カルロス・レナト・フレデリコ
カルロス・レナト・フレデリコ(Carlos Renato Frederico、1957年2月21日 - )は、ブラジル・サンパウロ州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(センターフォワード、右ウイング)、ミッドフィールダー(攻撃的ミッドフィールダー、右サイドハーフ)[2][3]。日本での登録名はレナト[3]。出身地の名を冠してレナト・モルンガバとも称される[1]。
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グアラニFC時代のレナト(前列左から2人目) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
カルロス・レナト・フレデリコ Carlos Renato Frederico | |||||
愛称 | レナト・モルンガバ[1]、ペムーショ[2][3] | |||||
ラテン文字 | RENATO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1957年2月21日(67歳) | |||||
出身地 | モルンガバ | |||||
身長 | 182cm[4] | |||||
体重 | 77㎏[4] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1975-1980 | グアラニFC | 80 | (24) | |||
1980-1984 | サンパウロFC | 83 | (33) | |||
1985 | ボタフォゴFR | 17 | (2) | |||
1986-1989 | アトレチコ・ミネイロ | 66 | (18) | |||
1989-1992 | 日産自動車 / 横浜マリノス | 58 | (35) | |||
1993 | 柏レイソル | 0 | (0) | |||
1994-1996 | AAポンチ・プレッタ | |||||
1997 | ECタウバテ | |||||
通算 | 304 | (112) | ||||
代表歴 | ||||||
1979-1987 | ブラジル | 22 | (3) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集クラブ
編集ブラジル時代
編集カンピーナス近郊のモルンガバの出身で、少年時代はフットサルで技術を磨いた[5]。16歳の時にSEパルメイラスのテストを受けたが落選し、そのしばらく後にアダイウトン・ラデイラの勧いを受けてグアラニFCの育成組織に加入した[5]。1975年にプロ契約を締結すると、中盤のほか右ウイングやストライカーを務めた[2]。1978年、カルロス・アルベルト・シルバ監督の下で、ゼノンやゼ・カルロスとともに中盤を形成[5]。同年のブラジル全国選手権では準々決勝のスポルチ・レシフェ戦や準決勝のCRヴァスコ・ダ・ガマ戦で得点を決めるなど[5][6]、全32試合に出場し、チームメイトのゼノンやカレカの13得点に次ぐ10得点をあげて初優勝に貢献した[2][7]。
1980年、カルロス・アルベルト・シルバ監督とともにサンパウロFCへ移籍[5]。サンパウロではオスカー、ゼ・セルジオ、セルジーニョらとチームメイトとなり[3]、4シーズンの間に2度のサンパウロ州選手権優勝(1980年、1981年)を経験[8]、個人としては通算298試合に出場し100得点をあげた[9]。
1984年までサンパウロで過ごしたがシリーニョ監督の下では構想外となり[5]、1985年にボタフォゴFRに移籍[3]。ボタフォゴではクラブの財政状況やチーム内の人間関係が悪化していたのに加え、自身も結果を残すことはできずに終わった[3]。
1986年にアトレチコ・ミネイロへ移籍すると、テレ・サンターナやジャイール・ペレイラといった監督の下で復調を果たし、2度のミナスジェライス州選手権優勝(1986年、1988年)を経験[8]。1987年のコパ・ウニオンでは準決勝でCRフラメンゴに敗れたものの[5]、サンパウロのミューレルに次いで得点ランキングの2位に入り、ボーラ・ジ・プラッタ(ベスト11)に選ばれた[3]。また、1988年5月8日に行われたボア・エスペランサFC戦では135秒間にハットトリックを達成している[3][9]。
日産自動車、横浜マリノス
編集1989年夏、サンパウロ時代の同僚のオスカーからの誘いを受けて日本サッカーリーグ (JSL) 1部の日産自動車サッカー部に加入[3][10]。同年8月、合流後初の公式戦となったアジアクラブ選手権1989-90予選ラウンド(中国・瀋陽市で集中開催)では、第2戦のハップ・カン戦で4得点[11]。1989-90シーズンの幕開けとなる第14回JSLカップでは、決勝のヤマハ発動機戦こそ暑さにより精彩を欠き無得点に終わったものの、2回戦の川崎製鉄戦、3回戦の全日空戦、フジタ戦といずれも先制点をあげる活躍を見せた[12]。また、同年10月1日に行われたJSLオールスターサッカーでは同僚の木村和司、水沼貴史らとともにWESTの選手として出場し、水沼のアシストから1得点を決めた[13][14]。
加入当初は中盤での起用となったが、シーズン半ばからフォワードに定着[15]。同年冬の第69回天皇杯では準決勝の読売クラブ戦で決勝ゴール[16]、決勝のヤマハ発動機戦でも同点ゴールをあげて優勝に貢献した[16]。リーグ戦では優勝の行方を左右する一戦となった第15節の古河電工戦で1得点1アシストの活躍[17]、第11節と第22節の日立製作所戦でのハットトリックを含む17得点をあげて得点王となり、リーグ優勝に貢献した[18][19][20]。
翌1990-91シーズンは、第15回JSLカップ決勝の古河電工戦では先制ゴールを決めて優勝に貢献した[21][22]。リーグ戦では読売クラブに競り負け3連覇を逃したものの、自身は10得点をあげて2年連続で得点王となった(戸塚哲也、北沢豪と同時受賞)[23]。
