エルネス・ツルペン
エルネス・オーギュスタン・ツルペン(音訳:大城鶴翩[1]、仏語:Ernest Augustin Tulpin、1853年7月6日 - 1933年11月18日)は、フランスの神父、パリ外国宣教会に所属していた。来日し、秋田、鶴岡、新潟、庄内鶴ケ丘、酒田、佐渡、東京浅草、岐阜、名古屋、加賀、金沢、美濃、高山、東京麻布で司祭を務めた。ひげとパイプの宣教師として知られた。
エルネス・オーギュスタン・ツルペン Ernest Augustin Tulpin | |
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教会 | カトリック教会 |
聖職 | |
司祭叙階 | 1877年 |
個人情報 | |
出生 |
1853年7月6日 フランス王国 オート=マルヌ県 ボアジー町 |
死去 |
1933年11月18日 日本 東京府 (現・ 東京都) |
国籍 | フランス |
生涯
編集1853年7月6日フランス東部のオート=マルヌ県ボアジー町の領主の家で誕生。17歳のとき神学校入学。1874年6月18日、21歳のときパリ外国宣教会の大神学校へ進学。4年間の神学研究ののち、1877年(明治10年)2月24日宣教師資格を得る。同年5月3日パリを出発。同年東京の築地教会に到着。日本語学習ののち、伝道士の先導で奥羽地方に布教開始。秋田の家老屋敷を800円で買い取り、ここを拠点として、鶴岡、新潟、庄内鶴ケ丘、酒田、佐渡を回る。1880年(明治13年)から3年間東京浅草教会の主任司祭。孤児や信者の子どもの教育に当たる。1884年(明治17年)1月から再び奥羽及び中部地区を巡回布教。1886年(明治19年)岐阜に5箇所の説教所を設置。1887年(明治20年)名古屋教会の主任となり、研屋町の仮聖堂を根拠として加賀、金沢、美濃に布教。1889年(明治22年)名古屋主税町に土地千坪を購入し、聖堂と小学校とを建てる。1890年(明治23年)養老院設置。1905年(明治38年)名古屋離任までのあいだに『公教要旨』、『公教小略』などを出版。また、岐阜、金沢などで講演を行う。そののち、高山教会で1年ほど働き、1907年(明治40年)1月東京麻布教会の主任司祭に就任。1927年(昭和2年)5月1日、司祭就任50年の金祝を迎え、さらに数年司牧に当たる。1932年(昭和7年)主任隠退。1933年(昭和8年)11月18日、東京にて死去。青山霊園外人墓地に埋葬。[2][3]
著書
編集- 公敎要旨 天主公敎會、1896年
- 社會病ト其良藥 敎學研鑽和佛協會、1915年