ウィリアム・コリンズ・ホイットニー

ウィリアム・コリンズ・ホイットニーWilliam Collins Whitney, 1841年7月5日 - 1904年2月2日)は、アメリカ合衆国弁護士政治家実業家ホイットニー家の創設者。民主党の保守的改革主義者で、しばしばブルボン派と見なされる。事業家としては金属加工業で莫大な財を築き、「金属王」の異名を取った。

ウィリアム・コリンズ・ホイットニー
William Collins Whitney
生年月日 1841年7月5日
出生地 マサチューセッツ州コンウェイ
没年月日 1904年2月2日
死没地 ニューヨーク州ニューヨークシティ
出身校 イェール大学
前職 弁護士
所属政党 民主党
配偶者 アン・カロライン・ギルモア

アメリカ合衆国の旗 第31代海軍長官
在任期間 1885年3月7日 - 1889年3月4日
大統領 グロバー・クリーブランド
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生涯

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青年期

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1841年、ホイットニーはマサチューセッツ州コンウェイにおいて、ピューリタンの家系に生まれた。ホイットニーは1863年イェール大学を卒業した後、ハーバード大学で法律を学び、ニューヨーク市で弁護士業を開業した。

弁護士活動

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ホイットニーはニューヨーク市の民主党系の政治団体タマニー協会とその政治的指導者ボス・ツウィードの一派に積極的な反対を示し、反タマニー派の組織で活動した。ホイットニーは1875年から1890年までアーヴィング協会に参加し、また1880年から1890年までカウンティ協会に参加した。だがそれらの組織が解散すると、次第にホイットニーはタマニー協会と一体視されるようになっていった。

1875年から1882年まで、ホイットニーはニューヨーク州内で法人弁護士として活動した。ホイットニーは都市に関する法律の成文化をもたらし、不正会計を中心とする犯罪の多くを暴露した。その総額は2000万ドルを超えた。

政治活動

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海軍長官時代のホイットニー

1885年、第1次グロバー・クリーブランド政権において、ホイットニーは海軍長官を任された。ホイットニーは合衆国海軍の拡張を念頭に置き、特に艦船に使用する板金を国内で生産することを奨励した。

1892年、ホイットニーは民主党の大統領候補としてクリーヴランドを擁立することを後押しし、続く同年の大統領選挙でクリーヴランドの当選に貢献した。しかしながら1896年の大統領選挙では、民主党の主流意見であった銀貨無制限鋳造に異を唱え、民主党候補ウィリアム・ブライアンの支援を拒絶した。ホイットニーはニューヨーク市内の公共交通機関の整備に強い関心を示し、メトロポリタンストリート鉄道の創設者の1人となった。

馬主

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ホイットニーは1890年代から競馬にも興味を示し、1898年頃にロングアイランドの一角にウェストベリーステーブルを開業、競走馬の所有・生産を始めた。その頃すでに馬主として成功していたジェームズ・ロバート・キーンらと張り合い、ともにこの当時のアメリカ競馬の牽引役となった。

主にジョン・ロジャーズ調教師に所有馬を預託し、後のアメリカ殿堂アートフルを始めとした活躍馬にも多く恵まれた。このほかイギリスでの競馬にも興味を示し、1901年にはヴォロディオフスキーイギリスダービーを制覇している。

これらの財産は後世のホイットニー家にも受け継がれ、ホイットニー家はその後もアメリカ競馬界に長く関与し続けた。

晩年

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1904年、ホイットニーはニューヨーク市内で死去した。ホイットニーの遺体は同市ブロンクス区ウッドローン墓地に埋葬された。

家族

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外部リンク

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先代
ウィリアム・E・チャンドラー
アメリカ合衆国海軍長官
第31代:1885 - 1889
次代
ベンジャミン・トレイシー