Wikipedia:井戸端/subj/ウィキペディアは多数決主義?
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ウィキペディアは多数決主義?
編集これだけど、ウィキペディアは多数決主義を否定して、今のウィキペディアは民主的な投票も調査としてしまっているわけだけど、ルールは多数決で決めることになってる?それは一人だと認めんってことみたいなんだけど、二人ならいいのか?そうじゃないなら、何人だ?その根拠は何だ?明確なルールもなく、多数が一方的に排除している様子は、数の暴力としか思えん。投票を元に戻にして、きっちり決められるようにし、そんな茶番が繰り返さないようにすべきと思うが、いかがか。投票も多数決だし、ろくすっぽ議論もせずに打ち切らぬよう監視は必要なんだけど、賛否両方の意見を公平に紹介するし、期間を定めて広く公募するから構成でいいと思う。調停委員会や仲裁委員会を立ち上げて、中立的に判断するのもありだろう。--Umehana(会話)
- 何がおっしゃりたいのか微妙にしかわからないのですが…。議論をする際には、相手を説得するため自分の主張をわかりやすく伝える必要があると思います。「多数決で決めることになってる」→ 違います。「一人だと認めん」→ 違います。「ルールもなく」→「 Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは多数決主義ではありません」があります。「投票を元に戻にして」→ 元に戻すとは?「監視は必要」→ 誰がですか?「構成でいい」→ ??「調停委員会や仲裁委員会を立ち上げて」→ 誰がですか?やみくもに提案だけしても意味が無いと思います。--Calvero(会話) 2012年10月2日 (火) 16:57 (UTC)
- 情報これはおそらく、一人の編集者が反対したままの状態でWP:SEが私論へと格下げされたことに対する異議だと思います。経緯は(ちょっと長いですが)、Wikipedia‐ノート:創作物を基にした逐次的な編集#私論への格下げ提案で確認できます。--Bugandhoney(会話) 2012年10月2日 (火) 18:04 (UTC)
- んー、いつも思うのですが、その辺り、軽々しく投票を行い単純に票を数えてだけで物事を判断しない、ってことは確かなんですが、それはソックパペットへの警戒だとか、投票ありきではなく最後の票決前に十分な議論と理由付けをとか、少数意見にも耳を傾けて必要であれば一部に意を汲み入れろだとか、1票差で結論を出すなとか、そういう言う話なんじゃないですか?単純な数の話だけで申し上げれば、比較的白黒がはっきり付く案件について、極めて少数の意見より大多数の意見が汲み取られやすいのは人間社会においては当然のことです。少数の意見の方が重要視される社会って、ちょっと想像できないんですが。ルールの方で申し上げれば、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないなどがありますよ。ですが、いずれに致しましてもウィキペディアは規則主義ではありませんし、方針/ガイドラインの文言も合議の上で随時更新されているのが実情ですから、一人だと認めず二人でも認めず三人だと認めないとか、そういう議論は意味がないです。「遺憾ながらこの世の中、自分以外の大多数が○○が正しいと主張している。納得はできないがそれが社会と言うものだから合わせておこう」などと言う割り切りも、必要です。--Hman(会話) 2012年10月2日 (火) 18:36 (UTC)
- ジョブズの "Think different" という言葉もあります(> 少数の意見の方が重要視される社会)。まあ、単に人と違っていればいいというものではなくて、それが優れていることを示さねばならないわけですけど。少数派の主張が失敗するのは、自分の理論の欠点に気付いていないか、多数派の理論の長所に目をつぶっているかのどちらかが原因なのではないかと思います。優れていることが認められれば、少数派は多数派になっていくものではありますが。割り切るにしても、うやむやのままに終わらせるのではなく、なぜ受け入れられないのかをよく考えてみるべきだと思います。--Calvero(会話) 2012年10月3日 (水) 11:14 (UTC)
- ◆まあ、Umehanaさんの文章は誤変換が多いものの文法的に類推できる単語もあるので、何とか微妙におっしゃりたいことは理解出来るのでその範囲で応えますと、
- 確かにWikipediaは多数決を否定しているけど、それは相手を説得して納得させることを重視しているからであり、投票による多数決の優先を否定していると捉えています。調査投票はありますし、実際に調査投票を元にして少数派に翻意を促すこともしばしば見受けられます。
- 調停委員会は、一応仮訳されています。ご興味がおありでしたら、Wikipedia‐ノート:調停委員会で正式化を提案してみるのもよいでしょう。--ろう(Law soma) D C 2012年10月3日 (水) 00:18 (UTC)
- コメント この手の問題の根源はWP:CONに対する考え方になると思います。全会一致じゃなきゃ合意が形成されたと認めないという人は少なからずjawpにいらっしゃいます。(今回のWP:SEに関する件も,「全会一致でなければ合意形成と認めない」という立場の方からすれば合意形成には至っていないと判断するでしょう)。この項目はその考えの差が表れたものじゃないでしょうか。ノートなどでの議論では実際に一人でも強い反対が継続すると議論が硬直化してどうしようもなくなってしまうという弊害も少なからずあります。参考資料として,かつてWikipedia‐ノート:合意形成#「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」旨の記述を追加する提案もお読みいただければと思います。--かげろん(会話) 2012年10月4日 (木) 09:14 (UTC)
