Wikipedia:井戸端/subj/血液型の記載

血液型情報に関して

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有名人・キャラクターに関わらず血液型詐称によってプロパガンダを行う組織が存在するようです。血液型を書かないようにするのは、逆にWikipediaを活動に利用されるだけで危険と考えられます。そこで逆に、血液型に関して外部リンクや出典明記などソース張りを積極的に行い、しっかりした情報源のあるものは、どんな有名人だろうと絶対に削除しないようにするべきではないでしょうか?--すりーく 2007年5月5日 (土) 04:19 (UTC)[返信]

考えすぎではないかと思います。それに、プロパガンダを行う組織もWikipediaに参加できることと、つねに正確性を保つことはWikipediaの仕組み上不可能なので、Wikipediaを信用を担保する資料として使わせないことのほうが重要ではないかと思います。--Yhiroyuki 2007年5月5日 (土) 05:05 (UTC)[返信]
血液型はABO式だけではないし、血液型を記すことに意味はありません。採血でもしなければ検証もできないし。ソースを示したところで、その出典元にはそう書いてある、という以上にはならないですし。むしろなぜABO式血液型のようなものを掲載したがるのか不思議でならないです。これほど無意味な情報はないでしょう。--PeachLover - ももがすき。 2007年5月6日 (日) 06:29 (UTC)[返信]
確かに事実上検証は不可能ですが、それを言い出すのであれば誕生日や本名も戸籍謄本を取り寄せなければ記述不可能、ということになります。少なくとも公式に発表され、百科事典を利用する人が必要としている情報であれば削除する理由はありません。そこに意味があると感じるかどうかは利用者が決めることです。ABO式が記述されるのは単に最も認知されている分類法だからでしょうし。--クロウ 2007年5月6日 (日) 07:07 (UTC)[返信]
疑似科学等に於いては血液型は重要な要素であったりします。それが無意味な情報かどうかは読む人が決める事であると考えます。逆に「その出典元」になぜ書かれているのかを考察されてみるのも良いと思います。最初から理解出来ない故に考察も拒絶では少々頭が堅過ぎます。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年5月6日 (日) 09:00 (UTC)[返信]

血液型云々は無意味な記載ではなく有害な記載と思います。無学と偏見の固まり。ただ一国の総理大臣ですらこの惨状[1]なので救いようがないです。。--fromm 2007年5月7日 (月) 13:12 (UTC)[返信]

