林葉直子
林葉 直子(はやしば なおこ、1968年〈昭和43年〉1月24日[1] - )は、将棋の元女流棋士、小説家、エッセイスト、漫画原作者、占い師。福岡県福岡市出身。福岡第一高等学校卒業、第一薬科大学薬学部中退。漫画原作者としてのペンネームに「かとりまさる」がある。アルコールの依存症による闘病生活でも知られている[2]。
林葉 直子 | |
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名前 | 林葉 直子 |
生年月日 | 1968年1月24日(56歳) |
プロ入り年月日 | 1980年4月1日(12歳) |
引退年月日 | 1995年8月24日(27歳) |
出身地 | 福岡県福岡市中央区 |
所属 | 日本将棋連盟(退会) |
師匠 | 米長邦雄 → なし[注 1] |
クイーン称号 | クイーン王将(失効)[注 2] |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 15期 |
通算成績 | 197勝114敗(0.633) |
2019年10月21日現在 |
林葉 直子 | |
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ペンネーム | かとりまさる |
職業 |
小説家 エッセイスト 漫画原作者 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 第一薬科大学薬学部中退 |
活動期間 | 1983年 - |
主題 |
ティーンズノベル エッセイ |
代表作 |
『とんでもポリス』シリーズ 『キスだけじゃイヤ』シリーズ 『しおんの王』 |
デビュー作 | 『ひとりぼっちの対局』(1983年) |
ウィキポータル 文学 |
略歴
女流棋士として
5歳の時に父親から将棋を教わり、女流アマ名人戦に小学6年生で優勝[3]するなど「福岡の天才少女」と騒がれていた[4]。
1979年11月、奨励会に6級で入会、蛸島彰子についで2人目の女性奨励会員となる。同時に小学校在学中に上京して米長邦雄宅に住み込みの内弟子として師事するようになる。同じ内弟子には弟弟子の先崎学らがいた[注 3][5]。奨励会には1984年まで在籍し、一時は4級まで上がるが最終的には6級で退会した。
1980年4月、女流棋戦主催者の強い要望を受けて、米長邦雄門下で女流2級でプロ入り[6]。女流棋士番号は16だった。早くも頭角を現し翌年の第4期女流王将戦リーグで勝ち抜き、1982年4月にタイトルに挑戦。同月27日に史上最年少の14歳3か月で初タイトルである女流王将を蛸島彰子から奪取。
その後、続けてデビューしてきた同世代の中井広恵・清水市代とともに1980年代半ばから1990年代半ばにかけて、女流三強時代を築き、三人の中のいずれかが女流タイトル戦に登場した。林葉はさらに女流の枠を超えて王座戦の予選でも対局した[注 4][7]。
1982年から1991年まで女流王将を10連覇(同一タイトル10連覇)。その功績が認められ、1991年に女流棋士として初めてのクイーン称号「クイーン王将」を贈られる[6]。
1995年2月1日、都内某ホテルにて林葉五段と日本将棋連盟から二段の認定を受けたSFC版『早指し二段 森田将棋』の対面を行った。待ち時間は10分に設定され、五番勝負としての対決を行った。開始から26分後、93手目に林葉五段の勝利で幕は下りた。艶やかな笑みをたたえ「コンピューターは定跡には対応できるけど、取るべき相手の駒を取らなかったり、相手の真意が読めなくなると混乱するようですね」とコメントしている[8]。
実力があるだけでなく、ルックスの良さもあいまって、テレビのドラマやCMなどにも出演。将棋の女流棋士の存在を世間に広めることに大きく貢献した。
作家として
