最初二つの事柄をあつかっていましたが、分離すべきという意見がでましたので、分離をします。Miyaさんへの投稿ブロックの妥当性は、Wikipedia:コメント依頼/ちゃたま 20070624に分離しました。ここでは、Miyaさんの保護解除についての幅広い意見を求めます。

  1. Miyaさんの管理者権限乱用について:利用者‐会話:Miya#ブロックのお知らせにあるように、サラ・ブライトマンが保護解除依頼を経ずに保護解除が行われたということで、管理者権限の乱用ではないかという意見が出ています。

なお、混乱を避けるため、分離する以前のコメント依頼の文面(#分離以前)に関しては、多少時間が経過したら、ノートページに移動します。

コメント依頼以前の議論

編集

Miyaさんの保護解除の妥当性に関して

編集

ご本人の言い分はどこに書いてあるのですか?--WhiteWing 2007年6月23日 (土) 16:42 (UTC)[返信]

少なくとも、Wikipedia上にはありません。
同一性などについては保証の限りではありませんが、猫森日記2007-06-23が参考になるかもしれません(内容に関して、おれは更に頭を抱えることになりましたけれども)。--Nekosuki600 2007年6月23日 (土) 17:04 (UTC)[返信]

管理者が独断で解除をすることはあるようですが、すぐに編集に及んだのは勇み足ではなかったのかと考えます。--hyolee2/H.L.LEE 2007年6月24日 (日) 03:26 (UTC)節違いのため移動。-- 2007年6月24日 (日) 03:38 (UTC)[返信]

この部分のコメントは、Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Miya 20070623#一部本ページから分離へ分離しました。

とりあえず、コメント依頼立ち上げ者の私見解を。今回のMiyaさんの保護解除に関しては、管理者権限の乱用といわれても仕方がないと考えています。コミュニティも今回の件では見解は一致のようですので、これ以上書くことはないと思いますが、Miyaさんの説明があるのならば、それを待ちたいと思います。-- 2007年6月24日 (日) 15:14 (UTC)[返信]

おれも、見解っつーか感想を書いておきます。

なんかMiyaさんには、ご自身のblogで「法的思考をするひとはわけわからん(大意)」とか言われてしまったわけですが、まあわからんだろうなあとは思うわけですが、それはとにかく。Miyaさんには通じなくてもかまわないので、他のひとに今回の件についておれがどう問題だと思ったのかを書いておこうと思います。

管理権限を持っている場合、ま、その権限の範囲内で、かなりのことがやれるわけですよ。本来ならば合議が必要なこと、管理権限を持っていないひとならば審議を提案しなければならないことも、「裁量」のひとことでやれちゃったりするわけです(そして、管理権限者の裁量を広く認めるシステムならば、そういうのはアリだ)。しかしWikipediaはそうじゃない。決定はコミュニティが合議で行い、管理者はそれに基づいてシステムの操作をするだけ、というのが原則です。その場合、管理者は、自分の管理権限でできることであっても、異論があるかもしれないことについては、審議を経ておく方が自分にとって安全だと思うんですね。

そこで出てくるのがデュープロセスという考え方だ。わかりやすく言い換えれば「手続きは、遵守されなければならない」という考え方。

今回の発端となったのは、「保護されている項目を編集したい」ということのように思われます(その編集の内容については、問わない。その編集が物議をかもすものかどうかは、関係ない)。一般のユーザが保護されている項目を編集したいと思ったならば、保護解除依頼を出し、審議を行い、保護解除すべしという合意を得て、管理者が保護解除を行うという手順を経て、はじめて編集が可能となるわけです。たまたま自分が管理者権限を持っているからといってその手続きをすべてふっとばして保護解除をし編集をしちゃっていいのか、と。いいわけがないだろうと、おれは思うわけです。

で、問題なのは、更にその先だよ。

Miyaさんにおかれましては、なんで「独断で保護を解除し、編集する」という行動に出たのだろうか。んなもん、保護解除依頼を出し、審議をし、保護を解除すべしという合意を得て、それから解除をして編集しても全然問題なかったんじゃないだろうか。せいぜい、最長でも1ヶ月くらいしか時間はかからないでしょ。それではまずく、今すぐ自分で解除し今すぐ自分で編集しなければならないというほどの緊急性を、おれは見出せないのです。だったらそれは、デュープロセスを経て保護解除をし、それからおもむろに編集をするという手順を踏むべきだったのではないか、と。そして、その手続きを踏めば、こんなモメゴトに発展する可能性はゼロだったんじゃないだろうか、と。あんたそれがわかんなかったのか、と小一時間問い詰めたい気分だったりしますね。

適正な手順を踏むことがどの程度の手間なんだろうか。その後、「裁量範囲の逸脱」とか言われてモメゴトを引き起こしてしまうことと比べて、自分を安全圏においておくために手続きに従って提案をし審議を行ってそれから行動を起こすというのと比べて、独断でなんかやっちゃうことには、果たしてメリットがあることなんだろうか。おれは、ないと思う。おれはWikipediaでは管理者をやったことはないけど他のオンラインサービスでは管理者をやった経験がそこそこあって、そういう「デュープロセスの尊重」でだいぶトラブルを回避できてきたような気がする。そのことを、小規模なコミュニティであった時代の慣習をひきずっている管理者のみなさんに、いまいちど真剣に考えて欲しい。デュープロセスを尊重することで、管理権限を持っている者も、管理権限を持っていない者も、とりあえずいらんモメゴトを避けることができるはずなんだ。

んで、だ。おれもまあ、この説明を読んだ上で、Miyaさんがどういう返答をするかを待ちたいと思います。ただま、ブロックは解除されているようだが、最低限一週間は自発的にブレイクを取り、それからの返答を期待しますが(てゆーか、いずれにせよ熟慮するにはそのくらいかかるはず。それ以前に返答があったら、なんか短慮による返答なんだな、と思うことにします)。--Nekosuki600 2007年6月24日 (日) 16:13 (UTC)[返信]

しかしWikipediaはそうじゃない。決定はコミュニティが合議で行い、管理者はそれに基づいてシステムの操作をするだけ、というのが原則です。

とありますが、それはむしろ Nekosuki600 さんの幻想ないし希望です。実際にはウィキペディアはコミュニティの信任を受けて選出され財団理事会に対してのみ報告義務をもつ管理者がコミュニティの合意を前提としつつ(それには方針文書などが含まれます)善意にもとづいて管理行為を行うことで運営されています。かつ管理者の行動が善意にもとづくものならば、管理者は譴責されるべきではありません。これは以前に Jimmy Wales さんが言明したことで、その当時からいる管理者の方には広く共有される認識だと考えます。--Aphaia 2007年6月25日 (月) 09:37 (UTC)[返信]

Aphaia氏には方針の要熟読が必要なようだ(この種の指摘を行うのは何度目になるか枚挙に暇がなさすぎてもはや覚えていないが、一応改めて指摘させていただく)。
管理者については、たとえばWikipedia:管理者#一般の参加者とどう違うのかにおいては「プロジェクトの運営についても、それほど特別な存在ではありません。ウィキペディアがどうあるべきか、どんなポリシーが採用されるべきか、などについても、一般の参加者の人の意見よりも管理者の意見の方が重要だということはありません」と記述されており、間違っても「管理者は自分の善意に従えばルールの逸脱が許される」などとは書かれていない。むしろ「管理者となったら、管理者特有の機能の使用には細心の注意を払う必要があります。」とあるように、管理者の権利行使には首に鎖をつけるような方針の記述すら存在する。投票において有権者の75%以上の信任が基準となっていることからしても、コミュニティの合意を背景に管理者は管理権限を行使できると解されるべきであろう。wikipediaの論議は合意によって形成される。少なくともwikipediaは上意下達の組織ではないのだ(もちろん民主主義の実験場ではない)。
貴方(Aphaia氏)はwikimedia系各プロジェクトで管理者という地位にあり(wikipediaでは反対多数で信任されなかったそうだが)、選挙関連文書の編集権を(現状では極めて不透明な理由によって)掌握していると主張しているような立場でありながら方針文書を解していないとしか思えない言動が露見している現在、貴方の存在がこのwikipediaに著しい悪影響を与えているといわざるを得ない。現状が改善されないのであれば私は貴方をwikipediaから追放するためにありとあらゆる手段を行使したいと考えている。GcG / avatar of femtowaros 2007年6月25日 (月) 11:34 (UTC) GcG / avatar of femtowarosさんが量子力学のド素人ことryonさんのコメントを上書きしてしまったようですので復旧しました。--Cave cattum 2007年6月25日 (月) 11:41 (UTC) ミスによってお手間をとらせてしまったことについてCave cattum氏にお詫びいたします。GcG / avatar of femtowaros 2007年6月25日 (月) 11:43 (UTC)[返信]
大筋ではGcG様に同意。と言うか、Aphaia氏はご自分の問題をほったらかしにしてここに出てきて、しかも相変わらずというか、何を仰りたいのか解りづらいコメントですね。本件におけるMiya様の行動は、明らかにコミュニティの合意を前提としつつ行われたものではありませんね。また、保護を解除してすぐさま編集という行動は、善意にもとづくものであると言い切れず、むしろ、自分がサラ・ブライトマンという項目を編集したくて保護を解除したと取れるものです -- 少なくとも、私はそのように取りました。そうでないとしても、Wikipedia:善意にとるという方針文書には、「善意の行動であれば何をやってもいい」とは書いてないのですが。
それからもう一言。いい加減、下らないかばい合いはやめたらどうですか。ハッキリ言ってうんざりです。Yassie 2007年6月25日 (月) 11:46 (UTC)[返信]
ぼくが幻を見ている可能性と同じ程度、あるいはそれ以上に、Aphaiaさんが幻を見ている可能性というのがあるように思います。--Nekosuki600 2007年6月25日 (月) 14:10 (UTC)[返信]
Aphaia氏は、「コミュニティの合意を前提としつつ」と仰ってる以上、合意を反故にしているかのように言って非難するのは見当違いかと思います。また、その辺りの議論は、本件の議論を直接左右しない横道の議論であろうと思われるので、そこに反論することで「下らないかばい合い」と称するのも見当違いでしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月26日 (火) 09:21 (UTC)[返信]

(コメント)二件に分けられたコメント依頼は分離が困難であると思います。何故なら、保護解除の妥当性は、そのまま、それに対するブロックの妥当性の理由の一つとなるからです。本件の論点をまとめます。

  • 保護解除依頼等の手続きを経ない保護解除は管理者権限の濫用か?
  • 保護解除直後に自ら記事を編集するのは管理者権限の濫用か?
  • そうした行為への対処として即時ブロックが必要か?

