からゆきさん

19世紀後半、東・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性

からゆきさん(唐行きさん)は日本の九州地方で使われていた言葉で、19世紀後半、主に東アジア東南アジアに渡って働いた日本人労働者のことを指す。

サイゴン在住のからゆきさん
仏領インドシナの切手やサイゴンのスタンプが押されている

渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。

語源

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豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の1589年天正17年)には日本初の遊郭とされることもある京都・二条柳町の遊廓が秀吉によって作られた[1][注 1]。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。鎖国の時代になると、1639年寛永16年)ごろには西洋との唯一の窓口として栄えた長崎丸山遊廓が誕生した。

江戸幕府は島原の乱の頃には、出島唐人屋敷への出入り資格を制限していたが、丸山遊郭の遊女は例外として許された。出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」と称された。日本人男性相手の「日本行」の遊女とは明確に区別され、「唐人行」とはこの中国人を相手にする遊女らを指したものである[3]

「唐人行」の遊女たちの多くは、「鎖国」時代から長く中国人のみを相手にしてきた……日本人の海外渡航がいったん可能になると、彼女たちがいち早く海外へ飛び出したことは、むしろ自然のなりゆきといえよう[4]

江戸時代の頃、長崎の唐人屋敷の近隣にある島原のあたりでは「からゆき」という言葉が生まれ、これが「からゆきさん」の語源となった[5]島原半島天草諸島では、島原の乱後に人口が激減したため、幕府は各藩に天草・島原への大規模な農民移住を命じていた[6][7]。1643年には5000人[8]程度だった天草諸島の人口は1659年(万治2年)には16000人に増加した[9]

遊郭では少女の人身売買が常態化していたという[10]

ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、だからこそ本人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない。大部分はまだ自分の運命について何も知らない年齢で早くも売られていくのが普通なのである。 — 沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンぺ日本滞在見聞記』雄松堂、1968年

すでに江戸時代から長崎の外国人貿易業者により日本人女性は妻妾や売春婦として東南アジアなどに行ったとされる[11]。総計万単位の数のからゆきさんがいたという[11]

森崎和江によれば明治時代の九州で、娼婦に限らず海外へ出稼ぎに行った男女を「からゆき」と呼んでいた(シベリア鉄道建設の工夫やハワイ移民も含む)。大正時代頃から主に東南アジアへ行った娼婦を呼ぶようになった[12]

昭和10年代には映画『からゆきさん』[注 2](1937年)の上映があり、また第2次世界大戦後は評論家大宅壮一のルポに「からゆきさん」の紹介があるが[13]、一般的に知られた言葉ではなかった。広く知られるようになるのは山崎朋子の著作『サンダカン八番娼館』(1972年)[注 3]以降である[注 4]

概要

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からゆきさん」として海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(びんぷ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。女衒の記録として長崎出身の村岡伊平治による『自伝』がある。女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。人身売買業者が彼女たちを運んだ船はひどい状況で、船の一部に隠されて窒息死する少女や餓死しそうになる少女もいた[16]

こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍[17][注 5]として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際的に人身売買に対する批判が高まり、日本国内でも彼女らの存在は「国家の恥」として非難されるようになった。1910年代および1920年代の間(明治43年~昭和4年)、海外の日本当局者は日本人売春宿を廃止し、日本の名声を保とうと熱心に取り組んだが必ずしも成功しなかった[18][19]。からゆきさんの多くは日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。明治日本の帝国主義の拡大に日本人娼婦が果たした役割については、学術的にも検討されている[20]

19世紀後半、日本の貧しい農民の島々は、からゆきさんとなった少女たちを太平洋や東南アジアに送り出した。九州の火山性の山地は農業に不向きで、両親は娘を長崎県や熊本県の女衒に売り渡したが、5分の4は本人の意志に反して強制的に売買され、5分の1だけが自らの意志で売られていった。売春婦にさせる為に売られた女性たちは、長崎熊本から中国香港クアラルンプールシンガポールフィリピンボルネオタイインドネシアなどアジア各地へ、またシベリア満州ハワイ、北米(カリフォルニアなど)、オーストラリアアフリカザンジバルなど)[21] に送られた。

朝鮮や中国の港では日本国民パスポートを要求していなかったことや、「からゆきさん」で稼いだ外貨が送金されることで日本経済に貢献していることを日本政府が認識していたことから、日本人娼婦の海外渡航に日本政府からの妨害もなく、日本の娼婦は容易に海外に出て売春した[22][23]。1919年に中国が日本製品をボイコットしたことで、「からゆきさん」からの外貨収入にますます頼るようになった[24]

