アーサー・マッカーサー・ジュニア
アーサー・マッカーサー・ジュニア(Arthur MacArthur, Jr.、1845年6月2日 - 1912年9月5日)は、アメリカ陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
アーサー・マッカーサー・ジュニア Arthur MacArthur, Jr. | |
---|---|
生誕 |
1845年6月2日 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州チコピー |
死没 |
1912年9月5日 アメリカ合衆国 ウィスコンシン州ミルウォーキー |
所属組織 | アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1861-1865,1866 - 1909 |
最終階級 | 陸軍中将 |
戦闘 |
南北戦争 インディアン戦争 米西戦争 米比戦争 |
家族構成
編集父は第4代ウィスコンシン州知事のアーサー・マッカーサー・シニア。妻のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーとの間に5人の子供がおり、長男のアーサー・マッカーサー3世は海軍軍人、三男のダグラス・マッカーサーは後に陸軍元帥となる。長男の息子(孫)に駐日アメリカ大使のダグラス・マッカーサー2世がいる。
南北戦争
編集南北戦争が始まると、第24ウィスコンシン義勇歩兵連隊に参加した。チカマウガの戦い、ストーンズリバーの戦い、第三次チャタヌーガの戦い、アトランタ方面作戦、第二次フランクリンの戦いに参加した功績により、わずか19歳で名誉大佐の地位を与えられ、少年大佐(The Boy Colonel)と呼ばれて有名になった。これらの功績により、1890年に名誉勲章を授与された。第三次チャタヌーガの戦いでのマッカーサーの活躍を歌った「オン・ウィスコンシン」 (On, Wisconsin!) という歌はウィスコンシン州の州歌になっており、ウィスコンシン大学マディソン校の校歌でもある。
マッカーサーは1865年6月に陸軍を退役すると、法律学校へ通い始めたがすぐに辞め、1866年2月23日に第17師団の少尉として軍務に復帰した。復帰した翌日には中尉に、9月には大尉に昇進するが、そのまま20年間は大尉のままだった。
インディアン戦争
編集米比戦争時代
編集米西戦争の際、マッカーサーはジョージア第三連隊の参謀をしていた。1898年6月に臨時昇進して准将になると、米比戦争に義勇軍師団長として参加、1898年のマニラ戦争で少将に昇進する。米比戦争ではエミリオ・アギナルド初代フィリピン大統領を生け捕りにしたり、現地の先住民族を絶滅させる。
後にフィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となる。
日露戦争
編集駐日アメリカ大使館付き駐在武官として日露戦争を観戦する[1]。
1935年にフィリピン軍の軍事顧問として赴任した息子のダグラス・マッカーサー元帥がマニラホテルのスイートルームに居住した際、居間の玄関に飾られる事になる花瓶を1905年に明治天皇より贈られる。
晩年
編集1909年6月2日(64歳を超えた日)に最終階級中将で陸軍を引退した。晩年は家族と共に隠遁生活をしたと言われている。1912年9月5日にミルウォーキーで開催された南北戦争退役軍人同窓会で、演説中に壇の上で心臓発作を起こして倒れ、67歳で死亡した。最初は1912年9月7日にミルウォーキーに葬られたが、1926年にアーリントン国立墓地へ移された。
脚注
編集
- ^ “【安保改定の真実】新条約の真の設計者はマッカーサー2世だった… 骨の髄まで反共主義者 「中ソの日本中立化を阻止せねば…」”. 産経新聞 (2015年6月19日). 2022年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月7日閲覧。