保護解除の妥当性の論点は最初の二つのみで、ブロックの妥当性の論点は三つ全てとなり、両者の論点には重複があります。このページの論点に限って言えば、既に次のような指摘が為されています。

  • 保護解除依頼等の手続きを経ない保護解除は管理者権限の濫用か?
    • 「保護解除の方針が[2007年3月12日 (月) 08:37の版]でcopyeditの名で改変されたことに原因の一端があります。つまり、もともと管理者に裁量を認めていたものが、提案ぬきにリクエストを通じる場合のみに変更されたため、異なる理解が生じたということです。」とする指摘[1]
  • 保護解除直後に自ら記事を編集するのは管理者権限の濫用か?
    • 「Wikipediaには『編集解除後に編集解除を行った管理者が編集を行ってはならない』という明文化されたルールは存在しません」とする指摘[2]
    • 「編集したくて解除するのは何かまずいのでしょうか? その逆、つまり編集合戦になっている項目について自分が編集したあと保護するのがよろしくないというのは明らかですが。」とする指摘[3][4]にも同様の指摘あり)
    • これは「一連の保護解除の1つ」であり「体裁の調整を除けば、あからさまに怪しげな記述をコメントアウトしているだけ」で「保護されっぱなしの記事を保護解除して、ついでに編集した」のではないかとする見解[5]

これらに対して反論をせずに、同じことを繰り返し言うのでは、単なる強弁に過ぎません。それでは「決定はコミュニティが合議で行い」というやり方には遠く及ばず、ただ、自らの意見を他者に押しつけようとしているだけです。見当違いな主張なら無視するのも当然ですが、既に挙げられたこれらの指摘は本当に見当違いな主張なのでしょうか。一応の道理に通った意見であるなら、それに対して正面から議論を挑んでこそ、「決定はコミュニティが合議で行い」という姿勢ではないでしょうか。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月25日 (月) 10:01 (UTC)[返信]

簡単にレスポンスしておきます。
2つの事例が「密接にかかわりを持つ」ことについては、同意します。しかしわたしは、この2つの話題をいっしょくたに扱うことには強く異議を唱えようと思います。それは、フェイズが異なり、並行して扱える話題ではないからです。
2つ目の、ちゃたま氏によるMiya氏のブロックが、Miya氏の行動が容認し得るかどうかという判断によって評価が異なるという考え方はあるでしょう(おれは、それには全面的には同意しませんが。詳細後述)。しかしながらその場合、「先にMiya氏の保護解除について論じ、その後ちゃたま氏のブロックについて論じる」という流れにならざるを得ません。この立場から検討するならば、この話題は「並行して扱える話題」とはなり得ず、カスケードな連続話題ということになるでしょう。
おれは、ちゃたま氏のMiya氏に対するブロックについての審議は、「管理者による、他管理者のブロックをどう評価するか」という大枠の中の一例にすぎないと思っています。シスオペヴァンダルに対する管理者内の自浄機能をわれわれユーザはどの程度期待していいのか(あるいは期待してはいけないのか)についての考察が、先行すべきでしょう。まずその話をかたづけて、それから「今回のMiya氏の行動がシスオペヴァンダルであったのか」についての審議結果を合流させるという手順で論じれば十分であろうと思うわけです。
このあたり、けっこう細かく問題のフェイズは分かれています。個別具体的な目の前の事例のみに目を奪われ、2つの話題を並行して論じたら、話がぐだぐだになるのは目に見えている。つまり、同一ページに2つの話題を並べておいたらぐだぐだになるのは決定的だ。ゆえにおれは、この2つの話題は別ページにして論じることを、強く要請したのです。
なお、あなたが箇条書きにした論点については、すでにいくつか意見がついておりますし、誰も「反論せずに同じことを繰り返す」といった強弁をしているようには見えません。審議は、まだ各自の問題意識の表明段階ではありますが、着実に進展しているように思います(この先も進展するのか、それともぐだぐだになるのか、それはわかりませんが)。--Nekosuki600 2007年6月25日 (月) 18:27 (UTC)[返信]
(コメント)保護解除の妥当性とブロックの妥当性を並行して扱う必要は全くありません。むしろ、この場合は、保護解除の妥当性がブロックの妥当性の根拠の一つとなり、その逆の関係が成立しないので、先に保護解除の妥当性を論じるのが妥当でしょう。よって、Wikipedia:コメント依頼/ちゃたま_20070624を設けて、別議論とすることが妥当とは思えません。保護解除の妥当性について決着をつけてからブロックの妥当性を論じるべきで、それは、このページでも十分にできることです。
「シスオペヴァンダルに対する管理者内の自浄機能」(以下、『自浄機能論』)は一般論であって、特定個人を対象にしたコメント依頼で論じる話題でないと思われます。当然、Wikipediaの運営上重要なことなので、それはそれで議論すべきことでしょうが、論じる場所が適切ではないでしょう。もし、「今回のMiya氏の行動がシスオペヴァンダルであったのか」(以下、『罪状』)が否定されれば、本件は「管理者内の自浄機能」を疑う事例と成り得ません。『自浄機能論』がどのような結論になろうとも、『罪状』が否定されれば、結論は無罪に変わりません。つまり、『罪状』が否定されるならば、本件に限っては、『自浄機能論』は結論を全く左右しない横道の議論に過ぎません。言い替えれば、『罪状』が肯定された場合のみに『自浄機能論』が必要となるのであって、本件の議論の順番としては、先に『罪状』を論じるのが無駄のない効率的な議論です。
箇条書き部分について、「すでにいくつか意見がついております」と言われるような事実は確認できません。前者については、「提案ぬきに〜変更」された改変版にも従わなければならないとか、適正な手順を踏んだ改変である旨の反論は一切ありません。後者についても、「明文化されたルール」の存在は示されていませんし、保護解除後の編集の問題点も指摘されていませんし、「一連の保護解除の1つ」であることも否定されていません。いずれも、『罪状』を否定する側の意見しかなく、『罪状』を肯定する意見は一切出されていません。そして、これらは、Nekosuki600氏の2007年6月24日 (日) 16:13 (UTC)の意見より前に出された意見であり、Nekosuki600氏も既に見ているはずです。にもかかわらず、これらに反論せずに従来の見解を繰り返すだけなら、強弁と見られても仕方がないでしょう。それでは、「着実に進展している」とは言えないのではないでしょうか。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月26日 (火) 09:15 (UTC)[返信]
「明文化されたルール」に書いてないことでも、当然守られるべきことというのはあるんだと思いますね。公序良俗とか条理とか、現世の法律でも書いてないことはやっていいとはなっていないわけで、それはここでも同じです。そう思えない人は、たぶん遅かれ早かれウィキペディアから放逐されるでしょう、とAphaiaさんが前に言ってました[6]。--Cave cattum 2007年6月26日 (火) 10:21 (UTC)[返信]
ええっと、私の意見を半分で切らないでいただきたいのですが。再掲。
「まずそもそも、Wikipediaには「編集解除後に編集解除を行った管理者が編集を行ってはならない」という明文化されたルールは存在しません。道義的にも、編集合戦の一方に加担しているとか、便乗的に自説を強要しようとしているとか、そんなことでもなければ、問題にならないと思います」
「明文化されたルールが存在しない」のであれば、次の問題は、「道義的に問題かどうか」ということになります。既に他の方も指摘している通り、私には到底問題になる編集内容であるとは思えませんでした、と私は申上げているわけです。あの程度の編集、誰がどんな場面で行っても、問題となるとは思えないのですが。ゆう(matunami) 2007年6月26日 (火) 11:33 (UTC)[返信]
(1)
もともとのこのコメント依頼には、最初から2項目に関する節が設けられていました。そこでおれは、この2件はカスケードなもので、平行して別々に論じることは無理であると指摘し、2つめの節を削除し、コメント依頼提出者に再考を求めました。その結果として、2つめの節が別のコメント依頼として提出されたました。
個人的にはそれはあまり良い方法ではなかったと考えています。まあ、あんまし同一利用者に続けざまに文句を言うのもナンですから、ひかえておりますが。同ページでやるにせよ、別ページでやるにせよ、それらはカスケードなものですから、ひとつの話題を片付けて次に行くという手順にすべきでしょう。なお、それを「同一ページで行うべきか、別ページで行うべきか」は、どちらでも同じ(おれは対象者および行為内容が異なるので、別ページで行うべきであると考えますが)。ただし、あたかも平行して議論が行い得るものででもあるかのように同一ページに最初から節を並べておくというのは良くないという点については、見解を維持します。また、「同一ページでも議論が可能なはずであり、だから同一ページでやるべきだ」というご意見については、別ページで行うことも可能であるという指摘をするだけで反論は終了であり、そんなところで自説を主張されてもちょっと対応いたしかねます。
(2)
シスオペヴァンダルに関する自浄機能については、一般論として扱うことも可能な話題だとは思いますが、個別事例から展開してもぜんぜんかまわない話題であると考えます。というか、具体的な手がかりとなるケースがないままに一般論で語ってもほとんど意味のある対話は成り立たないのではないでしょうか。
(3)
すでに Cave cattum氏が述べていますが、「書かれていないことはやってもいい」ということにはなりません。というか、極めて具体的な禁止内容に抵触しなければOKとすると、具体的な禁止内容を記した規定が読み切れないほどに並び、しかもなにかというと穴がみつかって追加されるというようなくだらない状況に陥るだけでしょう。また、すでに関係する言及はかなりあるように思いますが、はっきりと「こことここが関係している」と言わなければならないんだとするとしんどいなあと思います。
本件に関しては、「管理者は、自分が問題提起した事案・審議に加わった事案については、管理機能を使わない」という慣習(なのか?)あたりが参考になるかもしれません。ある管理者(Mさんとします)が、とある保護されている記事を編集したいと考えたとします。その場合に、保護解除を提起し、審議を行ったとしたら、別管理者によって保護は解除され、それからMさんは編集ができるようになります。この手順ですと「決定の透明性」「独断の排除」などが保証されることになります。保護解除提起を行わず裁量解除を行って編集を行うとなりますと、「決定の透明性」「独断の排除」のいずれもが保証されません。で、かいつまんで言うと、「なんで、保護解除依頼を出し、審議をし、合意を得て保護解除を行い、それから編集する、という手順ではだめなのか」と、おれはすでに述べております(2007年6月24日 (日) 16:13 (UTC)に記述したものと内容に違いはありません)。
これは、「保護解除直後に自ら記事を編集するのは管理者権限の濫用か?」に並べられた3つの意見のうち上の2つに対する反論です(下の1つは想像だけですから、反論する必要があると思いませんでした)。また、「保護解除依頼等の手続きを経ない保護解除は管理者権限の濫用か?」については、そもそも争点になっていないように思います。--Nekosuki600 2007年6月26日 (火) 12:14 (UTC)[返信]
いくつかの論点がセットになってしまっているので余り明確に取り上げられてはいませんが、大方の見方が一致しているのかというと疑問がありますね。 -- NiKe 2007年6月27日 (水) 02:05 (UTC)[返信]
本件については、いかなる意味でも「大方の見方が一致した」と言いうる合意点があるような気がしません。おれへのコメントのように思われるのですが、おれも「大方の見方が一致した」という合意点をベースに何かを語った記憶はありませんし、そのように受け取られる部分があるとしたら、おれの表現力不足をお詫びすると同時にあなたの誤読であるということを指摘しておきます。--Nekosuki600 2007年6月27日 (水) 15:49 (UTC)[返信]
Nekosuki氏の論旨とほぼ同意見。管理者権限を発動する環境と、執筆者編集者利用者として参加する環境には、一定の区切り、自主的な区切りをしてほしいと思う。ルールにないから問題ないとか言う人が散見するが、「編集したい」→「保護されているが自分は特権行使して解除して編集しよう」とみなされるショートカットを裁量でやらないでほしい。
今回の事をまったく問題ないとしてしまうのであれば、「では、楽天証券保護も様子見ということでいっちょ裁量で解除してよ、なんでダメなの?」という同一レイヤーで議論できる問題についても真向から対処していただきたいと思います。
ただその後のMiya氏の即時ブロック、ブロック解除、ブロック解除した管理者のブロック依頼というのは、ブロックという仕組の濫用であり、安易にどんぱち始めたら収集がつかなくなるという良いサンプルだと思った。安易に保護、ブロックを発動解除する管理者をその被害当事者として引き入れるという観点から観れば自業自得で、お灸を据えるという意味合いを持たせたいという姿勢には共感します。--60.56.34.77 2007年6月27日 (水) 03:49 (UTC)[返信]
楽天証券の保護解除について論じている人は誰もいないし、問題ユーザに対して管理者が即時ブロックを行うことについてもここで異を唱えている人はいません。無関係な話題を絡めても意味が無い。ついでに言えば、「楽天証券」は『様子見で保護解除』というわけにはいかんでしょう。 -- NiKe 2007年6月27日 (水) 06:50 (UTC)[返信]
一般論込みで一言 言いたいです。原則として、「保護解除と同時編集」は以後絶対にやめてもらいたい。「シスオペヴァンダル」という言葉は、この件を機に 銘記 していい言葉だと思います。「デュープロセスという考え方」を強く支持します。「Wikipedia:管理者#一般の参加者とどう違うのか」を私は強く支持しますが、話し合いの結果それはなしね、ということになるのであれば、それに従います。日本語版Wikipedia に関わる人は それを選んだ、ということですからね。Uryah 2007年6月27日 (水) 12:32 (UTC) リンク先修正Uryah 2007年6月27日 (水) 12:48 (UTC)[返信]

