アンナ・ポロヴェツカヤ
キエフ大公フセヴォロドの二人目の妻
アンナ・ポロヴェツカヤ(ポロヴェツのアンナ)(ロシア語: Анна Половецкая、? - 1111年10月7日)は、キエフ大公フセヴォロドの二人目の妻である。
アンナ・ポロヴェツカヤ Анна Половецкая | |
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キエフ大公妃 | |
在位 | 1076年 - 1077年、1078年 - 1093年 |
死去 |
1111年10月7日 |
埋葬 | キエフ、聖アンドレイ修道院 |
配偶者 | キエフ大公フセヴォロド1世 |
子女 |
ロスチスラフ エウプラキヤ エカテリーナ マリヤ |
生涯
編集アンナはポロヴェツ族族長の娘という説が一般的であるが[1]、史料上にそれを裏付ける記述はない。また、アンナは『イパーチー年代記・フレーブニコフ写本(ru)』に記された名前であり[1]、両親や出生名(アンナは聖名)は不明である。、
1067年にキエフ大公フセヴォロドの最初の妻(ru)(コンスタンティノス9世モノマコスの娘か)が死去し、おそらくその翌年にフセヴォロドと結婚した。1093年にフセヴォロドが没した後もキエフに住み、キエフの人々から敬意を集めていた。
1097年、アンナの義理の子ウラジーミル(ウラジーミル・モノマフ)が、キエフ大公位にあったスヴャトポルクをキエフに囲むと、アンナとキエフ府主教ニコライは両者の仲裁役を務めた。
1111年10月7日に死去し、聖アンドレイ修道院(ru)に埋葬された[1][2]。なお修道院の典院は、義理の娘のアンナ(ru)であった。
子女
編集出典
編集- ^ a b c 中澤敦夫「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(1) : 『原初年代記』への追加記事(1110~1117年)」『富山大学人文学部紀要』第61巻、富山大学人文学部、2014年8月、250頁、CRID 1390853649736563968、doi:10.15099/00000292、hdl:10110/12937、ISSN 03865975。
- ^ Берлинский, М.Ф. Краткое описание Киева, содержащее историческую перечень сего города. СПб, 1820 г., С. 165