ABO式血液型に意味があるという認識は一部の東アジアの国に存在するのみで、Wikipediaの記述としては無意味であり「記載不要」との過去の合意に賛成します。確かに我々はかなり日常的に血液型の話題を持ち出しますし、血液型を世間話のネタとする文化を持っていますが、科学的・世界的には何ら意味を成しません。どうしても記載したくなる我々の気持ちはどうしようもなく日本中心です。確かな情報源があろうとなかろうと、記載に何の意味があるのかと自問してほしいものです。--Bossa 2007年5月7日 (月) 13:52 (UTC)[返信]
どうも血液型の話になると冷静な判断が出来なくなる方が散見されますね。狂信的に信じる方も、狂信的に嫌う方も、血液型という情報に振り回されているという点では同じなんですけど。ともあれ血液型性格分類にどれだけの科学性があるか、有益か有害か、はWikipediaが判断することではありません。「有用」にせよ「有害」にせよ、何か主張を行いたければ自分のホームページでどうぞ。「有害である」とどうしても言いたくて我慢できないなら、そう書いてある信用できる文献を探してきて「××には有害と書いてある」と書いてください。また、情報に価値があるかどうかを決めるのも読者です。あくまで読者の平均的感覚に従うべきであり、「自分が興味が無い・嫌いな情報だから載せるべきでない」と言うのは傲慢でしょう。そういう態度は「俺は2chが好きだから、2chのスレ情報を書きまくるぞ」という態度と同じです(「好きだから書く。嫌いだから書かない」という意味で)。「血液型情報に興味を持つのは日本人だけだから、そんな情報は無意味」と言うなら、日本でしか見られないテレビドラマや漫画に関する記事に対しても「どうしても記載したくなる我々の気持ちはどうしようもなく日本中心です」ということで、削除依頼を出すべきでしょう。自分の好き嫌いで記載可否を言い出す態度も困りものですが、それを巧妙に公憤に摩り替えるのは、なお困りものです。--はま 2007年5月7日 (月) 14:18 (UTC)[返信]
私は血液型は基本的には無用のものであると考えます。たとえば、事件・事故等で手術を受ける際に血液型が報道され、その報道が著名活動に影響を与えたとかのような、特筆すべきものが無い限りには書かないほうが良いように思います。そもそも、血液型はなにか当該人物の活動において特筆すべきものなのでしょうか?社会とのかかわりの中で、血液型というその人物の持つ属性がその人物記事の説明を豊かにするか否かを考慮して、掲載を検討すべきものでしょう。端的に言えば、大半の現行の人物記事において記載されている血液型はこのような疑問に答えるものではなく、除去もやむなしであると思っております。--Masao 2007年5月7日 (月) 14:46 (UTC)[返信]
私は、血液型が載っていても良いかなと思っています。全記事から削除もしくは全記事に加筆する必要はないと思う。科学的に意味はないかもしれません。しかし、日本では血液型性格分類の考えが一部で浸透しており、またABO分類が日本では一般的です。定義部分などに書いてあるために、当事者及び読者が重大な損益を被るという事もないでしょうし、もし問題になるようであれば、個々で対応すればいいだけであると思います。「日本中心はだめ」という内容は、「国際に関わる記事の場合、日本だけに固執してはいけない」という内容だと判断しており、血液型で諸外国が損益を被るとも思えません。そもそも草案ですし。よっぽど身長とか体重の方が、永続的な価値が保証されないので(xxxx年yy月時点とか書いてない限り)、削除すべきだと考えています。--テンパわたる 2007年5月7日 (月) 15:10 (UTC)[返信]
さほど有益でないという点においては、誕生日等も同様かと思います。「無学と偏見の固まり」とありますが、そういった言説こそが現代科学中心主義の観点からみた偏見に外ならないのではないでしょうか。Wikipedia:現代科学中心にならないようにでも起草する必要があるかな……--spirituelle 2007年5月7日 (月) 16:46 (UTC)[返信]
↑これは素晴らしいジョークだと思います。しかもこれ以上も無く的を射ている。まぁ、血液型がどうのというのはともかくとしても、科学的だの非科学的だの無学と偏見の固まりだのというのは自らが真理と信じているものを根拠とした理屈に過ぎない一種の宗教にも似たものであるのは事実であり(某国では進化論も有害な擬似科学なのだ)、それを基準に有益か有害かを論じるのは本当はナンセンスなのかもしれませんね。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年5月7日 (月) 17:15 (UTC)[返信]
進化論が仮に間違っていたとしても、擬似科学ではあり得ません。それは、仮にどっかの政府が事実を隠蔽してウソの発表をしていたとして、その発表を陰謀論と呼ぶのは間違いであるのと同じようなものです。 -- NiKe 2007年5月11日 (金) 05:32 (UTC)[返信]
政府の陰謀論と進化論擬似科学説との関係がまるで判らないので、その説明は私には全く理解できないのですが(飛躍がし過ぎて話について行けない)、それを科学と捉えるか若しくは擬似科学と捉えるかどうか、という時点で既に「自らが真理と信じているものを根拠とした理屈」なのですよ。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年5月12日 (土) 03:08 (UTC)[返信]
進化論は、真理であろうと真理でなかろうと、疑似科学の理論ではありえません。科学的な手法によっていないのに科学的であるかのような装いをこらして主張される理論のことを、疑似科学と呼びます。という話なのでは