1991-92シーズン、第71回天皇杯決勝の読売クラブ戦ではエバートンの先制点に繋がる飛び出しを見せると、1-1の同点で迎えた延長戦では水沼の左クロスを相手DFを背負いながら後方に落とし、木村和の決勝点をアシストした[24]。さらに前線での巧みなキープから山田隆裕の3点目のゴールをアシストし、終了間際にはダメ押しとなる4点目のゴールをあげるなど全得点に絡み、優勝に貢献した[24][25]。リーグ戦では1992年1月26日に行われた第14節のトヨタ自動車戦を最後に欠場が続いたため3季連続の得点王を逃したものの[20]、2月7日に行われた第2回アジアカップウィナーズカップ決勝、アル・ナスルとの第2戦ではハットトリックを決め大会制覇に貢献した[26]。
同年、プロ化により横浜マリノスへ移行後もチームに在籍[4]。成長株の神野卓哉とポジションを争うことになったが、ナビスコカップでは第4節のサンフレッチェ広島戦での1得点[27]、第72回天皇杯では無得点に終わった[28]。
1993年1月17日に行われた第3回アジアカップウィナーズカップ決勝、ペルセポリスFCとの第1戦が日産および横浜Mでの最後の試合出場となり、0-1のスコアで迎えた82分に山田のクロスから左足でゴールを決めラストゲームを飾った[29]。
代表
編集ブラジル代表としてはクラウジオ・コウチーニョ監督時代の1979年に初招集され[5]、同年7月26日に行われたコパ・アメリカ1979グループリーグ、ボリビア代表戦でデビューした[3][30]。
コウチーニョの後任のテレ・サンターナの下でも引き続き代表に招集され、1980年12月から1981年1月にかけてウルグアイで開催された1980 ムンディアリートでは、グループリーグ初戦のアルゼンチン代表戦に出場[31][32]。1982年1月26日に行われた東ドイツ代表との国際親善試合で代表初得点を記録し[33]、同年6月にスペインで開催された1982 FIFAワールドカップの代表メンバーに選ばれたが、10番を背負うジーコの控えという立場だったこともあり出場機会はなかった[3][9]。
1983年にはカルロス・アルベルト・パレイラ監督の下でコパ・アメリカ1983の代表メンバーに招集され、決勝のウルグアイ代表戦を含む6試合に出場した[34]。
1987年、クラブでの好調ぶりもありカルロス・アルベルト・シルバ監督の下で4年ぶりに代表に招集[5]。同年12月9日に行われたチリ代表との国際親善試合に出場し決勝点を挙げたが[35]、この年が最後のブラジル代表への招集となった[5]。代表での通算成績は国際Aマッチ22試合出場3得点[36]。
キャリアの晩年と引退後
編集横浜Mを退団後、ジャパンフットボールリーグの日立FC柏レイソルに加入[2][9]。日本でのキャリア晩年には膝の軟骨に問題が生じ、医師からはサッカーを続けられなくなると診断されており[2]、6か月ほど在籍した後、ブラジルへ帰国した[9]。帰国後、理学療法士を介して古巣のグアラニに練習参加の申し入れをしたが連絡はなく、AAポンチ・プレッタへ加入することになった[2]。ライバルチームへの移籍ということもあり、双方のサポーターからは批判の声もあった[2]。その後、ECタウバテでプレーし1997年に現役を引退した[9]。
引退後はサンパウロの郊外にあるイタチバでサッカースクールを開いていた[9][37]。2015年に古巣のグアラニに復帰し[1]、ユース部門のコーチを務めたが2017年1月に成績不振により辞任した[38]。その後、トップチームのコーチなどの役職を経て[1]、2020年時点では同クラブのベースコーディネイターを務めている[39][40]。
エピソード
編集- 愛称の「ペムーショ」とはFIFAワールドカップ・スペイン大会の際に付けられたもので、「萎んだ足」を意味する[3]。当時のブラジル代表には強烈なシュート力を持つ選手が多く、レナトは彼らのようなシュート力を持ち合わせていなかったことが由来とも[3]、練習中に酷い蹴り方をして遊んでいたソクラテスやジュニオールが名付けたものともいわれたが[40]、2018年になりジュニーニョ・フォンセカが名付けたものだと明らかにした[40]。ジュニーニョ・フォンセカはグアラニのライバルにあたるAAポンチ・プレッタに所属しレナトとはライバル関係にあったといい、冗談で名付けたのだと語っている[40]。
個人成績
編集出典[36]
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1975 | グアラニ | セリエA | 21 | 5 | - | - | 21 | 5 | |||
1976 | 13 | 3 | - | - | 13 | 3 | |||||
1977 | 14 | 6 | - | - | 14 | 6 | |||||
1978 | 32 | 10 | - | - | 32 | 10 | |||||
1979 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | |||||
1980 | サンパウロ | 17 | 5 | - | - | 17 | 5 | ||||
1981 | 11 | 0 | - | - | 11 | 0 | |||||
1982 | 18 | 12 | - | - | 18 | 12 | |||||
1983 | 22 | 13 | - | - | 22 | 13 | |||||
1984 | 14 | 3 | - | - | 14 | 3 | |||||
1985 | ボタフォゴ | 17 | 2 | - | - | 17 | 2 | ||||
1986 | アトレチコ-MG | 27 | 4 | - | - | 27 | 4 | ||||
1987 | 17 | 8 | - | - | 17 | 8 | |||||
1988 | 23 | 8 | - | - | 23 | 8 | |||||
1989 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | |||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1989-90 | 日産 | 26 | JSL1部 | 22 | 17 | 4 | 4 | 5 | 4 | 31 | 25 |
1990-91 | 22 | 10 | 4 | 1 | 5 | 5 | 31 | 16 | |||
