ウズベク・ソビエト社会主義共和国
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- ウズベク・ソビエト社会主義共和国
- Ўзбекистон Совет Социалистик Республикаси
Узбекская Советская Социалистическая Республика -
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←1924年 - 1991年 → (国旗) (国章) - 国の標語: Бутун дунё пролетарлари, бирлашингиз!
万国の労働者よ、団結せよ! - 国歌:
Ўзбекистон Совет Социалист Республикасининг давлат мадҳияси
ウズベク・ソビエト社会主義共和国国歌
ウズベク・ソビエト社会主義共和国の位置-
公用語 ウズベク語、ロシア語 首都 サマルカンド(1924年 - 1930年)
タシュケント(1930年 - 1991年)- ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記
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1925年2月12日 - 1927年9月21日 ウラジーミル・イワノフ 1989年6月23日 - 1991年11月3日 イスラム・カリモフ
- 元首[注釈 1]
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1925年2月17日 - 1943年2月28日 ユルダシュ・アクンババエフ 1989年3月6日 - 1990年3月24日 ミルザオリム・イブラギモフ - 首相[注釈 2]
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1925年2月17日 - 1937年6月17日 ファイズッラ・ホジャエフ 1990年3月24日 - 1990年11月1日 シュクルッラ・ミルサイドフ - 面積
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447,400km² - 人口
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1950年[1] 6,314,000人 1960年 8,559,000人 1970年 11,973,000人 1980年 15,952,000人 1990年 20,515,000人 - 変遷
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設置 1940年10月27日 独立宣言 1991年9月1日
通貨 ソビエト連邦ルーブル 現在 ウズベキスタン
ウズベク・ソビエト社会主義共和国(ウズベク・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、ウズベク語: Ўзбекистон Совет Социалистик Республикаси、ロシア語: Узбекская Советская Социалистическая Республика)、略称でウズベク共和国(ウズベクきょうわこく)は、ソビエト連邦の構成共和国の1つである。
1991年9月1日、ウズベキスタン共和国として独立した。
建国
編集ロシア革命後、1917年11月から1918年3月にソビエト権力が樹立され、その領土の大部分は、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の構成下に入った。その後ブハラ人民ソビエト共和国・ホラズム人民ソビエト共和国が樹立されるが、民族境界画定工作の結果として1924年10月27日に新たな領域が設定されて、ウズベク・ソビエト社会主義共和国が誕生した。
ウズベキスタン共産党
編集1924年10月、ウズベキスタン共産党中央委員会組織局が創設された。1925年2月、ウズベキスタン共産党第1回設立会議が行われ、中央委員会が設置された。
1925年、ウズベキスタン人民委員会議議長にブハラ族の代表ファイズッラ・ホジャエフが任命された。彼はモスクワの特別な信任を得ていたが、部族間の勢力均衡のために、1929年にタシケント族を代表するアクマリ・イクラモフが中央委員会第一書記に、フェルガナ出身のウスモン・ユスポフが中央委員会書記に任命された。
ソ連時代に連邦当局は、人事政策によりウズベキスタンの部族集団のバランスを維持した。この際共和国の党指導者の交代は、一定の氏族に有利な人事異動を伴った。タシケント族とサマルカンド族に支えられていたシャラフ・ラシドフ第一書記の死後、ウズベキスタンにおける指導的立場は、フェルガナ族のイナムジョン・ウスマンホジャエフ、後にラフィク・ニシャノフが占めた。この際両者はマフィア及び汚職対策において、ラシドフが任命した者達の迫害に遭った。
1989年6月に失脚したニシャノフと交代で、イスラム・カリモフが第一書記となった。
歴代第一書記
編集- ウラジーミル・イワノフ(1925年 - 1927年) - ロシア人。銃殺。
- クプリアン・キルキシュ(1927年 - 1929年) - ベラルーシ人。事故死。
- ニコライ・ギカロ(1929年) - ロシア人。銃殺。
- イサーク・ゼレンスキー(1929年) - ユダヤ人。銃殺。
- アクマリ・イクラモフ(1929年 - 1937年) - タシケント出身。銃殺。
- ウスマン・ユスポフ(1937年 - 1950年) - フェルガナ出身。
- アミン・ニヤゾフ(1950年 - 1955年) - フェルガナ出身。
- ヌリトディン・ムヒトディノフ(1955年 - 1957年) - タシケント出身。
- サビル・カマロフ(1957年 - 1959年) - タシケント出身。
- シャラフ・ラシドフ(1959年 - 1983年) - ジザク出身。
- イナムジョン・ウスマンホジャエフ(1983年 - 1988年) - フェルガナ出身。
- ラフィク・ニシャノフ(1988年 - 1989年) - タシケント出身。
- イスラム・カリモフ(1989年 - 1991年) - サマルカンド出身。
消滅
編集1990年6月20日、ウズベキスタン最高会議はウズベク・ソビエト社会主義共和国の国家主権宣言を採択した。最高会議は大統領職を制定し、イスラム・カリモフを大統領に選出した。
1991年9月1日にウズベキスタン共和国の独立が宣言され、ソ連から離脱し独立国となった。
基礎情報
編集人口 | 詳しくはウズベキスタンの人口統計などを参照。 1983年時点では1704万人と、ソビエト連邦の6.28%を占める。 |
面積 | 447,400km² ソビエト連邦の2.00%。 |
生産国民所得 | 175億500万ルーブル (1982年) 一人当たりでは1,028ルーブル |
行政区画 | 1自治共和国12州158地区、113市 (1980年代) |
人口増加率 | 27.6% (1982年、出生率は35.0%、死亡率は7.4%) |
都市人口 | 42% (1983年) |
工業部門雇用比率 | 65.22% (1979年) |
農業総生産 | 69億5500万ルーブル (1982年) うち、農産物が49億1900万ルーブル、畜産が20億3600万ルーブル |
発電量 | 390億kWh (1982年) |
鉄道延長 | 3,480km (1982年) |
自動車道路延長 | 69,500km (1982年) (うち、58,200kmは舗装済み) |