アディアベネ王国 (Adiabene) は、メソポタミア北部、現代のイラクエルビルアルベラ)を中心にした王国アッシリア北部、ティグリス川の左岸にあった[1]。アルサケス朝パルティアサーサーン朝ペルシア時代にその従属王国であったが、ローマの侵攻をたびたび受けた。イザテス2世の時代にはパルティアの王位継承に介入するなど、かなりの重要性を持った国であった。

アディアベネ王国の位置(西暦37年頃)
アルメニア王国とアディアベネ(紀元前1世紀後半)

王族は西暦1世紀に王母ヘレナの下でユダヤ教に改宗しており[2]、その王たちはエルサレム神殿建設に多大な資金提供をおこなったとされる。

主要な王

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関連する人物

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 渕倫彦「訳注 : グローティウス「戦争と平和の法・三巻」(II・完) —「第1巻、第1章」および「人名表」—」『帝京法学』第27巻第1号、帝京大学法学会、2011年3月、327頁、CRID 1050564287930092544hdl:10682/1183ISSN 0288-1659  ※「イザーテス、イザーテス2世 Izates bar Monobaz (c. 1〜55)」項を参照。
  2. ^ a b 志田雅宏「ユダヤ教世界のイエス伝 : ストラスブール写本版『トルドート・イェシュ』とその文脈についての研究」『東京大学宗教学年報』第38巻、東京大学文学部宗教学研究室、2021年3月、20頁、CRID 1390009225671702272doi:10.15083/0002000914ISSN 0289-6400。「前者〔アディアベネ王妃ヘレネ〕はヨセフスの『ユダヤ古代誌』に登場する。フラウィウス・ヨセフス(秦剛平 訳)『ユダヤ古代誌』全六巻, ちくま学芸文庫, 2000年, 第6巻 244–253頁(XX巻 ii章)。アディアベネ王妃ヘレネは息子イザテス〔2世〕とともにユダヤ教に改宗し,飢饉に苦しむエルサレムの人々を救ったとして,「ユダヤ民族すべての間にその偉大な名を残すことになった」(252頁)と記されている。」  ※註26参照。
  3. ^ 渕倫彦「訳注 : グローティウス「戦争と平和の法・三巻」(II・完) —「第1巻、第1章」および「人名表」—」『帝京法学』第27巻第1号、帝京大学法学会、2011年3月、80頁、CRID 1050564287930092544hdl:10682/1183ISSN 0288-1659  ※「XVI-6-5. ヨーセフス「ユダヤ古代史」第20巻、第2章、第4節。」項を参照。
  4. ^ 教皇ベネディクト16世 (2007年11月21日). “教皇ベネディクト十六世の117回目の一般謁見演説 : ペルシアの賢者アフラハト”. カトリック中央協議会ウェブサイト. 宗教法人カトリック中央協議会. 2023年12月13日閲覧。 “アフラハトは現在のイラクニネヴェモスル地域に生まれ、4世紀前半に活動しました。アフラハトの生涯についてはあまり知られていません。彼はシリア教会の修徳的・修道的環境と密接な関係をもっていました。”
  5. ^ 武藤慎一「「ペルシアの賢者」アフラハトの解釈学」『基督教学研究』第17巻、京都大学基督教学会、1997年12月、77頁、CRID 1390854717495001216doi:10.14989/268463ISSN 0387-5091。「古くから「ペルシアの賢者」と贈り名されたアフラハトは、ササン朝ペルシアを代表する人物である。ペルシアのキリスト教徒はシリア語を使用しており、彼は最初のシリア教父でもある。」 
  6. ^ 武藤慎一 (2005年1月29日). “(第12回研究会レジュメ2) 4世紀イラクにおける地域文化としてのキリスト教 : そのマイノリティーとしての自己意識”. 21世紀COEプログラム : 多元的世界における寛容性についての研究. 京都大学大学院文学研究科. 2023年12月13日閲覧。 “古来「ペルシアの賢者」と贈り名されたアフラハトは、ペルシアのキリスト教を代表する人物である。彼の著書『論証』は、正統派シリア・キリスト教及びペルシア教会の思想を表す現存する最古の資料で、4世紀前半までの思想内容を窺い知れる貴重な著作である。”
  7. ^ Meriam&Joseph,k. “ペルシャのアフラハト”. シリア正教隠れた真珠ホームページ. 2023年12月13日閲覧。Patriarch Ignatius Aphram I Barsoum(第120代シリア正教会総主教)の1920年代の著作 The History Of Syriac Literature And Sciences, pp. 77-78. の抜粋訳とある。

関連項目

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