Wikipedia:井戸端/subj/「対話」と「Discussion」の違いについて

「対話」と「Discussion」の違いについて

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Wikipedia:投稿ブロック依頼/Vigorous action 03172018などを読んでの感想です。 日本語版のWikipedia:投稿ブロックの方針を読むと「対話拒否」など「対話」という言葉が使われています。対話の英語訳は「dialogue」ですが、英語版のen:Wikipedia:Blocking policyにはdialogueは1つも使われていません。一方、英語版の方には「discussion」という言葉がいくつか使われていますが、日本語版の方にはその訳語である「討論」は1つも使われていません。この辺を見ると、日本語版の「対話」は英語版の「discussion」に対応する言葉として使われているようです。こういう問題は翻訳についてはどうしても発生する現象で、夏目漱石が「I LOVE YOU」を「月が綺麗ですね」と訳するのがよいと話したというエピソードはよく聞くところです。で、話を戻すと、ご存知の通り、アメリカ人を含む欧米人(だけじゃないけど)は日本人に比べて自己主張が強い(というかハッキリものをいう)傾向があるようです。(関西人はそういう傾向があるようですが・・・)日本語版ウィキペディアの色々なルールの多くは英語版の翻訳を元にしているので、欧米人的な発想、つまり日本語の「対話」ではなく英語の「Discussion」を前提として組み立てられていると思います。ルールの翻訳の段階で(夏目漱石のように)その辺の違いを織り込むというのも一つの考え方ですが、日本語版でルールの整備にあたっておられる方はかなり少数派のようで、そこまで要求するのは少し気の毒なようです。ということになれば、ルールの解釈の時点で、そこらあたりの問題に配慮する必要があるのではないかな。そして、「Wikipedia:投稿ブロック依頼/Vigorous action 03172018」の議論はその辺の配慮が不十分なのではないかなというのが私の感想です。なお、この文章は繰り返し書いているように単なる感想です。(随想かな?)Discussionや対話を求めているわけではありません。皆さん、特にWikipedia:投稿ブロック依頼/Vigorous action 03172018に参加された方々の感想を期待します。--106.181.211.110 2018年7月20日 (金) 01:16 (UTC)[返信]

