エルンスト・オップラー
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エルンスト・オップラー(Ernst Oppler、1867年9月9日 - 1929年3月1日)はドイツの画家、版画家である。
エルンスト・オップラー Ernst Oppler | |
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自画像(1928) | |
生誕 |
1867年9月9日 プロイセン王国、ハノーファー |
死没 |
1929年3月1日 ドイツ国、ベルリン |
運動・動向 | ベルリン分離派 |
略歴
編集ハノーファーで生まれた。父親は当時有名であったポーランド生まれのユダヤ系の建築家、エドウィン・オップラー(Edwin Oppler:1831- 1880)で、弟に彫刻家のアレキサンダー・オップラー(Alexander Oppler:1869-1937)や、医師のベルトホルト・オップラー(Berthold Oppler:1871-1943)らがいる。
1886年の夏にミュンヘンに移り、ミュンヘン美術院でニコラオス・ギジスやルートヴィヒ・フォン・レフツに学んだ[1]。ハインリヒ・クニルの私立美術学校でも学び、1892年には作品がバイエルン王国の王子に買い上げられ、シカゴ万国博覧会にも出展した。1894年にロンドンに移り1897年まで滞在し、独自のスタイルで活躍していたジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品をの版画にするなどして、学んだ[2]。ホイッスラー招かれ、1898年に設立され、ホイッスラーが初代会長を務めた「国際彫刻家、画家、版画家協会」(International Society of Sculptors, Painters and Gravers)の会員になった。オップラーの初期の作品は自然主義的なスタイルであった。1895年にミュンヘン分離派のメンバーになり、ベルリン分離派のメンバーにもなった。1895年からヴェネツィアの展示会に出展し、1901年にミュンヘンで開かれた国際展にも出展した。ミュンヘンに戻った後、1895年にミュンヘン分離派のメンバーに加わった。
1901年にオランダの町、スロイスに移り、しばらく風景画を描いた。さらにフランス、ノルマンディーの港町、ディエップを訪れ、海岸の風景を描き、ベルギーも旅した。1904年のはじめに、ブリュッセルで開かれた印象派画家の展覧会にも出展した。
1904年に「新印象派」の画家パウル・バウム(Paul Baum)に招かれてベルリンに移り、ベルリンで「ベルリン分離派」の重要なメンバーになり、その展覧会に出展を続けた。ベルリン分離派の内部で、「表現主義」の画家たちとの意見の違いなどがあり、「ベルリン分離派」が分裂した後、分離派の展覧会への参加をやめた。第一次世界大戦が始まると召集され戦場にでて、戦後、戦争に関する作品を制作した。
バレーなどの舞台芸術を題材にした作品も描き、舞踏家で後に有名な映画監督となるレニ・リーフェンシュタールと親しく彼女の肖像画を残した。
1929年にベルリンで没した。
作品
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「ディエップの海岸」(1900)
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風景画 (1910)
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「レガットレースを見る人々」(1910)
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ボクシング(1920)
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「バレー」(1915)
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「黒衣の女性」(1922)
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"Der Maler und Jo"(1928)
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「舞台衣装の女性」
参考文献
編集- ^ Deutsche Biographische Enzyklopädie. Band 7: Menghin – Pötel. Saur, München 2007, ISBN 978-3-598-25037-8, S. 596.
- ^ Correspondances of James McNeill Whistler, University Glasgow, abgerufen am 3. Februar 2016.