1890年から1894年にかけて、シンガポール村岡伊平治によって日本から人身売買された3,222人の日本人女性を受け入れ、シンガポールやさらなる目的地に人身売買される前に、日本人女性は数ヶ月間、香港で拘束されることになった。日本の役人である佐藤は1889年に、長崎から高田徳次郎が香港経由で5人の女性を人身売買し、「1人をマレー人の床屋に50ポンドで売り、2人を中国人に40ポンドで売り、1人を妾にし、5人を娼婦として働かせていた」と述べている[25]。佐藤は女性たちが「祖国の恥に値するような恥ずかしい生活」をしていたと述べている[26]

アメリカ統治時代、日本とフィリピンの経済関係は飛躍的に拡大し、1929年には日本はアメリカに次ぐフィリピンの最大の貿易相手国となった。経済投資に伴い、商人や庭師、日本人娼婦(からゆきさん)などを中心とした大規模なフィリピンへの移民が行われた。ミンダナオ島ダバオには、当時2万人以上の日本人が住んでいた。

ボルネオ島民、マレーシア人中国人韓国人日本人フランス人アメリカ人イギリス人など、あらゆる人種の男たちがサンダカンの日本人娼婦を利用した[27]。「くうだつ」には日本人売春宿が2軒あり、中国人の売春宿は無かった[28]。サンダカンには日本人が経営する9つの売春宿があり、サンダカンの売春宿の大半を占めていた[29]

1872年頃から1940年頃まで、オランダ領東インド諸島の売春宿で多数の日本人売春婦(からゆきさん)が働いていた[30]

バイカル湖の東側に位置するロシア極東では、1860年代以降、日本人遊女商人がこの地域の日本人コミュニティの大半を占めていた[31]玄洋社黒龍会のような日本の国粋主義者たちは、ロシア極東や満州の日本人売春婦たちを「アマゾン軍」と美化して賞賛し、会員として登録した[32]。またウラジオストクイルクーツク周辺では、日本人娼婦による一定の任務や情報収集が行われていた[33]

中仏戦争では、からゆきさんの日本女性売春婦の市場が形成され、やがて1908年にはインドシナの日本人の人口の大半を売春婦が占めるようになった[34]

オーストラリアでの日本人娼婦は1887年に初めて現れ、クイーンズランド州の一部、オーストラリア西部や東部、北部などオーストラリアの植民地フロンティアで売春産業の主要な構成要素となった[35]

オーストラリア西部や東部では、これらの日本の売春婦たちは商売をしたり、他の活動をしたりしていたが、その多くは金鉱で働く中国人や日本人を夫にしたり、少数の者はマレー人、フィリピン人、ヨーロッパ人を夫にしたりしていた[36]

オーストラリア北部にやってきた移民のうち、メラネシア人カナカ族マレー人中国人はほとんど男性でサトウキビ、真珠、鉱業に従事し、一方日本人は女性を含む特異な移民集団で[37]、その中の日本人娼婦は性的サービスを提供していた[38]

からゆきさんの労働条件

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サンダカン八番娼館』に描かれた大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた)。

普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。

月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

労働条件は本当に様々で、1晩に49人とらされたという証言がテープに残っている。あくまで日本国内で騙されて渡航した貧困家庭の女性が多かったので、多額の借金を背負わされた身として接客の拒否などが出来た人や順調に借金を返済したという証言が残っていても非常に幸運かつ稀なケースとみるのが妥当であり、からゆきさんは江戸時代の遊女と同じくように、「偏見を気にすることなく自由な職業に就いた女性」という観点は誤りであるという見直しが学術界では進んでいる。

その他

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  • 派生語の「ジャパゆきさん」は1980年代初めの造語で、20世紀後半、逆にアジア諸国から日本に渡航して、ダンサー歌手ホステスストリッパーなどとして働く外国人女性を指して使われた。
  • 1972年8月1日、タイの入管当局は日本人女性が観光客を装って入国し、マッサージで荒稼ぎをしているとして批難している[39]

脚注

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注釈

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  1. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」[2]のだという。
  2. ^ 鮫島麟太郎原作。大正時代、南洋から故郷の島原へ戻った女性たちが、村人から「からゆきさん」と呼ばれて差別を受け、村から離れた場所に集まり住むシーンがある。『キネマ旬報』601号。
  3. ^ 1974年に熊井啓の監督により『サンダカン八番娼館 望郷』として映画化された。
  4. ^ 戦後、山崎以外にも森克己(「人身売買——海外出稼ぎ女』至文堂 1959年)、村岡伊平治(『村岡伊平治自伝』南方社 1960年)、宮岡謙二(『娼婦海 外流浪記』三一書房 1968年)など「からゆきさん」について書いたものもいたが、山崎の著作がベストセラー[14]となり、また映画化もされたことで多くの人に知られることとなった[15]
  5. ^ その稼ぎが資本となりまたその人数が日本人の進出の手がかりともなって、娘子軍と言われた。

