に入ってルーシ遠征に加わり、キプチャク族の攻略に功績を挙げた。その後は第2代皇帝オゴデイの金朝親征に千人隊長(ミンガン)として従軍し、河西から南下して河南一帯の平定に従事した。1233年にはグユクによる大真国攻略にも参加し、いずれにも武功を挙げた。
1235年からは皇太子クチュ(オゴデイの第4子)の南宋遠征に従軍し、「家の子郎党(ゲルン・コウン)」に任命された。長江を渡って鄂州を包囲したものの、そこで病没した。死後は息子のイェスデルが跡を継ぎ、クビライの大元ウルスに仕えて父同様武功を残した。なお、元史巻133列伝20に立伝される「也速䚟児」とその父「愛伯」は巻123列伝10の「艾貌」とその息子「也速台児」と同一人物である[1][2][3]。
脚注
編集- ^ 屠寄『蒙兀児史記』巻153蒙兀氏族表下
- ^ 『元史』巻123列伝10艾貌抜都伝,「艾貌抜都、康里氏。初従雪不台那演征欽察、攻河西城、収西関、破河南;継従定宗略地阿奴、皆有功。又従四太子南伐、命充怯憐口阿答赤孛可孫。又従兵渡江攻鄂、以疾卒於軍。子也速台児、従討阿藍答・渾都海、征李璮、伐宋、累功授管軍総把。至元十四年、従攻福建興化、招古田等処民五千餘戸、以功升武略将軍・千戸、賜金符。又招手号新軍二千五百餘人、升宣武将軍・総管、賜虎符。有旨征日本、也速台児願效力、賜以弓矢、進懐遠大将軍・万戸。二十年、授泰州万戸府達魯花赤。二十三年、遷昭勇大将軍・欽察親軍都指揮使。二十四年、従征乃顔有功。明年卒。後贈金吾衛上将軍、追封成武郡公、諡顕敏」
- ^ 『元史』巻133列伝20也速䚟児伝,「也速䚟児、康里人。父愛伯、伯牙兀氏。太祖時率衆来帰。初、以五十戸従軍南征、力戦而死。也速児世其官」