1980年代から1990年代にかけて「とんでもポリス」シリーズや「キスだけじゃイヤ」シリーズなどのティーンズノベルやエッセイを執筆。同時期に『近代将棋』(ナイタイ出版)でも「直子の将棋エアロビクス」などの連載を持っていた[6]。
失踪騒動と将棋連盟退会
1994年5月29日に林葉は「心身ともに疲労を感じ極限状態にあるのですべての活動を停止ししばらく休養したい、保持していた倉敷藤花のタイトルも返上した上で、棋士としての処遇は理事会の決定に従う」という旨の休養願いを、理事の勝浦修を通じて日本将棋連盟理事会に提出し、姿を消した[6]。
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6月1日、理事会は林葉の功績を考慮し特例としてこれを受理。しかし、既にスケジューリングされている対局の扱いについて林葉と話し合う必要があるにもかかわらず、林葉との連絡が取れなかったため、行方不明として中途半端な状態が続いた。6月9日・10日の対局に林葉が現われなかったことで、6月11日に新聞・雑誌・テレビのワイドショーなどで林葉が失踪したと一斉に報じられた。実際にはこの時に林葉はロンドンへ行っていたのだが、様々なボタンの掛け違いで、海外での休養が失踪騒動として独り歩きしてしまった。河内家菊水丸が「ドバイの空港で見かけた」とラジオで発言したり[注 5][9][10][11][12]、中にはサティヤ・サイ・ババに会いにインドへ行っているというデマまで流れた[6]。
6月下旬、アイルランドに滞在していた林葉は国際電話で連絡を受け日本で騒動になっていることを初めて知り、急遽理事会の担当者に連絡し、詫び状を提出し早期復帰を約束した。しかし、月刊誌『マルコポーロ』(文藝春秋)が7月上旬にアイルランドで林葉に接触し、連盟の頭越しに林葉の独占手記を掲載したことで、理事会が態度を硬化させた。理事の中には強硬に林葉の除名を主張する者もいたという[6]。
その後、7月18日にイギリスから帰国。将棋連盟から3か月間の出場停止(7つの対局すべて不戦敗)、その期間の公的活動の停止と約150万円の損害金の支払いなどの処分を受けた。そして7月20日、釈明の記者会見を行った。
11月からの第2期倉敷藤花の番勝負で復帰するものの、精彩を欠き挑戦者の清水市代に連敗してタイトルを失った。
翌1995年8月24日、突如として日本将棋連盟理事会に退会届を提出、これが受理され将棋界を去ることとなった[6][13]。段位は女流五段で、最後の対局は8月8日の第22期女流名人位戦B級5回戦の山田久美戦であった。退会理由は「将棋が嫌いになったわけではないが、情熱が冷めた」ためとしている[13]。退会記者会見をしたその夜、林葉は新宿の料理店で行われていた羽生善治六冠と畠田理恵の婚約祝いの席へ駆けつけた[13][14]。
引退後しばらく林葉は「千駄ヶ谷近辺には行きたくない」と語り、将棋の盤駒や新聞の将棋欄などは見ないようにしていたという[14]。
女流棋士引退後
1995年、将棋連盟退会と同時期に写真集『CONFESSION 告白』にてヘアヌードを発表。さらに1998年には1992年から続いていた中原誠との不倫を告白し、再びワイドショーの話題となる[15]。この当時、これらの一連の出来事で良くも悪くも女流棋士の知名度を大いに高め、他の女流棋士は自らの職業を名乗ると「あの林葉直子の」と反応されることが多く、非常に困ったという[16]。
2004年、ペンネーム「かとりまさる」名義で、『月刊アフタヌーン』(講談社)で将棋をテーマとした漫画『しおんの王』の連載の原作者として執筆活動を行った。小説のつもりで原稿を編集者に見せたら、面白いので漫画の原作にしようということになり、2008年まで4年間続いた。かとりまさる=林葉直子であることは1年以上極秘とされていた。『しおんの王』はテレビアニメとして放送され、DVD化やゲームソフト化もされるなどヒットした[14]。