  コメント WP:GABを求めておられるのであれば依頼場所間違いですよ。そうでなくルールの変更を求めておられるのでしたらWP:NOT#ESSAYWP:DR#2辺りをご覧頂き、先ずご意見の依拠する論拠としての文献や文書をご提示頂いた上でご自身が最終的にどのような着地点を目指すのか明らかにしなければ「私は~と思う」の連続する個人的な感想の連続に終始してしまい、何の建設性もない言葉尻を捕えた水掛け論が続くのみで時間を無駄にする徒労に終わるものと思います。WP:CONSに在ります通り、現状のルールはこれまでの合意の上に成り立っておりますが絶対正義というものではなく常に改善可能性の余地は残されているものですから、これらがおかしいと感じたならばIP、アカウントユーザーの区別なくそれを改訂する方向へと動くことは最初から許諾されています(WP:CONACHIEVE)。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2018年7月20日 (金) 04:21 (UTC)[返信]
(補足)たしかに「IP、アカウントユーザーの区別なく」参加可能ではありますが、「ノートページにおいて議論し、合意形成する」ような場合には「アカウントを取得し、ログインし、説明責任が果たせる立場になった上」で参加するべきである、と推奨されています(Wikipedia:説明責任)。「多くの利用者」はそう望んでいるのであり、あえてそうしない利用者のことを「責任を持ちたくないためであるとか、ウィキペディアの方針に沿っていないことを自覚している」とみています。--柒月例祭会話2018年7月20日 (金) 04:55 (UTC)[返信]
  (感想でよいのなら)反対票も複数ある中であの処置は思い切ったなぁ。です。ようこそウィキペディアへ。
ウィキペディアに興味を持っていただけるのは大変ありがたいことです。ですが、その第一歩が管理系の難しい問題ですと(今後も活動の場が管理系専門になってしまわないかと)先行きが不安になります。なので、初心者の方には、生産の基本である執筆・画像提供から入られることを常にお勧めしております。
で、もし過去に別のIPやアカウントでの活動があるのならそれを教えてください。過去歴から何に困っているかをこちらで把握して適切なアドバイスを差し上げることができます。逆に完全に初心者さんなのであれば、この難しい問題は気にしないでください。普通の活動で遭遇するような事例ではないので、知らないままのほうが良いです。--Triglav会話2018年7月20日 (金) 07:22 (UTC)[返信]
  「Discussion」=「討論」という対応には違和感を感じます。「討論」というと「Debate」を思い浮かべ、「Discussion」はどちらかというと「議論」でしょうか。「討論」ですと、対立する2案のうちどちらが良いか?意見を戦わせるというイメージです。しかし「議論」ですと、第3案の提示や「こういった観点もありませんか?」とか「この資料をもとにすると前提条件が変わってきますが……」など広く議論を発展させ、より良い解を皆で見つけ出そうというニュアンスがあると考えています。また、そういった観点からしますと、「対話」という現状の訳は、なかなか良いところを突いているような気がいたします。以上、個人的な感想という色彩が強いですが、井戸端ということでご参考になれば幸いです……m(_ _)m。--Assemblykinematics会話2018年7月21日 (土) 00:56 (UTC)[返信]
  106さんの話は自分の感想を繰り返しを述べ対話も討論も求めていないと言いながら、他の方の感想をIPで曖昧に求めるあたりがいわば婉曲な日本的参加者といった感じでしょうか〜。まあ井戸端ならそれでも良いんでしょうが、多分文学や芸術あたりのジャンルの方かな。それを受けてのNami-jaさんや零細さんの話はアメリカ的スタイルよね。双方の違いは自己主体がしっかり確立した上で参加や発言しているかと言う点と、まず自分の姿勢を明示し目指したいゴール明示で他者に意見を求め進める目的思考か、なんとなく自分を明示せずに他者の意見を聞いたり公約数的に雰囲気で進めた結果でゴールする思考の違いだと思います。ルールをアメリカからそのまま持ってきてる時点で既にルール整備の人達はゴール思考ですしそういう方はアカウントをキッチリ取る。またブロックされてもキッチリ個人として基本の確立が揺らがない。
愛してるというのに、月がどうのという漱石みたいな話は他国にもありますし、それは芸術的感性ではありますが、〔主体を曖昧にしてしまう〕そういう感性や思考法、表現手法で、参加したりするのはどこの言語版でも難しいでしょうね。悪意、ずるさ、誤魔化し、論点ずらし、無責任、人のせい、変人、独りよがりなどと悪い方向に取られる確率の方が高い。なぜならプロジェクトが作られた目的と違うから。そういう事を焦点に個々の主体性を明確にせず、コミュケーションやルールマネジメントをするならwikipediaより、知恵袋や文学、詩学あたりのコミュニティみたいなところが良いでしょう。個人は参加にあたっての目的意識をしっかり持ち、その目的意識と参加コミュニティの性質を把握しそこで求められるものがキチンと合致させるよう努める方が双方に良いです。そこがキチンとしていればルールに拘らずIPだろうがアカウントだろうがブロックはされません。逆にそのあたりで一致しなくなれば、古参だろうが、名執筆者だろうが、元管理者であろうが、現管理者であろうが、IPであろうがアカウントであろうが、場が必要としていないのでブロックされる。それだけだと思いますよ。件の方は他者に過干渉し過ぎた結果ブロックされており、個がそれぞれ確立している事が、プロジェクト成立の前提なのでその帯域を自ら外れた他者依存や他者への過干渉は排除される。そこを変えるのはプロジェクトのコミュニティシップの根本的部分なので不可能ですね。対話でも、議論でも、討論でも問題は同じですよ。ルールの問題や翻訳云々では無く、参加主体者個人の姿勢の問題でしょうね。--110.132.255.176 2018年7月21日 (土) 05:21 (UTC)[返信]

セクション作成者です。(BOT君がサブページ化しているので投稿履歴には出て来ません。なお、IPが変わっています。)利用者:110.132.255.176さんは私のことを「婉曲な日本的参加者」と批判しておられますが、「日本的」というよりも、「IPユーザー的」なのだと思います。110.132.255.176さんも同じだと思いますが、つまりのところ、自分が中心になってウィキペディアの運営に参加しようという意思はないわけです。だから、管理者を含むアカウントユーザーの方がしっかりしておられるなと思えばあれこれコメントするつもりはないのですが、Wikipedia:投稿ブロック依頼/Vigorous action 03172018などを見ていると「この人達は何をしているのだろう」という不安感を感じざるを得ません。特に、私の場合、以前にIPv6の方のIPが広域ブロックに巻き込まれたことがあるので、管理者を含むアカウントユーザーの方にはしっかりしていただかないと困ります。そこで、考えるヒントを提供することで、幾分かでも運営に協力できるかなと思って、ちょっと意見を表明してみたわけです。広域ブロックは後日解除されていて現在このように投稿できているので、管理者が全員ぼんくらというわけではないのでしょうが、しっかりしてくださいよね。そういえば、アカウントユーザーの皆さんも「私に任せてください」とは書いておられないですね。現時点で「中心になって」「運営に参加」しようという意思がない点では私と同じなのかもしれません。--106.181.222.80 2018年7月25日 (水) 15:47 (UTC)[返信]

上の投稿は私です。プレビューの時点ではIPv6だったのですが、投稿時にはIPv4になっていて、いささか訳の分からない文章になっています。悪しからず。--2001:268:C02C:78F0:500F:652F:96A3:8926 2018年7月25日 (水) 15:53 (UTC)[返信]