それと、科学的な理論は自身が「真理」であるとは主張しないですが、疑似科学は往々にして自身が「真理」であると主張しますね。 --Hatukanezumi 2007年5月16日 (水) 10:08 (UTC)[返信]
「科学的な手法によっていないのに科学的であるかのような装いをこらして主張される理論のことを、疑似科学と呼びます。」とありますが、それはいわばトートロジーでありまして、それでは科学的な手法と非科学的な手法をどうやって線引きするかという問題に結局価値判断が必要とされるわけです。
最近は反証主義が流行しているわけですが、例えば「観察もしくは論理的推論のいずれかに根拠を持たない理論はすべて擬似科学だ」とかいう極めてラディカルな完全検証主義だってまともに議論された過去がありまして(ちなみにこれに基づけば進化論は擬似科学です。というかあらゆる理論は擬似科学となります。ミュンヒハウゼンのトリレンマ参照)、そのどちらを選ぶかというのは、資本主義と共産主義のどちらを選ぶかという選択と大差ないわけですよ。「共産主義は多くの国で破綻した」という言説には客観性が見いだせますが、だからといって「資本主義が唯一正しい理論で、共産主義は誤りである」などということはできない(そもそも「主義」に対して「誤り」とは一体何だという話です)。同様に、「完全検証主義に基づけばあらゆる理論が擬似科学となりナンセンスである」という言説は客観的ですが、では「完全検証主義は誤りである」というわけにはいかないだろうと。
ここでは完全検証主義を例に挙げましたが、「進化論は擬似科学、ID説こそが正当」説だって変わりません。言ってみれば「黒人は人間ではない」説のようなものです。我々から見れば突飛な理論ですが、これらの説が排除されるのは、価値判断の結果でありまして、自ずと演繹的に排除されるなどという訳ではないのです。--spirituelle 2007年5月16日 (水) 14:31 (UTC)[返信]
いや。科学的な手法によっていれば正当だ、とか言いたいわけではないです。科学は科学として、科学でないものは科学でないものとして、それぞれ解説すればよいのではないですか。ただ、ウィキペディアのNPOVの下では、科学的な手法によっているものが定説、そうでないものは傍流の説として解説されることになるでしょうけれども。 --Hatukanezumi 2007年5月16日 (水) 14:38 (UTC)[返信]
話を戻す。血液型だろうがなんだろうが、出典がないものは書かないこと、出典があって需要がある情報はむやみに除去しない、だけの話でしょう。--シャルル 2007年5月17日 (木) 13:59 (UTC)[返信]
否、ここで言われているのは「出典云々」は余り関係無いと思われます。むしろ後者の需要があるか否かではないかと。その上で不要論を唱える人は需要が無いと考え、必要論を唱える人は需要を考えているのです。私のようにどちらでも良いと考える者は、特に自分は必要とはしていないしこれと言った需要を強く思うものも無いが、取り立てて不必要だとか有害な情報とまでは思わない、というだけの事です。故に、必要と思うか否かというものが宗教に似たりと書いたのです。ともあれ、不必要だというのはともかく有害だと唱える者は、何故に有害情報と考えるのか、その論拠を示していない事が問題なのではないでしょうか。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年5月17日 (木) 15:54 (UTC)[返信]
血液型の情報そのものは単なる情報。本名や身長のようなプライベートな情報と違って、血液型詐称によるプロパガンダで、どう悪用するか自分には想像できない。血液型占いの話とは別問題だけど、絡んだとしても中立的な観点の疑似科学と科学の項そのままでしょ?需要についてはなんとなく想像できるんで暖かい目で見てあげればいいんじゃないのかね。--シャルル 2007年5月18日 (金) 03:48 (UTC)[返信]
血液型については自分も大まかには٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんと同じスタンスです。自分にとっては特に必要なものではないが、少なくとも日本の中では世間一般に広く浸透しているものだし(記載されているのはWikipedia日本語版なので)、ごく一般的な医療検査で知らされるのもABO型の分類。そういった事実から鑑みて記事の中に含まれていても取り立てて不用とも有害とも感じません。その科学的真偽はまた別次元の問題と思います。「記載に何の意味があるのか」と問われれば「一般的に見てもWikipedia読者の中に決して少なくない相当数の需要がある情報であるのは疑い様がない(=ごく一部の者たちだけが知りたい情報ではない)」と判断できるから、と自分ならお答えします。ただし記事の中に単に血液型だけが記載されているならば何の問題もないですが、「~という人はA型だから~である」といったような記載があるなら、それは正確な根拠を示せないので削除と判断するのに異論はありません。要は個人的に血液型をどう見るかは別にして、記事出筆に際してそのぐらいの許容範囲(柔軟性)はあってもよいのではないか、と考えます。--ライアン 2007年5月23日 (水) 15:33 (UTC)[返信]
日本の現況では人権問題になっており、かなり有害なので書かないほうが良いでしょう。導入部については絶対書かないほうが良いかと思います。--Hiroshi takahashi会話2019年4月6日 (土) 09:27 (UTC)[返信]