2004年、六本木で「Woo Curry」というインド料理店を経営する。店名は「うー、辛え」から。内装はミニクラブの居抜きで、インド人シェフによる本格的インドカレーの店だったが、経営は苦しく1年余りで閉店。店には将棋盤と駒が置かれていたり、林葉と同年代のプロ棋士や後輩の女流棋士が彼女の人柄を慕って店に通っていたり将棋関係者と交流が続いていたという[14]。
同年に飲酒の影響で肝硬変を発症。さらに父の借金が発覚したことで2006年には自己破産した[17][18][19]。
2008年、『しおんの王』の原稿を書き終えた後にも体調を崩して、半年ほど入院をしていた。退院後は福岡へ戻り、静養したり将棋好きな寺の住職と将棋を指したりの日々が続いた[14]。その後はタロット占い師として活動。
日本将棋連盟とは退会前後の騒動の影響で疎遠になったものの、2010年5月に将棋ペンクラブの交流会にゲストとして15年ぶりに将棋会館に足を運び、斎田晴子らと同席し[14]、2010年7月28日、親友である中井広恵の誘いを受け、日本女子プロ将棋協会 (LPSA) の公認棋戦である日レスインビテーションカップに主催者の日本レストランシステム特別推薦で約15年ぶりにプロ棋戦に登場(中倉彰子女流初段と対局して74手で敗北)[14]するなど、何度か将棋関連の活動を行なっている。また元師匠である米長邦雄が死去した際に、関係者として2013年3月号の『将棋世界』(日本将棋連盟出版部)で見開き2ページの破格の扱いで追悼文を寄せている。
病状の悪化は続き一時は体重が38kgにまで減少、余命1年を宣告される状況であったが一命を取り留め、その後は自身のブログなどを通じて近況報告を行なっている[20][18]。
人物
- 大山康晴十五世名人の大ファン。本人曰く「女流プロになりたての頃は、大山先生の魅力に気付かなかった私だが、今は、大山将棋の懐の深さと大山康晴に惚れてしまったのである」とのことで、2010年のLPSAでの復帰戦でも大山が揮毫した扇子を持って対局に挑んだほどである[21]。
- 中井広恵とは女流棋士時代からの親友で、退会後しばらくたった後も中井が福岡まで見舞いに訪れるなど交流を続けている[22]。
- 藤井聡太のファンであり、公式ブログでも度々藤井の話題を取り上げている。棋士引退後は長らく将棋から遠ざかり、その後の闘病生活の影響から生きる希望を失っていた時期もあったが、藤井の対局を見て再び将棋を指したいと思うようになり、生活習慣を見直して持病をコントロールするようになったと語っている。
- 私生活ではウロコインコを飼っており、テリー伊藤のYouTubeチャンネルに出演した際、このインコとの結婚式も挙げた。
- 食生活では激辛料理好き。前述の通りインド料理店を開店したものも辛い料理、特にカレーライス好きが昂じてのものだった[23]。大山康晴とは激辛好き同士ということで意気投合する仲だったという[24]。
主な成績
獲得タイトル
将棋大賞
- 第10回(1983年) - 女流棋士賞★
- 第11回(1984年) - 女流棋士賞★
- 第12回(1985年) - 女流棋士賞★
- 第14回(1987年) - 女流棋士賞★
- 第17回(1990年) - 女流棋士賞★
- 第18回(1991年) - 女流棋士賞★
★印は、女流の最高賞(1998年度までは「女流棋士賞」、1999年度から「最優秀女流棋士賞」が最高賞)。
記録
- 通算成績 311局 197勝114敗 勝率.633
- 公式女流棋戦連勝 - 17連勝(1982年度、歴代3位タイ[25])
- 女流タイトル連覇10期 - 歴代2位[注 6]
- 最年少タイトル獲得 - 14歳3か月(1982年4月)
- 非公式戦ながら対男性棋士対局初白星(1991年6月3日第1期銀河戦、対椎橋金司五段)
その他