整理、というか

編集

Miyaさんの編集についてですが、Nekosuki600さんが御指摘のように、「問題」と捉えられている部分に、多少食い違いがあるように感じました。

  • 自分で保護解除の後に編集じゃそう取られても仕方ないでしょう。 [ちゃたま(会話|投稿記録) 2007年6月22日 (金) 10:59 (UTC) ]
  • どうみても、編集したくて解除したように見えたのですが・・・。 [ちゃたま(会話|投稿記録) 2007年6月22日 (金) 11:15 (UTC)]
  • 管理者が「様子を見て解除しただけ(で本人はその後編集などを行っていない)」のならば、おそらく管理者権限での解除はOKだろうと思います。しかし、自ら様子見解除をした上ですぐに自分で編集をするというのは、やはり管理者権限の濫用と言わざるを得ないのではないでしょうか。 [Nekosuki600 2007年6月22日 (金) 12:29 (UTC)]

といった、ちゃたまさんの会話ページの書き込みからは、恣意的とまでは言わないにしても、編集を前提とした解除であることを問題としているように読み取れます。

ちゃたまさんがMiyaさんの会話ページで、ブロック理由として挙げているサラ・ブライトマンの編集では、保護解除後に編集があり、編集自体は、整形とコメントアウトで出典を求めるものですが、要約欄にはその旨が書かれておらず、見方によっては、編集を前提とした保護解除と受け取る余地はありそうですし、編集を前提とした保護解除であれば、管理者権限の濫用という見方は成立すると思います。

他方、猫森日記やKinoriさんの説明などでは、保護解除の方針の2007年3月12日 (月) 08:37の版での改変と、その解釈によって、解除依頼を経ない保護解除が権限の濫用と受け取られる可能性が取り上げられています。Miyaさんは、「「濫用」と言われても仕方ない」と書いています。

で、「独断で保護を解除し、編集する」という前提が成り立つならば明らかに権限の濫用ですが、編集のための解除かどうかについては、SysopMLへのMiyaさんの投稿で、恣意的に「自分が編集したかったから解除」したわけではないことを確認しました。また、保護解除の方針よりもむしろ「編集のための解除」と受け取られていることは指摘し、御理解いただいていると思います。編集自体は、特に個人的な意見を押し出すものではなく、量的にも僅かなもので、本人の意図がないことを踏まえて、なお恣意性の感じられる編集とはいえないと思います。たとえばシェンムーの要約欄に「保護タグ取る。執筆者の個人的な感想/評論をコメントアウト(再掲希望なら出展を)」と書いてあったように、サラ・ブライトマンの要約欄に「整形、テーマ曲の扱いについてコメントアウトで指摘」とでも書いてあれば、サラ・ブライトマンも問題にはならなかったように思いますが、いかがでしょう。

保護解除の方針の改変については、これを問題として指摘する意見は見当たらず、現在は改変前の記述に差し戻されています。

どうも、権限の濫用が指す内容が、微妙にすれ違っていたことが、話をややこしくさせていたような印象を受けたのですが、これで、多少整理されることを期待します。基本的には、単純な記載漏れによって、「独断で保護を解除し、編集する」という風に見えるような事態を招いた、ということではないかと思います。Kinoriさんのブロック依頼のノートにも書きましたが、

  • 疲れ気味だったので「少し休んでください」には納得していること、ウィキブレイクは続行するつもりだということ
  • 恣意的に「自分が編集したかったから解除」したわけではないこと

とMiyaさんはをSysopMLで表明されていますし、再ブロックなどの必要性はないと考えます。コメント依頼の継続を妨げるつもりはないですが、「独断で保護を解除し、編集した」を前提とするのではなく、本人の否定を踏まえてなお「独断で保護を解除し、編集した」と判断できるかどうかについて、または「~したと思われる振る舞いをした」ということについての意見を求めるものとなるかと考えます。あるいは、Uryahさんが提起していらっしゃいますが、解除時の編集そのものをどうするか、という議論が必要かもしれません。これについては、場所を変えたほうがいいのかも、です。(MiyaさんのSysopMLへの投稿と内容の一部をここで明らかにすることについては了承をいただいています)--Ks aka 98 2007年6月27日 (水) 20:01 (UTC)[返信]