1991-92 | 9 | 14 | 8 | 3 | 0 | 5 | 6 | 22 | 14 | ||
1992 | 横浜M | - | J | - | 6 | 1 | 4註1 | 0 | 10 | 1 | |
1993 | 柏 | 9 | 旧JFL1部 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | ポンチ・プレッタ | セリエB | - | ||||||||
1995 | - | ||||||||||
1996 | - | ||||||||||
1997 | タウバテ | SP セリエA3 | - | ||||||||
通算 | ブラジル | セリエA | 166 | 55 | - | 166 | 55 | ||||
ブラジル | セリエB | - | |||||||||
日本 | J | - | 6 | 1 | 4 | 0 | 10 | 1 | |||
日本 | JSL1部 | 58 | 35 | 11 | 5 | 15 | 15 | 84 | 55 | ||
日本 | 旧JFL | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||||
総通算 |
- 註1 1回戦の金沢クラブ戦のメンバーについては不明。
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合2得点
- 1991年
- コニカカップ 7試合1得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
代表歴
編集- 1979年 - 1987年 ブラジル代表
- 代表通算 - 22試合3得点[36]
- 1982年 - ワールドカップスペイン大会
- 1983年 - コパ・アメリカ (準優勝)
ブラジル代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1979 | 1 | 0 |
1980 | 6 | 0 |
1981 | 3 | 0 |
1982 | 2 | 1 |
1983 | 8 | 1 |
1984 | 0 | 0 |
1985 | 0 | 0 |
1986 | 0 | 0 |
1987 | 2 | 1 |
通算 | 22 | 3 |
選抜歴
編集タイトル
編集クラブ
編集- グアラニ
- サンパウロ
- サンパウロ州選手権:2回 (1980、1981)
- アトレチコ・ミネイロ
- ミナスジェライス州選手権:2回 (1986、1988)
- 日産自動車 / 横浜マリノス
- 日本サッカーリーグ:1回 (1989-90)
- 天皇杯:3回 (1989-90、1991-92、1992-93)
- JSLカップ:2回 (1989、1990)
- アジアカップウィナーズカップ:1回 (1991-92)
個人
編集脚注
編集- ^ a b c d “Careca, Zenon... Veja por onde andam os campeões brasileiros pelo Guarani em 1978”. globo.com (2020年6月3日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Por Murilo Borges (2018年8月9日). “Ele "pagou" o tobogã, ganhou apelido injusto e foi "melhor que Kaká": conheça Renato, o único intocável do Guarani de 78”. globo.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「プレーヤーズ・ポートレート&プロフィール 第15回 レナト(日産FC)」『サッカー・マガジン』1989年12月号、ベースボール・マガジン社、42頁。
- ^ a b c 「Jリーグ・カップ登録メンバーリスト」『サッカーマガジン』1992年10月号、ベースボール・マガジン社、88頁。
- ^ a b c d e f g h i j “Os 60 anos de Renato, o "pé murcho" mais habilidoso do futebol brasileiro”. trivela.com (2017年2月21日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ “IV COPA BRASIL - 1978 [Brazilian Championship]”. rsssf.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Quando o Brasil se curvou ao Guarani”. Gazeta Esportiva (2018年8月13日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b “Renato Morungaba destaca força do Atlético, mas crê no São Paulo”. spfc.net (2013年5月1日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Renato Pé Murcho - Que fim levou?”. Terceiro Tempo. UOL. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “レナトとエバートン”. 賀川サッカーライブラリー. 2021年1月閲覧。
- ^ 「日本リーグ1部情報」『サッカー・マガジン』1989年11月号、ベースボール・マガジン社、198頁。
- ^ 日本サッカーリーグ 1990、150-151頁
- ^ a b 日本サッカーリーグ 1990、157頁
- ^ 「'89 コダックオールスターサッカー 日産勢ハツラツ!! WEST、前回に続き勝利」『ストライカー』1989年12月号、学研、8-10頁。
