エドワード・モーンダー[1][2](Edward Walter Maunder、1851年4月12日 - 1928年3月21日[3])はイギリスの天文学者。太陽黒点の研究で知られ、1645年から1715年までの黒点出現頻度の少なかった期間(モーンダー極小期[4])のあったことを確立したことで知られる。「マウンダー」と表記されることもある[1]

Edward Walter Maunder
エドワード・ウォルター・モーンダー
生誕 (1851-04-12) 1851年4月12日
イギリスの旗 イギリスロンドン
死没 1928年3月21日(1928-03-21)(76歳没)
国籍 イギリスの旗 イギリス
研究分野 天文学
主な業績 モーンダー極小期
配偶者 Edith Hannah Bustin (1875-1888)
アニー・ラッセル・モーンダー英語版 (1895-1928)
プロジェクト:人物伝
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生涯

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1851年、ロンドンメソジストの牧師の家に生まれた。キングス・カレッジ・ロンドンに入学したが卒業することはなかった[2]。学業の資金を調達するためロンドンの銀行で職を得た。1873年にグリニッジ天文台で分光助手の職に就き[3]、太陽黒点の撮影と測定も行った[2]。1904年に約11年周期で黒点の出現する緯度が変化することを蝶型図で示し発表した。天文台に残された黒点の観測資料を調べ1645年から1715年の間に太陽活動が低くなった時代が存在したことを提唱する論文を1894年と1922年に発表したが当時は注目されなかった。1970年代にモーンダーの研究が再発見され、この黒点の少ない時代はモーンダー極小期と呼ばれることになった。

火星を観測し、火星に運河があるという説には反対した。1890年に天文学に興味のある人々に門戸を開いた大衆的な英国天文協会(大英天文学会[1]、British Astronomical Association)の設立を推進した[2]。会誌の初代の編集長を務めた。

2度目の妻のアニー・モーンダー(Annie Scott Dill Maunder:旧姓 Russell:1868年 - 1947年)も王立天文学会に入会を認められた天文学者であり、夫と共同研究した。

火星に「モーンダー (Maunder)」と名付けられたクレーターがあり、火星のものはエドワードの[5]、月のものはエドワードとアニーの業績を記念して命名された[6]

出典

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  1. ^ a b c モーンダー”. 天文学辞典. 日本天文学会 (2018年5月14日). 2021年2月11日閲覧。
  2. ^ a b c d 高田紀代志 著、中山茂 編 編『天文学人名辞典』(初版第一刷)恒星社〈現代天文学講座〉、1983年3月25日、186-187頁。 NCID BN00165458 
  3. ^ a b “E. W. Maunder”. Monthly Notices of the Royal Astronomical Society 89 (4): 313-318. (1929). Bibcode1929MNRAS..89..313.. doi:10.1093/mnras/89.4.313. ISSN 0035-8711. 
  4. ^ モーンダー極小期”. 天文学辞典. 日本天文学会 (2019年4月8日). 2021年2月11日閲覧。
  5. ^ Planetary Names: Crater, craters: Maunder on Mars”. Gazetteer of Planetary Nomenclature. 国際天文学連合 (2010年11月17日). 2021年2月11日閲覧。
  6. ^ Planetary Names: Crater, craters: Maunder on Moon”. Gazetteer of Planetary Nomenclature. 国際天文学連合 (2010年10月18日). 2021年2月11日閲覧。