私なりの理解ではこういうことかと。
  • 保護された項目に対して解除依頼が出ていてこれに応えた解除、その後の項目編集であれば問題ない。
  • 様子見の保護解除自体はあっていい。
  • しかし、解除依頼がなく、かつ解除に連続した項目編集は、「当該管理者が項目を編集したくなったから保護解除の権限を行使した」と見られても仕方がない。
3点目について補足すると、miyaさんに項目に対する思い入れがあった場合は、まさに恣意的な保護解除ですし、仮にそうでない場合でも、あらぬ疑いを持たれる行為だということです。
ところで、なぜmiyaさんが即時ブロックされたかですが、これには今回のブロックに至る伏線があったと私は見ています。それは、最近miyaさんがAphaiaさんの会話ページを編集合戦を理由に保護(同時にAphaiaさんに苦言を呈していた利用者を「荒らし」扱い)した件です。これについては、miyaさんの謝罪がすでにありますが、私はmiyaさんが管理者権限を私的かつ感情的に行使したかもしれないという印象を受けました。この点、ちゃたまさんの判断は、私と同様な印象を持つ方がほかにも存在する可能性を示唆しているのではないかと思います。
miyaさんの真情がどうであったかはご本人にしかわからないことで、証明もできません。むしろ、こういう問題はWikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/KinoriHatukanezumiさんもコメントしておられるとおり、他者にどう映るかで判断されます。私としては、管理者はこのことを常に認識して行動してもらいたいし、仮にも個人的な思い入れがある事柄について管理者権限を使ってほしくありません。miyaさんには日常的に親切に接していただいており、感謝していますが、今回あえて苦言を申し上げます。3度目がないことを願っています。--みっち 2007年6月28日 (木) 00:33 (UTC)[返信]
整理どうも。
えー、細かくフォローしているネタではなかったので個々の事例について詳細に調査はしていないんですが、「ユーザが管理者に個人的に管理行為の依頼をする」「依頼された管理者がその通りに動く」といったケースもあり、裁量範囲を逸脱した管理行為という事例が続いているような気がするんですよね。まあなんだ、依頼された管理者が唯々諾々と言われたとおりにするとは限らず、中には管理者が個人的に依頼された管理行為について代理で審議を提出するなんていうケースもありましたが(しかし、後述しますが、それも手続きが違うだろうと思うわけです)。
まあ、3RRなどのようなわかりやすいケースについては、「どこその項目で問題が生じた」ということを管理者に伝え、管理者が裁量で動くということがあってもいいかもしれません。しかし基本的には、管理権限の発動を求める場合には、各種審議や管理者への伝言板などを使って管理権限の発動を依頼するべきでしょう。また、依頼された管理者もまた、正規のルートを通っていない管理依頼は拒否すべきだろうと、おれは思っています。個人的な依頼があった場合には、依頼者に対して「自分で依頼を出せ」と言ってつっぱねるのが筋。そうしないと、管理についての透明性が維持できなくなります。
今回のケースは、更にそういうのがエスカレートしたようなものに見えるわけです。「裁量の範囲内」として「保護解除→すぐ編集」というのを認めたら、も、管理権限の使用についての透明性の確保なんかできるわけがないし、歯止めもなくなってしまうのではないだろうか。それは、ものすごくまずいことだと思うんですね。
まあなんだ。管理者本人や、個人的に仲が良い管理者を確保しているユーザにとっては、手順の遵守を求められたら、「依頼を出す」という手間が増えることになります。しかしその手間は、ユーザならば当然に引き受けるべきものなのですし、おれとしてはそれほどむずかしい要求をしているとは思わないのですなあ。その手間を省いての管理権限の発動は、無条件で「管理権限の濫用」と言ってしまっていいのではないだろうか。そのくらいの基準で考えないと、こういうアバウトな制度における公平な運用なんて無理じゃねーかとか思うわけですよ。そういうわけで、おれは今回のMiya氏の行動は管理権限の濫用といわざるを得ないケースだと思いました。
念のために繰り返しておきますが、こういう管理権限の濫用を避けるためには、むずかしいことをやる必要はありません。ただ淡々と、所定の手続きを着実に踏むようにすればいいだけなのです。--Nekosuki600 2007年6月28日 (木) 10:46 (UTC)[返信]
(以上の発言を、「Nekosuki600氏コメント20070628」と呼びます。--Maris stella 2007年7月4日 (水) 11:11 (UTC)[返信]
整理どころか論点を混同させているだけに思われます。「編集を前提とした解除」の是非については、「保護解除直後に自ら記事を編集するのは管理者権限の濫用か?」で既に論点として採用しています。そして、「編集を前提とした解除」の何が問題かについて疑問が投げかけられているのに、その答えは一切出てきていません。それについては明文化されてルールがないことは合意済みですし、Wikipediaの基本ルールに照らし合わせても禁止すべき理由がないことは既に指摘済み[7]です。問題のない行為の有無を論じることは脱線も甚だしいです。行為の有無を論じるのであれば、まず、その行為に問題があることを示すべきでしょう。以上、まとめます。
  • 整理すべきことは、その行為の問題点である
  • 行為の問題点を明確にせずに行為の有無を論じるのは論点の混同である
本題として議論すべきことを議論せず、脱線した議論を延々と続けるのは、整理とは正反対の行為です。
猫森日記で書かれているのは、保護解除の方針の2007年3月12日 (月) 08:37の版での改変が有効だと仮定した場合の話であって、「でも、この『copyedit』は有効なの?」と有効性に疑問を投げかけているのだから、それが無効な場合にまで「『濫用』と言われても仕方ない」とまでは仰っていません。
保護解除が恣意的なコントロールに利用できないことや独断での保護解除もウィキペディアの基本精神に合致すること、罪刑法定主義の重要性は既に述べてあります[8]。前[9][10]にも言ったとおり、既に出された反論に再反論せず、同じことを繰り返し言うのは、「決定はコミュニティが合議で行い」に反する強弁に過ぎません。どうして、既に出された意見を綺麗サッパリ無視するのでしょうか。もしかして「お前のような馬鹿を一々相手にしてられるか」と仰りたいのでしょうか。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月28日 (木) 11:25 (UTC)[返信]
補足しておくと、「編集を前提とした解除」の何が問題かが明確にならないのでは、Nekosuki600氏の主張は全て個人的希望に基づく「こうあるべき」論でしかありません。「なんで、保護解除依頼を出し、審議をし、合意を得て保護解除を行い、それから編集する、という手順ではだめなのか」[11]は、正に、その典型的事例でしょう。違う手順で駄目な理由が明確になっているのであれば、「その手順に従わないことがけしからん」と言えるでしょう。しかし、理由が明確でないならば、「けしからん」とは言えず、「従ってほしい」というNekosuki600氏個人の希望でしかありません。強制力を持たせる理由のない個人的希望に従わないことを糾弾するなら、それは「決定はコミュニティが合議で行い」とする姿勢とは相容れません。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月28日 (木) 11:39 (UTC) //(強調が濫用されており、可読性を損ねるので解除しました。--Maris stella 2007年7月4日 (水) 11:11 (UTC)[返信]
もう一つ補足。編集を目的として保護解除したか、あるいは、保護解除のついでに編集したかの違いについては、本人のみが知りうることであり、第三者は憶測でしか物が言えません。証明できないことにルールを決めるのはナンセンスであり、ルールを論じるなら「保護解除後の解除者自身による編集の是非」を論じるべきです。(行為内容ではなく目的を問うのは、思想制限ではないのかとも思います。)--量子力学のド素人ことryon 2007年6月28日 (木) 12:09 (UTC)[返信]
Wikipediaにおける合意形成はラフ・コンセンサスでよく、最後のひとりまで説得することは求められていません。すでに説明済みの論点についてあなたが納得していないからといって、繰り返し説明を求められても、同じことしか言えないんですねえ。どうも申し訳ないね。また「そのものずばりの明文規定がない」ということが「それは禁じられていない」にはならないということは、おれ以外のひとからも出ている反論ですし、そこで更に「そのものずばりの明文規定がない」ということを論拠にするのは、それこそ単なる強弁ではないだろうかと愚考する次第です。
今後の議論展開を見て、他のひとの意見なども眺めて、その上で必要であると判断するまで、申しわけないのですがこのまま放置させてもらいます。--Nekosuki600 2007年6月28日 (木) 12:31 (UTC)[返信]
ある行為に問題があったかなかったか、明文規定がない場合は、問題に即してコミュニティが判断するというのがウィキペディアでの原則です(ウィキペディアに限らず、人間の社会は、明文法規定がなくとも「良識」で判断するという基準があります)。Miya 氏の行為に「問題がなかった」というのは、何も自明のことではないのです。明文規定がなければ、何をしても問題行動ではないと言えるのか、これについては、多数の人が否定しています。モラルや倫理やシスオペとしての良識が必要とされるという点で、概ね一致しているはずです。にも拘わらず、自分が同意できないという理由で、「論理的におかしい」と幾度も執拗に個人の見解を強弁されるのはどうかと思います。--Maris stella 2007年6月28日 (木) 13:23 (UTC)[返信]
  • 整理すべきことは、その行為の問題点である
答え)管理者は一般ユーザーと異なり、権限(コマンド)を持つため、コマンドの行使等に関しては、より慎重さや分別や、高い倫理が求められる。コミュニティの信任を受けて授与されている権限であるならば、信任を裏切ることは問題である。そして、本人がどう考えていたよりは、他から見て「どう見えるか」が問題で、今回の Miya 氏の行為は、他から見て、問題があると判断される。ただ、これだけの非常に明白なことです。上で、みっち氏も同じことを述べています。--Maris stella
  • 行為の問題点を明確にせずに行為の有無を論じるのは論点の混同である
答え)論点を把握していないのは、Wiki ryon 氏です。--Maris stella
本題として議論すべきことを議論せず、脱線した議論を延々と続けるのは、整理とは正反対の行為です。
本題と関係のない、すでに明らかとなった論点を延々と繰り返しているのは、Wiki ryon 氏ではないのですか。(なお、「有罪」とか「無罪」とか何か犯罪を裁いているかのような話をしていますが、ウィキペディアには有罪とか無罪とかはありません。百科事典を造るというのが「大目的」の前提としてあり、これに即しているかどうかで判断されます。いかなる善意の人でも、この目的の妨害になる場合は、「有罪」とかではなく、「お引き取り願う」しかないのです。管理者も同様で、目的から逸脱する結果をもたらすような行動は、その意図に関係せず、管理者としてのアカウンタビラティを問われるというだけの話です。何か、根本的なところで勘違いされている気がします)。--Maris stella 2007年6月28日 (木) 13:23 (UTC)[返信]