- ^ 「JSL1部前期最終節フラッシュ "純血"古河、トップでUターン! 王者日産、1勝ち点差で追う」『サッカー・マガジン』1990年2月号、ベースボール・マガジン社、47-51頁。
- ^ a b 「日産底力まざまざ 鮮やか逆転劇で2年連続V!!」『ストライカー』1990年3月号、学研、140頁。
- ^ 日本サッカーリーグ 1990、108頁
- ^ 日本サッカーリーグ 1990、104頁
- ^ 日本サッカーリーグ 1990、115頁
- ^ a b 「日本サッカーリーグ全史」編集委員会 編『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年、170-171頁。
- ^ 「連続7冠を成し遂げた日産の強さを徹底分析」『ストライカー』1990年11月号、学研、27-31頁。
- ^ 日本サッカーリーグ 1990、142-143頁
- ^ a b c 日本サッカーリーグ 1991、122頁
- ^ a b 財徳健治「サッカーの醍醐味がつまった120分間のお年玉 天皇杯レポート」『サッカー・マガジン』1992年3月号、ベースボール・マガジン社、110-111頁。
- ^ 六川亨 (2017年12月25日). “【六川亨の日本サッカーの歩み】天皇杯こぼれ話”. 超WORLDサッカー. 2021年10月16日閲覧。
- ^ 『ストライカー』1992年4月号、学研、12-14頁。
- ^ “公式記録 ’92Jリーグ ヤマザキナビスコカップ 第4節第2日”. J.League Data Site. 2021年10月16日閲覧。
- ^ 「RESULT 天皇杯」『サッカー・マガジン』1993年2月2日号、ベースボール・マガジン社、194-195頁。
- ^ 「日産FC連覇に暗雲 ホームで苦しみのドロー」『サッカー・マガジン』1993年2月21日号、ベースボール・マガジン社、32-33頁。
- ^ “BOLIVIA – Brazil 26/07/1979”. Sambafoot.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Mundialito 1980 (Montevideo, Uruguay)”. rsssf.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “ARGENTINA – Brazil 04/01/1981”. sambafoot.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Brazil – REPUBLIQUE DEMOCRATIQUE ALLEMANDE 26/01/1982”. sambafoot.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Copa América 1983”. rsssf.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Brazil – CHILE 09/12/1987”. sambafoot.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c “Renato Carlos Renato Frederico”. National Football Teams.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Renato, do Guarani à Copa de 82”. torcedores.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Campanha na Copa São Paulo causa saída de Renato Pé Murcho do Bugre”. globo.com (2017年1月6日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Guarani FC: comissão técnica da base terá 5 categorias para comandar em 2020/2021”. Ji esportes (2020年8月20日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c d “Ele foi vítima de uma das primeiras 'fake news' em Copas; saiba qual”. R7 FUTEBOL (2020年5月20日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ 日本サッカーリーグ 1991、157頁
- ^ 「読売ク勢はつらつ、EASTが2連勝」『サッカー・マガジン』1992年4月号、ベースボール・マガジン社、54頁。
- ^ 日本サッカーリーグ 1991、159頁
- ^ “Bola de Prata (Placar Magazine)”. rsssfbrasil.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b 日本サッカーリーグ 1990、122-123頁
参考文献
編集- 日本サッカーリーグ 編『日本サッカーリーグ・イヤーブック '90→'91』日本サッカーリーグ、1990年。
- 日本サッカーリーグ 編『日本サッカーリーグ・Year book '91-'92』日本サッカーリーグ、1991年。
関連項目
編集外部リンク
編集- カルロス・レナト・フェデリコ - National-Football-Teams.com
- カルロス・レナト・フェデリコ - Soccerway.com
- カルロス・レナト・フェデリコ - FootballDatabase.eu
- カルロス・レナト・フェデリコ - WorldFootball.net
- カルロス・レナト・フェデリコ - Transfermarkt.comによる選手データ
- カルロス・レナト・フェデリコ - J.League Data Siteによる選手データ