ウィレム・ドレース
ウィレム・ドレース(オランダ語:Willem Drees、1886年7月5日 - 1988年5月14日)は、オランダの政治家。第37代オランダ首相を務めた。名宰相の誉れ高く[1][2]、2006年にラジオ局が実施した世論調査で戦後最高の首相に選ばれた[3]。
ウィレム・ドレース Willem Drees | |
---|---|
| |
生年月日 | 1886年7月5日 |
出生地 | オランダ アムステルダム |
没年月日 | 1988年5月14日(101歳没) |
死没地 | オランダ デン・ハーグ |
出身校 | アムステルダム専門学校 |
所属政党 | 労働党 |
配偶者 | カタリーナ・ヘント (1888年5月6日 – 1974年1月30日) |
子女 | 4人 |
サイン | |
在任期間 | 1948年8月7日 - 1958年12月22日 |
国王 |
ウィルヘルミナ ユリアナ |
生い立ち
編集青年時代
編集1886年7月5日にアムステルダムに誕生する。中等学校を経て1906年までアムステルダム市内の銀行に勤務。その後アムステルダム市議会やオランダ議会にて速記者を務める。
首相就任以前
編集1904年に社会民主労働党(SDAP、1946年に労働党に合流)へ入党し、1910年から1931年まで同党のデン・ハーグ支部長、1913年から1941年にかけてはデン・ハーグ市議会議員を歴任した[4]。この間の1919年から1941年までの22年間は南ホラント州議会議員も兼務した。
また、1927年から1941年まで党役員、1933年から1940年にかけては第二院議員となった(1939年以降は議会内の会派代表)。その後、1945年6月24日から1948年8月7日まで社会問題相及び代理首相に就任。
首相時代と引退後
編集1948年8月7日から1958年12月22日までの10年以上、4次にわたる長期政権において首相を務める。首相在任中は脱植民地化のトラウマ、福祉国家の樹立、国際的な統合および協力といった少なくとも4つの政治課題に直面した時代でもあり、とくに経済協力開発機構や北大西洋条約機構、欧州石炭鉄鋼共同体そして欧州経済共同体設立については、国内で主導的な役割も果たした。
1958年12月に政権が崩壊すると名誉国務大臣に任命されたほか、翌年には労働党役員会議の終身委員にも選ばれた。だが労働党内で新左翼の動きが活発となるとこれに強い不満を示し、37年間近く所属してきた党を離れる。その後も高齢ながら政界に対し隠然たる影響力を発揮し、97歳まで多数の書物を出版した[4]。
1988年5月14日にデン・ハーグにて死去した。101歳であった。
エピソード
編集脚注
編集関連項目
編集参考文献
編集- W. Drees, Gespiegeld in de tijd. De nagelaten autobiografie (Amsterdam 2000). (Memoir by Willem Drees, jr.)
外部リンク
編集
|
|
|