- 情報どうもです。いまさら気付いたのですが、「合意は多数決ではない」とは書いてありますけど、「合意は全会一致が原則」などとは書いてないですね。どこか別のところに書いてあるのでしょうか。多数決ではないことと全会一致でなければならないこととの間には大きな隔たりがあるように私には思われるのですが。あと、「合意は多数決ではない」というのは「単なる賛否の表明にとどまらない議論を行え」ということですよね。英語版には「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」とはっきり書いてあるのですね。これはやっぱり、人数の問題のような気もします。100人規模で議論の参加者がいる場合に全会一致というのはまずありえないでしょう。全会一致でなければだめというのでは物事は何も進まないでしょうね。少人数で議論しても合意に至らないときは他の人にも意見を求めて、どちらがよりよい意見か見極めるということだと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年10月4日 (木) 13:55 (UTC)
- コメント そこらへんがはっきりとはWP:CONに明記されていないのが逆に問題だと思うのです。上のノートでの議論があったあたりの時期には「合意は多数決ではない」のだから「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」ということは受け入れられないという意見もあった記憶があります。こういった考えもあるので,合意は全会一致でなければならないと思ってる方はjawpでは決して少なくないと思います(そういう雰囲気的なものがあったととらえていただければいいと思います)。「単なる賛否の表明にとどまらない議論を行え」というのはその通りなのですが,現実問題として,少しでも反対があった場合に最終的にどう決着させるかということも考えなければならないのではないかと思います。--かげろん(会話) 2012年10月4日 (木) 14:33 (UTC)
- 議論に関しては延々と続いていてぐだぐだしていて、反対する人たちは全会一致が原則だからという理由で反対しているのかどうかいまいち分かりませんでした。英語版には「ウィキペディアにおける合意とは全会一致を意味するわけでも、投票結果(引用者註:多数決)を意味するわけでもない」とあるだけですね。日本語版の習慣とも一致するような穏当な表現だと思ったのですが。ただ、全会一致が原則、という人たちにとっては、受け入れられないでしょうね。合意に至らなかったらたいていの場合どうなるのか、というのはen:Wikipedia:Consensus#No consensusで説明されていました。--Bugandhoney(会話) 2012年10月4日 (木) 19:12 (UTC)
- コメント そこらへんがはっきりとはWP:CONに明記されていないのが逆に問題だと思うのです。上のノートでの議論があったあたりの時期には「合意は多数決ではない」のだから「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」ということは受け入れられないという意見もあった記憶があります。こういった考えもあるので,合意は全会一致でなければならないと思ってる方はjawpでは決して少なくないと思います(そういう雰囲気的なものがあったととらえていただければいいと思います)。「単なる賛否の表明にとどまらない議論を行え」というのはその通りなのですが,現実問題として,少しでも反対があった場合に最終的にどう決着させるかということも考えなければならないのではないかと思います。--かげろん(会話) 2012年10月4日 (木) 14:33 (UTC)
- 情報どうもです。いまさら気付いたのですが、「合意は多数決ではない」とは書いてありますけど、「合意は全会一致が原則」などとは書いてないですね。どこか別のところに書いてあるのでしょうか。多数決ではないことと全会一致でなければならないこととの間には大きな隔たりがあるように私には思われるのですが。あと、「合意は多数決ではない」というのは「単なる賛否の表明にとどまらない議論を行え」ということですよね。英語版には「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」とはっきり書いてあるのですね。これはやっぱり、人数の問題のような気もします。100人規模で議論の参加者がいる場合に全会一致というのはまずありえないでしょう。全会一致でなければだめというのでは物事は何も進まないでしょうね。少人数で議論しても合意に至らないときは他の人にも意見を求めて、どちらがよりよい意見か見極めるということだと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年10月4日 (木) 13:55 (UTC)
- よく伝わらなくて、申し訳ない。Bugandhoney氏の示した議論で、一人の反対で決められなかったこと、多数が少数を一方敵に無視して決着させたことで、大いに疑問が生じた。
- 一つは、「ルール」の改廃では多数決で決めると合意されているか?
- それがしが例の議論をみなおしたところ、最初は議論されていたが、しばらくやり取りがなくなった。ここで反対なしを宣言して終結を図ろうとしたときに、反対していた人から反対の声が上がったというあたりからどうもおかしい。それぞれがあげた問題はそっちのけで、ガイドラインは多くの賛同が必要だから一人の反対は無効だという廃止賛成派と、反対がある以上合意がなされていないという反対者で、賛否の数のみが主な論争になってしまっている。第三者の意見を求めていたから合意できていないのはそうだといったし、そのときは反対のための反対に見えたから反対者の強制排除を主張したのだが、結局無視して、多数派が一方的に強行してしまった。こういうことは認められているのか?その根拠はなんだ?結局ないようじゃなく、数の勝負なのか?賛否(規制なんかないほうがいいよね)は脇においとけば、反対者も的を射た指摘をしていると思う。それと、多数派に納得できないから意見を曲げないのは、荒らしのレッテルを張るほど悪いことなのか?