裁量の問題

編集
(以下のコメントは、上の「Nekosuki600氏コメント20070628」に対するコメントです。節を造ります)
Miyaさんがどういうつもりであったかと関係なく、これ自体は疑いを持たれるような行為ではなかったと思います。事前にMiyaさんに対してネガティブな印象を持っているかどうかで判断が変わっているんじゃないでしょうか。 -- NiKe 2007年6月28日 (木) 13:34 (UTC)[返信]
第一点。主観主義で組織を組み立てるなんて無理なので、「どういうつもりであったかとは関係なく」というのはその通りだと思います。どういうつもりであったかという弁明がなされたとしても、そういう弁明がなされたということは事実ですが、その内容が真実であるかどうかはわかりませんし。
第二点。「疑いを持たれる行為」の位置づけが、おれとNiKeさんとでは違うのだろうなあと思いました。NiKeさんのいう「疑いを持たれる行為」って、たぶん(刑事責任のように)悪意ないし害意がある行為のことだろうと思うんですよ。おれは、もうちょい広くて、(民事責任のように)不適切で思慮に欠ける行為も含んでいいと思うんです。そして、そのあたりで、古参管理者の方々の中にはかなり甘い感覚があるのではないか、とも思っています。
第三点。おれは別段、Miyaさんに対してネガティヴな印象は持っていないですね。向き不向きをちゃんと考えて行動してくれ、と思うことは多々ありますが、それは他管理者についてもかなりのところまで同じことが言えます。でだ。予断に基づいてその後の判断が変わってくる話であるという理解には、強く抗議させていただきます。まあ、あなたがそういう印象を持つ自由はあるにせよ、だ。これまでの議論を読んでいないのか?
--Nekosuki600 2007年6月28日 (木) 13:59 (UTC)[返信]
--Nekosuki600 2007年6月28日 (木) 17:45 (UTC)(まだレスがついていなかったのでかなり加筆)[返信]
NiKeさんのコメントへの意見は、依頼趣旨から拡散するのを避けたいのでノートにコメントしました。--みっち 2007年6月29日 (金) 01:54 (UTC)[返信]
あー、なるほどなるほど。解除と編集を連続させること自体を問題とする、という視点は、整理の時は抜けてました。混乱を招いてたらすみません。編集が、明らかに問題のないstyleだけでも不可とするかどうか、は、現状統一した見解はないっぽいので、「今回のMiyaさんの編集」については、上の考えは変わらない。基本的には、内容に関わる編集は不可、直後の編集がごく単純なもので、要約欄の記載などでそれを示しているならいいんじゃないか、と、個人的には思います。シェンムーならセーフ、という感じ。その判断ができるかどうかは、信任の際にコミュニティが判断する。単純なStyleを越える編集だったことに気付いたら、権限濫用ではなくて、単に不適切な編集と扱ってrev。意図的に内容に関わる編集をしていたら権限濫用とみなされてもしょうがない。管理業務の時に、間違いに気付いたり、スタイルが整えられていない記事に接していると、その場で手を入れられる状況があったほうがいいと思うことはあります。ノートで注記とかでもいいんですけど。他方、内容に関わらないような編集も不可にするということで合意するなら、それはそれでいいんじゃないかとも思います。基準のわかりやすさということもありますが、単純な編集に見えても/そのつもりでも、意外と意味が変わる例は、奇しくも保護解除の方針の改変でも見られるので、そこは慎重にという判断もありかなあ、と。ただ、その辺は、管理者像とか、どこまで信任するか、みたいなところとも絡んでくるので、話は大きくなりそうな気がします。--Ks aka 98 2007年6月28日 (木) 18:39 (UTC)[返信]
ある編集が、「単にスタイルを修正するのみにとどまるもの」であるか「内容にかかわるももの」であるかの区別が、どの程度可能なのかという疑問を、おれは抱くのですよ。くしくもMiyaさんご本人が言及しておられますが、改行を一発入れただけで違う意味に取れるようになるような編集ってあり得るわけだし。そしてそういう編集って、微調整レベルのものだから、目に留まりにくいんです。更に、解釈するひとによって位置づけが異なったりもするな。
なので「通常の手続きに従って合意形成をして、それからメンテしろ」というおれの主張には、それなりの根拠があると思うのです。
「管理業務の時に、間違いに気付いたり、スタイルが整えられていない記事に接していると、その場で手を入れられる状況があったほうがいいと思うことはあります」てのは、とてもよくわかります。おれにしても、なんかの項目を見て、文法的におかしいと思い、手を入れるかどうか迷うことありますしね。でも「編集数を稼ぐために無意味な編集をしやがった」とか思われたらいやだな、なんて思って見送ったりする場合があります。そういうのに近い感じなんじゃないかなあ。
なお、おれは、個々の管理者をどの程度信頼するかみたいな話にはしたくないなあと思っています。おれはまあ、それなりに管理者にせよ編集者にせよランクづけをしていますけど、そのランクづけが他の編集者と一致するなんてことはあり得ないと思っていますし。そういう多様な観点が左右してしまうような状況を招かないことって、それなりに大事なことなんじゃないかなあと思うんです。--Nekosuki600 2007年6月28日 (木) 19:04 (UTC)[返信]
横から失礼します。Nekosuki600さんのこの部分ですが「::第二点。「疑いを持たれる行為」の位置づけが、おれとNiKeさんとでは違うのだろうなあと思いました。NiKeさんのいう「疑いを持たれる行為」って、たぶん(刑事責任のように)悪意ないし害意がある行為のことだろうと思うんですよ。おれは、もうちょい広くて、(民事責任のように)不適切で思慮に欠ける行為も含んでいいと思うんです。そして、そのあたりで、古参管理者の方々の中にはかなり甘い感覚があるのではないか、とも思っています。」
所詮ボランティアでしかないwikipediaの管理者の方にここまで責任を問うのは無理がありませんか?そうでなくても慢性的な管理者不足に悩んでいるプロジェクトなんですし、こんな基準を持ち出したら管理者の方をみな疲弊させるだけだと思うんですが。対価と責任のバランスが著しく崩れていると考えます。
(なお、自分は個人的には今回のMiyaさんの行為は、「李下に冠を正す」行為だったと思いますが、管理権限行使の話ですので、まずは管理者同士での意見調整にゆだねる話だと思いました。)--Kazuto-kun 2007年6月29日 (金) 02:25 (UTC)[返信]
おれの感覚では、どちらかというと「管理者の負担を増やす方向に話を持って言っている」という意識はなくて、「安定して管理者の負担を減らす道を指し示している」つもりなんですよね。
まあ確かに、個々のアクションについては、多少の負担増はあるかもしれません。しかしながら、「これまでは見過ごされてきたことが、見過ごされないケースが増える」ということを考えると、「これまで通りにしていると、見過ごされなかったときに当該管理者の負荷が一気に高まることで、破綻してしまう管理者が増加する可能性がある」と考えざるを得ない。「粛々と手続きを踏んでおいた方が、結果として楽だぜ」という話を、ここらへんでしようと思ってます。個々のアクションについての若干の負担増と、たまたま見過ごされなかったときに特定の管理者の負担が増加してそいつが破綻してしまうことと、どちらを優先して考えるべきだろうか、みたいな計算ですわね。その上で、「なんかあったときに問題視されたら受けて立つぞ」という判断をする管理者がこれまでどおりの行動基準を採用する分には、まあそれはそのひとのリスク管理の問題ですから(ただ、問題だと思ったら、おれは容赦なく追及させていただきますけれども)。
なお、「所詮ボランティアでしかない」というあたりには、別途、強い違和感を抱きました。ヴォランティアだからテキトーでかまわない、なんて話はないと思います。現実問題、そういう意識でやってくるヴォランティア志願者は少なからずおられるのですが、たいていの場合そういうひとは助けになるより新たな仕事を増やしてくださいます。ヴォランティアというのは「労働力を寄付する」みたいなもので、寄付額が小額でもそれはかまわないのだけれども、寄付する労働力の品質が低くても許されるってもんではないです。品質が低い労働力を寄付されても困りますし、その低品質労働の寄付をありがたがれとか言われたら、おれは強く反発しちゃうです。--Nekosuki600 2007年7月2日 (月) 18:02 (UTC)[返信]
「(Wikipediaは)決定はコミュニティが合議で行い、管理者はそれに基づいてシステムの操作をするだけ、というのが原則です。(中略)そこで出てくるのがデュープロセスという考え方だ。わかりやすく言い換えれば「手続きは、遵守されなければならない」という考え方。」
デュープロセスが大切なのは全くその通りだと思いますし、私もそこに反対する立場ではありません。しかし、この場合、当然「ロー」はいったい何なのかというのを、当然前提にしなければならないことだと思います。つまり、miyaさんのしたことは間違いなく「李下に冠を正す行為」ですが、それをやってはいけないという「コミュニティの合意」がどこにあったのかということです。だとしたら、まず、それは今後やってはいけないんだと言う「コミュニティの合意」を詰めることからはじめるべきです。それを無くして「糾弾」されるのは、管理者にとって酷に過ぎるというのが私の立場です(すでに、「コミュニティの合意」があるならそのリンクを明示してください。この部分は撤回させていただきますので)。
「ヴォランティアだからテキトーでかまわない、なんて話はないと思います」全くその通りで、ボランティアでもデュープロセスの理解とそれにのっとった実践は必須だと思います。でも、「ロー」が無い場合はどうするのでしょうか?だから、「過失犯」なんて例えを出しているように思えたのですが。--Kazuto-kun 2007年7月3日 (火) 05:31 (UTC) //(強調が濫用されており、可読性を損ねるので一部解除しました。--Maris stella 2007年7月4日 (水) 11:11 (UTC)[返信]
本題から逸れますが、Kazuto-kun氏の「(Wikipediaは)決定は・・・という考え方。」はどこからの引用ですか? それと「李下に冠を正さず」というのを「コミュニティで合意する」必要があるのでしょうか?--日輪 2007年7月3日 (火) 11:53 (UTC)[返信]
引用部分は、この一連の議論の中のnekosuki600さんの発言です。後半部分は、実行者へのペナルティ見合いです。--Kazuto-kun 2007年7月3日 (火) 13:00 (UTC)[返信]
確認しときたいんですが、おれがこの一連で「法治思想」に基づいて強く主張をしたということはありません。ちょっと戻って読み直していただけると幸いです。故意犯と過失犯の話が出てきたのは、「同じ言葉を使っていてもそれに付与されている意味がかなり異なる場合がある」というたとえ話のなかでのことであり、たとえ話に含まれる全ての要素が当然に元の話にも適用されるなどということはないと思うんですよね(しばしばたとえ話はこういう迷走を生むので、まあ注意は必要であり、おれの注意が不足していたのかもしれませんが)。でだ。
「管理者は、自分がかかわった議論なりなんなりについて管理権限を使わない」という考え方は、とりあえず尊重されているわけです。それがあれば、李下に冠を正さずは当然に導けることであり、それ以上の根拠が必要だとは思いません。その間をつなぐことができるかどうかで、論者ごとの結論が変わってくる場合はあり得るでしょうけれども。
それから、ブロック依頼は処罰ではありませんし、糾弾の手段でもありません。ちゃたま氏によるブロックについても「しばらく休め」という意味あいのものでしたし、少なくともおれに関しては「なぜそういうことをやっちゃまずいのかを理解してもらうべく努力している」つもりです。どこかに糾弾と思われるような部分がありましたら、お詫び申し上げます。--Nekosuki600 2007年7月3日 (火) 13:27 (UTC)[返信]