- 棋戦優勝履歴
- レディースオープントーナメント 1回(第3回)
- アマ棋戦優勝履歴
- 第11期(1979年)女流アマ名人戦優勝
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著書
エッセイ
- ひとりぼっちの対局 だから青春! (ノラブックス、1983年)
- 林葉直子のとんでも恋愛講座ABC… (鎌倉書房、1993年)
- 願えば夢はかなうもの (講談社、1993年)
- 抵抗 レジスタンス (小学館、1995年)
- 罪 (モッツ出版、2001年)
- 遺言 最後の食卓 (中央公論新社、2014年)
小説
- 講談社X文庫ティーンズハート 「とんでもポリス」シリーズ
- とんでもポリスは恋泥棒 (1987年)
- ラブコールはSOS とんでもポリス (1988年)
- ウワキなあいつを指名手配 とんでもポリス3 (1988年)
- 恋のアリバイをくずせ! 新とんポリ (1989年)
- キス100回の刑に処す! 新とんポリ (1989年)
- 吸血鬼は無実の罪 新とんポリ (1989年)
- 真犯人は恋わずらい 新とんポリ (1989年)
- 恋人捜査本部! 新とんポリ (1990年)
- 愛する心に手錠して 新とんポリ (1990年)
- 恋の現場に踏みこまないで 新とんポリ (1990年)
- 恋の証拠を捜しだせ! 新とんポリ (1990年)
- 恋の取調べは一晩中 新とんポリ (1991年)
- くちびるの罠に気をつけて 新とんポリ (1991年)
- 恋の病に110番 新とんポリ (1992年)
- 君を永久に逮捕する 新とんポリ (1993年)
- ベビー・とんポリ (1994年)
- 誘拐犯には赤いキス ベビー・とんポリ (1995年)
- ババサンの贈り物 ベビー・とんポリ (1995年)
- 追いかけて恋 (講談社X文庫 Teen's heart 1990年)
- 恋の方程式教えて (角川文庫 1991年)
- Help! 香織と達平のエイティーン・ラブ (講談社X文庫 Teen's heart 1991年)
- 講談社X文庫ティーンズハート「キスだけじゃイヤ」上・下巻 (1991年)
- キスだけじゃイヤ 2 あいつとアイツの巻 (1992年)
- キスだけじゃイヤ 3 ハネムーンは危険がいっぱい (1992年)
- キスだけじゃイヤ 4 とらぶるバレンタイン (1993年)
- キスだけじゃイヤ 5 恋のライバルを消せ! (1993年)
- キスだけじゃイヤ 6 青い瞳にダマされないで (1993年)
- キスだけじゃイヤ 7 ナイショで抱きしめて (1994年)
- キスだけじゃイヤ 8 危ないドクター (1994年)
- キスだけじゃイヤ 9 ウエディングベルが待てないの (1994年)
- キスだけじゃイヤ 10 秘密のタイムテーブル (1996年)
- キスだけじゃイヤ 11 ハートじかけの女神サマ (1997年)
- CD、ティーンズハート・シリーズ Vol.1「恋愛時間」(1992年4月22日、東芝EMI、TOCT-6446)
- キッスは死の香り (集英社、1992年)
- 気まぐれ天使は夜空がお好き! 恋の事件簿 (学習研究社、1992年)
- アブナイあぶないドミトリー! (集英社コバルト文庫、1992年)
- 恋は3段活用 スキ・ドキ・キス (角川文庫、1992年)
- あいつは恋のマジシャン!! (学研レモン文庫、1993年)
- Hッ!! (学研レモン文庫、1994年)
- 二人だけの秘密 (小学館パレット文庫、1995年)
- ナイショで魔法のkissをして! (小学館パレット文庫、1995年)
- 私の星の王子サマ (講談社X文庫 Teen's heart、1996年)
- 殺したい女 (ジャパン・ミックス、1995年)