  コメント そもそも日本語版どころか全言語版で「運営者」なる権限は存在しません。お考えになられているのは「言語版ごとに管理組織が存在してその実務を各言語版の管理者が受け持っている」といった形ではないかと思うのですが、「管理者」という名称は単に Administrator の日本語訳であり彼らは一般編集者と同じ立場でちょっとだけ他編集者より編集に関わる権限を多く持っているだけのボランティア一般人です(Wikipedia:管理者)。
ウィキペディアに関わる権限グループはいくつか種類がありますが(Wikipedia:利用者)、ウィキペディア日本語版代表統括管理組織というのは存在しませんし、管理者たちが集って日本語版を運営している事実もありませんし、日本語版の先行きが不安なので管理者はもっとしっかりしろ、と叱咤激励しても管理者個々人にそういったものを強引に変更させたりするような強権は最初からありません。なので管理者に求められているのは上位権限の行使に関してしっかりするだけで、日本語版の安泰な未来に関してしっかりする役割を担っているのは日本語版コミュニティ、つまり、あなたも含む我々一般編集者全員です。
で、「運営に参加するつもりがない」とのことですが、参加するつもりになられましたら日本語版ではなくその参加要望はウィキメディア財団の方に送られませんとスタッフには就任できないと思われます(現時点の財団スタッフに日本人は一人も居ません)。ちなみにこの日本語版も日本国外サーバーで稼働しているウィキペディアプロジェクト群の一部で海外サイトです(財団システム管理者一覧 / ウィキメディア財団公式)。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2018年7月25日 (水) 23:16 (UTC)[返信]
上記でコメントした110ですが、起案者の106さんと同じにされては困りますし、wikipediaの現在の方針運用に起案者さんは文句を言いたいようなので一言。私はIPですがjawpでは、幾つかの方針策定議論には参加した事がありますし、中心的かどうかはわかりませんが、特定の議題では圧倒的にアカウント参加者の反対意見多数の中でも、IPである私の主張が通った事は何度かあります。また幾つもの権限を持っていたり、方針策定の中心的役割を果たすような管理者さんでも〔キチンと論旨を立てて説明できれば〕すぐに納得してくれる事もしばしばです。
JAWPではIPかアカウントかは理を問うのに関係は無いですし、聡明なアカウント利用者は沢山居ますので、理があればどのカテゴリーに所属していようが、参加頻度が少なかろうと、コメントが少なかろうとやる気があろうとなかろうと大抵話は通ります。通らないのは相手が悪いわけで無く、自分が馬鹿だと思った方が良いですよ。起案者の106さんは現行の人がダメだから、自分はやる気が無いけれどヒントを与える事で云々と仰っていますが、率直に言ってしまうと最初のコメントも、再書き込みも私には起案者が若干背伸びをされている印象を受けました。問題点はここで、キチンと自分はこうするべきと思う、あるいはこうしては如何でしょうか?それによりこういうメリットがみんなにあります。あるいはこういう解決方法があったと思います。それぐらい簡単な具体的にハッキリ論旨を自分で作るとかぐらいの事までは出来ないと。そのぐらいは中心的運営云々のレベルでもなくて、真面目に参加せずとも大した手間では無いと気づくようになってから、他人にアドバイスヒントを出された方が良いと思います。
少なくとも大元のwikipedia理念に関わる運用部分のお話なり兼ね無いところを議題に持ち出すのなら、Nami-jaさんの述べた事や各方針を理解した上で、且つアメリカ社会でwikipediaが生まれた背景としての参加者個々の確立と権利や責任、それぞれの主体性の問題、他者に不快感を与えるハラスメントとは現代のアメリカを中心とした個人主義が広がる社会の中でどのように扱われているかぐらいキチンと理解して話さないと。貴方の例示された漱石の翻訳を含めて、対話、討論、議論の意味をどこまで区別しているのか、ただ単に知っている事を並べただけかは、対話でも議論でも討論でも貴方の書き込みを見れば直ぐに見ている人には伝わります。やる気が無いから出来ないだけで、できるけどやら無いんだとかみたいな人とか、他者をどうせ貴方も私と同じだみたいな斜に構えた姿勢をアイロニーに包んで話す人は沢山見てるんですが、そういう最初の時点で、その人が頭のいい人かそうで無いか、耳を真剣に傾ける価値のある話かどうか、ここで真剣に参加している聡明な人には筋で直ぐに伝わるものです。貴方がヒントを与えたつもりなのかもしれないですが、Nami-jaさんが丁寧に貴方に教えていること、そして貴方がむしろ教えられている立場な事は、多くの人が感じているように思います。いわゆる相手から見て自分が誠実な姿勢が無いのに、誰かにその人がヒントを与えるとか言う時点でその人がどんな考えでどんな状況で参加されてるか、どれくらいの知性の持ち主、どれくらい教養ある方かは、大抵聡明な方は気がつくと思いますよ。そういう姿勢の方がここで対話だの討論だの議論をテーマに話すのは違うと思いますけどね〜。ま、例祭さんの話を噛み砕くとそんな所です。あっ、誰か来たようなので、では私はこの辺でさようなら。--110.132.255.176 2018年7月26日 (木) 17:48 (UTC)[返信]