「おれがこの一連で「法治思想」に基づいて強く主張をしたということはありません。」
法治思想に基づいていなかったら、なぜデュープロセス等と言う話が出てきたのでしょうか?それはさておき、実は、Nekosuki600さんは確かに「「法治思想」に基づいて強く主張してはいない」のですが、肝心要のところは相当に「法治思想」に基づいて主張しているんですよね。でも、これは当然のことと思っております。自分は、これほど大きなコミュニティはある程度の「法治思想」に基づいて運営していかないと成り立たないと考えているので。
「「管理者は、自分がかかわった議論なりなんなりについて管理権限を使わない」という考え方は、とりあえず尊重されているわけです。」
これは、全くその通りです。ところで、今回miyaさんのサラ・ブライトマンについて「自分がかかわった議論」である証跡を明示してくださるとありがたく思います。自分はmiyaさんがサラ・ブライトマンで「自分がかかわった議論」である証跡を発見することが出来ませんでした。
「それから、ブロック依頼は処罰ではありませんし、糾弾の手段でもありません」
全くです。このことをこれからもいついかなる状況になっても、頭の片隅において置くようにお互い耐えていきましょう。人間って、理性よりも感情の方が勝ってしまうことが往々にしてある生き物なので。
最後になりましたが、今回miyaさんが「李を盗んだ」とはとても思えないんです。だとすると、やっぱ「コミュニティの合意」は得たほうが、今後の指針にもなるし、管理権限行使の適切な目安になると考えます。--Kazuto-kun 2007年7月3日 (火) 14:17 (UTC)[返信]
あーのー。サラ・ブライトマンについて事前にMiya氏が関係しているなんてことは誰も言っていないと思うんですが。
これもすでに述べたことですが(と思うんですが)、もしある保護された項目を編集したいとした場合、保護解除提案を出し、審議を行い、解除するという合意が形成されたと考えたら管理者が保護解除を行い、それからようやく編集できる、という手順になるはずですね。その際に「解除する、という合意が形成された」という判断は保護解除提案を出した管理者とは別の者が行わなければなりません。「裁量解除→編集」という流れは、「保護解除提案」「審議」とすっとばしているという問題があるほか、上記流れでいえば「保護解除提案を出した管理者が自ら解除合意の形成を判断した」とも言える状況なわけで、それはそれで手続き上の重大な問題です。
ところで、だ。
李下に冠を正さずというのは、「李を実際に盗んだかどうか」の問題じゃないと思うんですよねえ。「李を盗んだのではないかと思われないように気をつけなさい」という教えでしょう。でだ。おれとしては、とりあえず管理者に対して「いますぐ自分の権限でできることであろうとも、正規の手順を踏むくらいの時間がかけられることについては、正規の手順を踏むべきだ」ということが強く伝えられればそれでいいと思っています。「それがデュープロセスに基づいた正義だから」なんていう納得のしかたをしてもらう必要はありません。ただ「その方が結果としてめんどくさくない」という程度の実利的な納得でかまわないんです。また、今回のケースをふまえて「裁量解除→すぐ編集、てのは認められない」という程度の合意ならば形成できるかもしれませんが、そういう個別具体的な規定を山ほど作ってもあんまり意味があるとは思えないし、かといって包括的合意を求めるとなるといったいどういう構成のどんな合意を求めりゃいいのかがよくわかりません。なんかいい、具体的なアイディアがおありのようでしたら、ぜひお聞かせいただけると幸いです。--Nekosuki600 2007年7月3日 (火) 15:25 (UTC)[返信]
「今回のケースをふまえて「裁量解除→すぐ編集、てのは認められない」という程度の合意ならば形成できるかもしれません」
これこそが意味があります。このためにみんな(特に管理者の方は)色々苦労してたと思うので。
「常識的に見ると、至極当然のことだけど、何でこんなもの必死になってやってるの?」と思うことが、コミュニティが大きくなればなるほど増えるものです。だからこそまずこの合意がありがたいのです。
ところで、まずその合意をルール化へのテーブルに乗せたいのですが、どうやったら出来るか知ってる方情報を私のノートに下さい。--Kazuto-kun 2007年7月3日 (火) 17:10 (UTC)[返信]
どうも。
ここでこういうたとえを出すとまた混乱するかもしれないんですが(=^_^;=)、えーと、その「裁量解除→すぐ編集、てのは認められない」というのは「法令と判例」で言うなら判例レベルのもので、法令レベルのものにはなりにくいと思うんですよ。なんていうか、そのレベルの禁止事項とかをこまごま積み重ねていくと簡単に数百項目くらい出来てしまいそうだし、管理者立候補の際に「その数百項目をちゃんと読みましたか」なんて質疑応答がなされることを想像すると頭が痛くなってくる。
まあ、今回の件を通じて「裁量解除→すぐ編集、てのは認められない」というのは前例になるだろうとは思うのです。しかしそれにしても、解除後にどのくらい時間が空けば裁量解除をした管理者が編集していいかとか、いろいろややこしい話は出てくる可能性があります。「編集する気なんか全然なくて解除したんだが、半年が経過して最初に編集したのが解除した管理者でした」なんてときに、それが原因でモメたらあほらしい(「それはすぐじゃねーだろ」というツッコミはありだけど、じゃあ「すぐってどのくらい?」みたいなモメネタはいくらでも考え付く)。
おれとしては、とりあえず「初期とはもうコミュニティの規模が全然違ってしまっているのだから、管理権限の行使は、透明性の確保などに力点を置いてやってくれ」と管理者に要求するくらいでいいのじゃないかと思う。逸脱があればブロックなり解任なりを個別具体的に検討する、と。もちろん管理権限の濫用があったら他管理者が果敢に裁量ブロックをする、というような管理者間での相互監視・自浄能力にも強く期待をします。
んで、全然事態が改善されないようなら、そのときには次の手を考えるということでもかまわないんじゃなかろうかと思うんですが。おれは「全然事態が改善されないだろう」と思うほどに強い不信感を管理者チームに対して抱いてるわけじゃないので。--Nekosuki600 2007年7月4日 (水) 09:46 (UTC)[返信]
「「裁量解除→すぐ編集、てのは認められない」というのは「法令と判例」で言うなら判例レベルのもの」
全くNekosuki600さんの言うとおりでこれ間違いなく法令でなく判例です。でも、判例はよほどの事由がない限り尊重されます(と言うふうに、日本の社会は動いているようです)。で、日本の中のこれほど大きなインターネットコミュニティと言うものは往々にして「判例」を積み重ねていかないとならないものなんじゃないですか?ついでに法律の中には厳然として「判例法」と言う概念はありますし、日本の司法は相当に「判例法」の概念を受けれいれています。(うまく、「大陸法」と「英米法」の概念を混同させてますよね)
「管理者立候補の際に「その数百項目をちゃんと読みましたか」なんて質疑応答がなされることを想像すると頭が痛くなってくる」
それを言い出すのは、Nekosuki600さん自身なんじゃないですか?確かに、何人か言い出しそうな方はいますが、そんなことを言うやつがいた時に、うまく周りでフォローアップをすればいいだけだと思うんですけど。--Kazuto-kun 2007年7月6日 (金) 15:11 (UTC)[返信]
それを言い出しそうなのはおれじゃありませんよ、何を言っているのですか、と怒ろうと思ったらなんか当惑してテンションがぐーっと下がるような出来事が起きた。
ちとこの編集ここんところを見てみてくれませんか。
何がどう問題であるのかという根底のところが理解できないと、かくのごとく果てしなくローカルなルールを並べるしかなくなっちゃうわけですよ。まあある程度は前例としてそういうものを重ねていくことにも意味はあるかもしれませんが、やっぱおれはそんなことよりは「何がどう問題であるのかを確認すること」が先行すべきだと思う。
もちろん、英米法方式ってのはある。しかし英米法方式というのは、「ぱっと見たときにわかりづらい」という大きな問題を抱えてます。おれは決して英米法方式がよろしくないとは思わないし、判例が重要な役割を占めていることも理解しています。しかしながら、そういう方法が一般人に通用するかというと極めて疑問だと言わざるを得ないのです。それは次のステップでようやく考えることができるものなんじゃないだろうか。--Nekosuki600 2007年7月7日 (土) 10:22 (UTC)[返信]
(インデントを三段にします)管理者が「裁量」で行えることは公式にも多数ある訳で、これが「公式」となったのも最近のことが多いです。例えば、「裁量即時ブロック」、「裁量の保護解除」、これ以外にも、「ブロック依頼のブロック期間」なども以前から管理者の裁量にあるというか、色々な意見を見て、管理者が判断しますが、その判断は管理者の良識に求められています。
裁量即時ブロックが認められていると言っても、期間が一ヶ月などの場合は、「ブロック依頼」で「追認審議」を求めるのが普通です。例えば、裁量即時ブロックでも、どんな場合は何日とか、どういうケースに適用するか、ケースごと、ケースの内容ごとで、一日とか三日とか、一週間とか、そういうことはどこのルールにも載っていないのです。ルールにあるのは、裁量即時ブロックは管理者判断でしてよいというだけです。「期間も裁量」となっていても、常識・良識的におかしなものは、やはり他の管理者またはユーザーから異議が出てくるのが当然想定されます。「裁量保護解除」は認められているからと言って、その行為において、逸脱があると他の管理者、ユーザーの指摘があれば、これは問題になるのが当然で、ルールに規定を作るべきだというのは、「実際的な運用を熟慮した上で」、ルール制定の必要と不備を強調するのはありと思いますが、現実的でない運用困難なルールの要請を主張するのはやはりおかしいのです。
「荒らし」などに対する「裁量即時ブロック」が導入されたのも、ウィキペディアが巨大となり、従来のブロック依頼では、不便であり、柔軟に対応できなくなったからです。管理者として、コマンドはウィキペディアの運営に必要な為に授与されているもので、私的な目的で使用することは禁止されているというのは、きわめて常識的なことです。そんなことはルール以前の話です。そして、本人が意図していなかったとしても、またはうっかりと間違って使用したとしても、この常識的な原則に反する場合、何らかのアカウンタビラティを負うというのは当然のことです。わたしは、Miya 氏に対する即時ブロックが妥当であったかどうか、ということは述べていない訳で、Miya 氏には、私的利用、または私的利用と見えるような使用については、責任が発生するという自覚がほしい訳で、それは他の管理者にも同様のことです。
この点で、平気で Miya 氏へのブロックを解除した Kinori 氏も、当然責任が問われるものです。「馴れ合い」があるという風に見えてくるような行為は慎んで戴きたいということです。また、このような管理者のアカウンタビラティに関する議論について、コマンドを持つ管理者は、「問題がない」というような意見を述べるのは差し控えるというのも、常識の一部ではないかと思います。地方自治体の議会議員が、自分たちの報酬を議会で決めるようなことは不透明だというのと似たような話ではないでしょうか。一般市民に厳しい警察官が、同じ警察官の交通違反は見逃すというようなことは、権限に対する一般の人の信頼を揺るがす問題であり、それと同様のことが言えるのではないかとも思います。--Maris stella 2007年7月4日 (水) 11:11 (UTC)[返信]
アカウンタビリティ(説明責任)の話と即時ブロックは次元の違う話でしょう。巧みに混同させないで下さい。ところで、何故、あえて誰も持ち出していないKinoriさんのブロック解除の責任の話を持ち出してきたんですか?これ持ち出すと、話がぐちゃぐちゃになるんで、この一連の話の中であえて切り出したはずなのですが。--Kazuto-kun 2007年7月6日 (金) 15:11 (UTC)[返信]