- アバンチュール (書き下ろし短篇集 竹書房、1996年)
- 不倫旅行 夏 (山岸伸撮影 テイアイエス、1998年)
漫画
入門書
- 将棋ってなあに 親子で入門 (毎日コミュニケーションズ、1988年)
写真集
- CONFESSION 告白(竹書房、1995年)ISBN 4-8124-0005-8
- SCANDAL(テイアイエス、1998年)ISBN 4-88618-181-3
- 罰 NAOKO HAYASHIBA(モッツ出版、2001年)ISBN 4-944214-20-0
- 罪と罰(展望社、2014年)ISBN 4-88546-280-0
ディスコグラフィー
ドラマ出演
吹き替え
出演CM
ゲーム監修
ラジオ
- ときめきサンデー(KBCラジオ)[1]
占いコンテンツ
脚注
注釈
出典
- ^ a b 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、125頁。
- ^ “林葉直子 肝硬変で死を覚悟”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2014年2月21日) 2023年2月18日閲覧。
- ^ 女流アマ名人戦歴代優勝一覧
- ^ 『近代将棋』 蛸島彰子と女流棋界の歩み 1998年8月号
- ^ 別冊宝島『将棋王手飛車読本』
- ^ a b c d e f g 田丸昇『将棋界の事件簿』p155-163
- ^ 青野照市『勝負の視点』、第4章 女流棋士への思い(1995年、毎日コミュニケーションズ)
- ^ 週刊ファミコン通信 no.327. 株式会社アスキー. (1995年3月24日). p. 24
- ^ 林葉直子さんのこと | 河内家菊水丸オフィシャルブログ「河内音頭」Powered by Ameba
- ^ sumidabの2010年4月20日のツイート、2022年2月10日閲覧。
- ^ sumidabの2016年3月16日のツイート、2022年2月10日閲覧。
- ^ “林葉直子さん、スター棋士・失踪・不倫騒動・余命宣告…すべての真相を語る”. 週刊女性PRIME (2020年9月1日). 2022年2月17日閲覧。
- ^ a b c 「近代将棋 1995年11月号「棋界こぼれ話」(大矢順正)」『近代将棋社/国立国会図書館デジタルコレクション』30–31頁。
- ^ a b c d e f g 中倉彰子初段-林葉直子さん観戦記
- ^ exciteニュース「林葉直子と中原誠の不倫騒動 将棋界に炸裂した「文春砲」」近添真琴 2016年10月20日
- ^ 別冊宝島440『将棋これも一局読本』(宝島社、1999年)pp.203
- ^ 林葉直子 自己破産、自宅の借金が負担に
- ^ a b アイドル棋士の転落と奇跡|ザ!世界仰天ニュース|日本テレビ
- ^ “林葉直子 河村たかし市長に「人様のメダルをかじるのはどうかなぁ」”. デイリースポーツ (2021年8月9日). 2021年8月9日閲覧。
- ^ 人生、詰んでます。~林葉直子の波乱万丈diary
- ^ 林葉直子「私の愛する棋士達 第1回 大山康晴十五世名人の巻」
- ^ 林葉直子 肝硬変闘病を励ます中井広恵・女流六段のお見舞い
- ^ 天才女流棋士・林葉直子 「余命1年」と宣告されて・前編 - NEWSポストセブン・2019年10月8日
- ^ 『将棋世界』1991年10月号 女流リレーエッセイ「30倍と50倍の仲」
- ^ 女流棋士年度成績歴代記録
- ^ 業界騒然!あの林葉直子のWEB占いが楽天占いに登場! valuepress、2014年4月21日配信。
- ^ 番組公開終了のお知らせ 楽天占い、2019年9月2日更新。
参考文献
- 蛸島彰子と女流棋界の歩み 『近代将棋』1999年1月号
関連項目
外部リンク
- 林葉直子オフィシャルブログ「最後の食卓」 - ameblo