- 二つは、よく議論して合意を派けれという原則はよーくわかるのだが、一人でも強硬に反対したら決めらんないとしか思えんのだが、それでいいのか?
- かげろん氏があげた議論は反対者のMujaki氏もあげていたが、全会一致でなくてよいというのは受け入れられているとは到底いいがたい。論争の解決だと、調査投票でもだめなら、時の解決を待つことを紹介しているのだが、何年か前までは最後は投票で決着していたと思う。投票で白黒つけられるのなら、あとくされなし、意見の自由を奪うこともない。少数派も多数派になるべくみんなを説得する努力が必要だ。ろう氏が仮訳を示していたけど、調停委員会や仲裁委員会は英語版である仕組みである。もし委員が多数かどうかで決めるなら投票で解決すればいいことだし、もし委員が熟慮して少数側をいいといえば非難轟々になるだろうから職務が大変だろう。だから、委員会もありかもしれないが、投票のほうがいいと思う。
- 追加で、普通は反対一つで決めらんないのに、ルールを決めるのは多数決でいいの?ルールの廃止だけ?新設や変更は?
- ルールの決め事だけ除外するのであればそう明確にすべきだ。規則主義じゃないとあるけど、いいかげんでいいということではないと思う。それに、ルール以外は影響がちっちゃいけど、ルールは誰にも影響する。だから、ルールの方が高いハードルをかけるべきじゃないかと思うんだが。例の議論だと、反対は一人だけど、賛成も10人くらいで、たったそれだの人数できめちゃっていいのかと、思わなくもない。-Umehana(会話)
- ちょっとまた両義的な投稿で困ってしまうのですが、投票で白黒つけられるのなら、あとくされなしというように多数決を認めるのであれば、WP:SEの私論化に関しては特に問題視する必要はないと思うのですが。とりあえず経緯の補足からしますと、反対のための反対に見えたから反対者の強制排除を主張したとありますが、私論への格下げに反対していた編集者に対する投稿ブロックに最初に言及したのはUmehanaさんですよね。格下げに賛成していた編集者たちはそんなこと思ってもいなかったわけで、ですからUmehanaさんの主張は無視されたわけです。ですから、多数派に納得できないから意見を曲げないのは、荒らしのレッテルを張るほど悪いことなのか?などと質問されても困ってしまいます。
- 一点目と三点目はガイドラインの改廃手順に関するものだと思うのですが、Wikipedia:方針とガイドライン#採用手順をご確認ください。そこには採用に関しては方針の採用にはコミュニティによる強い賛同とあります。これは私は、新しいガイドラインの提案は周知徹底した上でほぼ100%の賛成が必要だと受け取っています。格下げに関しては逆に考えてみるとよいと思います。WP:SEは今私論になっていますが、このままの状態で再ガイドライン化の提案を行ったところで、コミュニティによる強い賛同が得られるはずもないのでガイドライン化は不可能でしょう。ガイドラインにできないような文書をガイドラインとして維持しようとするのは無理があったと思います。
- 二点目に関しては、まず一般論で言うとウィキペディアには多数の編集者が参加している以上、一人の編集者の思い通りになるべきではないでしょう。ただ、実際には一人の編集者に振り回されるというのはけっこうありますね。今までの経験でいうと、「ウィキペディアは多数決ではだめで全会一致が原則」というのを持ち出すのは決まって、いつまでも意見を変えない、一人だけ他の編集者と意見の違う人という場合が多いです。一人対多数という構造が、通常は過半数でよいとされる多数決にすり替わってるんですよね。これは私にはWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用に見えてしまいます。これは私は編集者の数が少ない日本語版の構造的な問題だと思っています。編集に参加している人の数が少ないとその中に一人でも変わった意見の人が入っているとそれに大きく影響されちゃうんですよね。何十人も参加している場合は、そういう変わった意見は多数派の意見にかき消されちゃって、議論は多くの人が賛同できるような常識的な結論に落ち着きやすくなるとは思うのですが。例の議論だと、反対は一人だけど、賛成も10人くらいで、たったそれだの人数できめちゃっていいのかというのはまったくその通りだと思うのですが、これが今の日本語版の限界かと思います。そういう状況の中で様々な意思決定をどうやって行っていくか、というのを考えないといけないと思います。あと、あんまり手続き的なことにこだわっても仕方ないかなと。ウィキペディアは結局百科事典を作るプロジェクトですから、ルールを制定することやそれを守らせることが自己目的化したらだめだと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年10月5日 (金) 18:53 (UTC)