このコメント依頼は、Miya 氏が即時ブロックに相応するかどうかのコメント依頼ではなく、Miya 氏のコマンドの使用の妥当性についての意見募集のはずです(つまり、アカウンタビラティの問題なのです。話を混同させているのは貴方の方なのです)。わたしは、ちゃたま氏の裁量ブロックが正しかったともそうでないとも何も述べていません(それは、他方のコメント依頼で論じる内容です)。Miya 氏には、「裁量」によるコマンドの使用には、私的使用は認められないと言う原則をもっと真摯に自覚していて欲しかったということで、Kinori 氏についても、古参ユーザーの「馴れ合い」と映る可能性のあるコマンド使用は、慎重にすべきだと述べているだけです。「責任を問われる」というのは、権限を持つ者はそれに見合って責任が出てくるので、ここで、Kinori 氏は本来ブロックすべきだとかを主張しているのではありません(Kinori 氏にブロック依頼を出したのは、Nekosuki600 氏であって、わたしではありません。それに賛同した覚えもありません)。
管理者でなく一般ユーザーも「編集ができる」という、これも権限が認められているのですが、それを濫用して、荒らしや悪戯を行えば責任が問われ、ブロック依頼などもそのためにあるのではありませんか。管理者がボランティアなら、一般ユーザーもボランティアです。なお、「責任」という言葉は、ウィキペディアの場合、それに対し、罰則があるとか、有罪とかという種類のことではありません。そこを混同しないでください。また、管理者が費やした1時間と、一般ユーザーが費やした1時間のボランティアは、同等なもののはずです(あくまで原則ですが)。--Maris stella 2007年7月6日 (金) 19:27 (UTC)[返信]
追記)このコメント依頼の趣旨を記したトップの文章をよく読んでください。「……Miyaさんへの投稿ブロックの妥当性は、Wikipedia:コメント依頼/ちゃたま 20070624に分離しました。ここでは、Miyaさんの保護解除についての幅広い意見を求めます。」このように明言されていませんか? 即時ブロックの妥当性の話は別のコメント依頼で、このコメント依頼は、Miya 氏の保護解除というコマンドの使用の是非についての意見を求める、と述べられています。--Maris stella 2007年7月6日 (金) 19:51 (UTC)[返信]
管理者が「コミュニティの合意に基づくボタン押し」の役割に留まらず、管理者権限が必要な操作を裁量によって行使できる、行使したことだけによっては咎められない、ということは理解できます。それがたとえ、緊急性を伴わないないのに正式な手順を省いていたとしても、プロジェクトの害になっていなければ寛容に受け入れてもいいじゃないか、いう立場もアリだと思います。ですが、各利用者の一挙手一投足について、適切なアドバイス、異なった視点からの指摘、単なるイチャモンや個人攻撃を受けたりすること、そうした一種の煩わしさといえるようなことは、今までの貢献により信頼が厚い管理者や古参の利用者であっても新人利用者と同じようにあるでしょう。特定少数者によるコミュニティなら阿吽の呼吸でコメントするまでもない、とされていたことが規模が拡大されるにつれ、注視される機会が多い方に疑問の声が挙がることは増えておかしくない。
各種の手続きは、求められる情報の不備やお互いの認識の違いからの議論を繰り返す労力の軽減、品質のバラつきを抑えて円滑に進行させるためにある筈です。煩わしい手続きによってフレキシビリティやダイナミックさが失われるのではない、どっちにしろ身体が巨大になったら簡単に統制はできないんだ、と思います。(組織論としては古典的過ぎるかなぁ?)
今回の一連の管理者権限の行使についての正式手続きの省略を諌める声は、「推奨されない、疑いを持たれる行為」の幅を広げて管理者への負担を増そうとしているのではなく、むしろ「疑いを持たれる」ことを減らすためにはどうすればよいか、という提言であり、本質的な百科事典としての品質にマイナスにならない行動であったとしても、自分の振る舞いが多くの人に観られることで摩擦を生じえることに無頓着すぎやしませんか、という指摘だと私は解釈しています。各者多様な流儀を受け入れるとしても、慎重さを求める方も居ることも忘れないで、ということでしょうか--Puchi N 2007年7月2日 (月) 17:12 (UTC)[返信]
体勢の意見に特に違和感は感じなかったので、意見は控えておりましたが、別ページですが利用者‐会話:Miyaで管理者解任という話が出たので、それは違うかなと思い、コメントさせていただきます。Nekosuki600さんの意見の中には、参加者の増加に伴って内輪的なのりではもうだめで、疑わしいことはするなというものがありました。しかし、その通りだと思う反面、現在の管理者不足ということが各所で言われる状況では、管理者に対してもう少し寛容であるべきではないかな(すくなくても、こういう「”疑わしき”というのを理解していないから管理者をおりたほうがいい」というのは現実的にはコミュニティーにマイナスに働くかな)と思いました。一方で管理者の方にも、Nekosuki600さんの意見というのは再確認していただきたいとも思います。それで、たとえば今回のような「議論になった管理者の裁量行為」というようなページを作ってストアし、管理者には裁量行為を行う場合には注意をしていただくとし、一方で利用者は管理者に対して同じような問題行為に対しては、一度はコミュニティーのために許すというような態度が必要ではないかと思います。--Kwansai 2007年7月7日 (土) 03:10 (UTC)[返信]
念のためですが、Miyaさんが「何がどう問題とされているのか」を理解し、姿勢の見直しをするなら、問題は解消される可能性が高いと思います。しかしながら現時点では「何がどう問題とされているのか」の理解の時点ですでに暗礁に乗り上げているというのが、おれの認識です。ここで暗礁に乗り上げてしまったら、姿勢の見直しは無理だし、その先にある問題の解消はもっと無理ではないでしょうか。さほど難しい話をしているとは思わないのですが。
あと、おれは現時点では解任動議を出すことは考えていません。身の振り方については、「何がどう問題とされているのか」について考えた上でMiyaさんがお決めになればよろしいかと。ただ、考え方を根本的に見直さないと、また管理機能の行使に伴うトラブルは引き起こすんじゃないかなあとは思っていますね(そういうのが続くと、コミュニティにとっては負担だ)。--Nekosuki600 2007年7月7日 (土) 03:46 (UTC)[返信]
管理者は保護解除しなくても記事を編集できるはずなので、「編集したいから保護解除した」という主張は的外れであると感じます。ただし、Wikipedia:管理者#ページの保護の内容(「ライセンスや法律面から保護されているいくつかのページを編集することができます」としか書かれていない)からすれば、そうしたことは技術的には可能であっても倫理的に許されず、文字通りの「管理者権限の乱用」なのですが…。
また、サラ・ブライトマンの保護解除それ自体は問題なかったと思います。保護は解除の半年以上前であり、ノートで議論された形跡が全くないことからしても、これはWikipedia:保護の方針#保護を解除してもよい場合の5番目、「しばらくの間議論がない」に該当しそうですし、解除後の編集合戦が発生していない事実もこの考えを後押しします。さらに加えると、この記事が保護されたのは2006年10月31日であり、現在のような「期限付き保護」が存在しなかった時期の保護であったことも考慮に入れる必要があるものと思われます(Wikipedia:保護の方針#保護期間の設定方法参照)。
それに続く編集ですが、編集差分を見ると、スタイルの調整以外に一部記述のコメントアウトがなされています。スタイル編集については、タグを取るついでの作業と考えれば問題は全くないと感じます。問題があるとすれば、それはコメントアウトの妥当性であり、この点についてのみ議論をすれば良いのではないでしょうか?。ということで、新しい節「#コメントアウトの妥当性について」を作成しておきます。その他、このコメント依頼内で延々と続けられている議論と言うのは、別のコメント依頼を立ち上げ「一般論」として議論した方が話がまとまるものと思います(バイアスの混入を最小限にできるので)。それに、本来ここで求められるコメントは「#Miyaさんの保護解除の妥当性に関して」なのですから。Rigel 2007年7月7日 (土) 15:06 (UTC)[返信]
ああ、申しわけない。今気づいたんだが、「裁量による保護解除のみ」については、「それが不当であった」という指摘はいまだかつて出たことがないと思います。ここらへんは、問題提起者の書き込み不足ですね。
なので、「裁量による保護解除が管理権限の濫用か」という命題については、「それは、適正な保護解除であるとコミュニティが追認するものであれば、別段濫用とはならない」ということでいいと思います。ついでですが、いかなる管理行動であろうとも、たとえ事前に審議がなされていようとも、判断・管理行為に対してコミュニティが「それは違うだろーが」という異議を申し立てる可能性は、あります(たとえば、ある項目の削除について審議が行われ、ある管理者が「削除で合意形成」と判断して削除したとして、「まだ合意は形成されてねーだろーがよ」というツッコミがはいるなんてのが典型例)。
おれとしては別段責任追及をする気はないが、いろいろややこしい要素がからんでいる事例であったわりに、問題提起者の説明は不足しているところがいろいろありますので、そのあたりは議論で扱われたことなんかもひっくるめて補って読んでくれたまいです。--Nekosuki600 2007年7月7日 (土) 15:18 (UTC)[返信]
そのあたりは議論で扱われたことなんかもひっくるめて補って読んでくれたまいです。」などと言われましても、上でなされた議論のほとんどが、このコメント依頼、本来の趣旨から外れた事ばかり記述されているようにしか見えず、上記は「そうした事は別途コメント依頼を立て、筋道立てて行う方が効率が良いであろう」という意味の書き込みです。さらにそうした無駄に長い議論は、反論する弁明者に多大の負担をかけることになるのですが、それでもこのコメント依頼内でそうした議論を行う「必然性」があるのかどうかについても疑問を抱いています。たとえそれが必要な議論であったとしても、議論の場所は選ばれるべきでしょう。つまり、「議論が脱線している」という点では、分離された議論も上記も五十歩百歩であろうと考えています。もし私の発言位置がまずいのであれば、位置を修正して下さっても構いません。実際のところ、コメントする位置に困ったのです(あまりにも脱線状況が酷いので)。Rigel 2007年7月7日 (土) 16:15 (UTC)[返信]
議長権限を持ったひととかがいて議事進行をしてくれるのならばその方が効率的だなあと思うことは、おれもよくあります。しかしま、Wikipediaはそういう発想をしていないところなんで、「ブレストめいた混沌とした議論」から「それなりの合意形成」やら「結論」やらを目指さなければならないというのは、これはもう宿命です。そこに異議があっても、言うだけ無駄というか、だったら別システムを自分で立ち上げて管理機構を構成するとか、そういう選択肢しかないと思います。
でだ。確かに混沌としていてかなりひどいんだが、その中から「どうやって自分が本論だと思うものを本論であると思ってくれるひとを増やすか」とかいうあたりからやらなきゃならんのだ。それができない限り、Wikipediaで合意の形成を目指した議論はできない。それができないままに言い募れば議論破壊をやることにしかならない。
そういう話だと思いますよ。要は、ある意味「思想の自由市場」みたいなかなりの厳しさがあって、失敗したら退場を余儀なくされるような緊迫感があって、であるがゆえに「結果として良いものを生み出せるのではないか」と思える。そういう場なんだと思います。--Nekosuki600 2007年7月7日 (土) 16:25 (UTC)[返信]