出典

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  1. ^ : 社会研究』権田保之助著、実業之日本社、1923年
  2. ^ 『日本売春史』中村三郎
  3. ^ 嶽本新奈『「からゆき」という歴史事象創出の背景--「性的自立性」の多様性』p.375-p376
  4. ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』新説社、2005年、p.121
  5. ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』長崎文献社、1968年、p.232
  6. ^ 鶴田倉造『天草島原の乱とその前後』熊本県上天草市、上天草市史編纂委員会編、2005年、p.235-240
  7. ^ 井上光貞『年表日本歴史 4 安土桃山・江戸前期』筑摩書房、1984年、p.106-107
  8. ^ 天草郡記録
  9. ^ 万治元戌年より延享三年迄の人高覚
  10. ^ 沼田次郎荒瀬進共訳『ポンぺ日本滞在見聞記』雄松堂、1968年、p.337, p.344
  11. ^ a b 深作光貞 & 滝澤民夫 1984.
  12. ^ 森崎和江 1980, pp. 19–21.
  13. ^ 大宅壮一『日本の裏街道を行く』(文芸春秋新社、1957年)、『日本新おんな系図』(中央公論社、1959年)。
  14. ^ 嶽本新奈『「からゆき」という歴史事象創出の背景 : 「性的自立性」の多様性』2008 https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/16503/gensha0000203740.pdf
  15. ^ 宋連玉『「慰安婦」・公娼の境界と帝国の企み』2011
  16. ^ Frances 2007, p. 48.
  17. ^ 白石顕二 1995, pp. 57–61.
  18. ^ Mayumi Yamamoto, "Spell of the Rebel, Monumental Apprehensions:Japanese Discourses in Pieter Erberveld," Indonesia 77 (April 2004):124-127
  19. ^ Horton William Bradley「Comfort Women in Indonesia: A Consideration of the Prewar Socio-legal context in Indonesia and Japan」『アジア太平洋討究』第10巻、2008年3月、141-154頁。 
  20. ^ James Boyd (August 2005). “A Forgotten 'Hero': Kawahara Misako and Japan's Informal Imperialism in Mongolia during the Meiji Period”. Intersections: Gender, History and Culture in the Asian Context (11). http://intersections.anu.edu.au/issue11/boyd.html 21 July 2015閲覧。. 
  21. ^ Frances 2004, p. 188.
  22. ^ Warren 2003, p. 83.
  23. ^ Journal of the Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society, Volume 62, Issue 2. Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland. Malaysian Branch (illustrated ed.). The Branch. (1989). p. 57. https://books.google.com/books?id=slYaAQAAIAAJ&q=passports+not+required+chinese+korean+ports+smuggling+young+girls+proper+documents+fostered May 17, 2014閲覧。 
  24. ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015, p. xxiv.
  25. ^ Christopher, Pybus & Rediker 2007, p. 212; Frances 2007, p. 49.
  26. ^ Historical Studies, Volume 17. (1976). p. 331. https://books.google.com/books?id=ijU2AQAAIAAJ&q=takada+tokujiro May 17, 2014閲覧。 
  27. ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015, p. 63.
  28. ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015, p. 88.
  29. ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015, p. 51.
  30. ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015.
  31. ^ Narangoa & Cribb 2003, p. 45.
  32. ^ Narangoa & Cribb 2003, p. 46.
  33. ^ Jamie Bisher (2006). White Terror: Cossack Warlords of the Trans-Siberian. Routledge. p. 59. ISBN 978-1135765958. https://books.google.com/books?id=Mg6RAgAAQBAJ&q=manchuria+praised+prostitutes&pg=PA59 May 17, 2014閲覧。 
  34. ^ Saigoneer. “[Photos] The Japanese Prostitutes Of Colonial Vietnam”. Saigoneer. 15 July 2015閲覧。
  35. ^ Frances 2007, p. 47.
  36. ^ Frances 2004, p. 189; Frances 2007, p. 57.
  37. ^ Boris & Janssens 1999, p. 105.
  38. ^ Dr Samantha Murray; Professor Nikki Sullivan, eds (2012). Somatechnics: Queering the Technologisation of Bodies. Queer Interventions (revised ed.). Ashgate Publishing, Ltd.. ISBN 978-1409491972. https://books.google.com/books?id=-kF7BgAAQBAJ&q=australia+white+mining+prostitutes&pg=PT108 May 17, 2014閲覧。 
  39. ^ 「タイでもぐりあんま」『朝日新聞』昭和47年(1972年)8月2日朝刊、13版、18面

参考文献・関係文献

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関連項目

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外部リンク

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