すみません。動議なんですが

編集

Wiki ryon氏のこの議論についての参加姿勢に問題があると考えての、短期ブロックの動議です。こちらで行います→Wikipedia:コメント依頼/Miya 20070623/議論展開に関する動議。--Nekosuki600 2007年7月1日 (日) 09:44 (UTC)[返信]

量子力学のド素人ことryon 2007年7月1日 (日) 09:56 (UTC)の投稿は加筆して動議に移動しました。[返信]
ご自分の流儀に合わないからって、利用者‐会話:ちゃたま#miyaさんに対する即時ブロックについて。Wikipedia:投稿ブロック依頼/Kinoriのような強硬手段を安易に連発するのは、如何なものでしょうか。これは、脅迫行為ではないですか?どうやら、Nekosuki600氏は、Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Miya_20070623#ウィキペディアの基本方針で指摘したとおり管理強化主義者のようですね。--量子力学のド素人ことryon 2007年7月1日 (日) 10:10 (UTC)[返信]

コメントアウトの妥当性について

編集

Miya さんがコメントアウトしたのは「[[大韓航空機撃墜事件]]特集番組」の文字であり、「←はBGM程度? 掲載は公式に「テーマ曲」と認められているものだけにしてください」とその理由も付加されています。その点、要約欄の記述(様子見で保護解除。)はまずかったであろうと考えます。一方、ノート:サラ・ブライトマンを見ると、「東芝EMI担当者様よりinfo-jaチーム宛に…」との理由で、その同じ記述を除去したことについての説明がなされています。この間、時間にして22時間強であり、Miya さんの編集がそのメールに基づいたものである可能性を無視できないものと考えます。よって、そのコメントアウトの行為、そのものは問題が無い部類に属するであろうと推察します(まあ、この点は本人からの弁明を待てば明らかになるであろう事柄なんですけれども)。Rigel 2007年7月7日 (土) 15:06 (UTC)[返信]

すみませんねえ。この項を作ることに対して、強く反対します。
編集内容の評価という価値判断を介在させることが必須となる要素を繰り込むのは、問題を混迷させるのみでしょう。「是認する側」は「その編集内容には問題がなかった」と言えばよく、「否定する側」は「その編集内容は問題だった」と言えばいいのですから、永遠の水掛け論になるだけです。
ついでですが、Miyaさんは、とあるケースで(というかこのケースでなんだが)「改行を一発入れただけでも意味が正反対になる」という指摘あるいは釈明をしています。おれはそれは本筋とは無関係だと思うんですが、それはとにかく、なおさら「編集内容の評価」を反映させることは難しく無理があると思います。
というわけで、この項はこれで終了にしていただけるとありがたいなあ(続けるとしても、「内容に踏み込んで評価をすることが出来るのか」を先にかたづけてほしい)。--Nekosuki600 2007年7月7日 (土) 15:13 (UTC)[返信]
この項目の作成に反対されるということは、Miya さんの行動が問題であるかどうかをコメントする必要は無い、という意味でしょうか?。であるならば、このコメント依頼の内容に Miya さん本人が回答する義務も無くなり、「Miyaさんによる弁明」の節も不要になるものと思うのですが?。「Miyaさんによる弁明」の節を取り除くのであれば、「この項はこれで終了にしていただけるとありがたいなあ」との発言を否定することも拒否することも出来ない、とだけ言っておきます。とりあえず、私がこのコメント依頼に書き込むのはこれが最後です。後は Nekosuki600 さんご自身でよくお考え下さい。Rigel 2007年7月7日 (土) 16:15 (UTC)[返信]
しょーじき、何を言っているのだかわかりません。「Miyaさんの行動」は、問題視されています。どう問題視するかにおいて、価値判断を交えたら、価値判断部分からいくらでも逆算ができるので考察する意味がなくなる、と言っているのです。価値判断を交えるのならば、価値判断の部分について先にまとめよ、という課題を通じてあなたにとっての逃げ道も用意してあります。--Nekosuki600 2007年7月7日 (土) 16:19 (UTC)[返信]
でもって、これで最後にしていただけるのならば、それは歓迎します。まあ、あなたが出した課題については、おれも考えてみますよ(社交辞令だけど)。--Nekosuki600 2007年7月7日 (土) 16:20 (UTC)[返信]

コメントアウトに関してはRigelさんのお察しのとおりです。保護タグを除去するときに、もし「即時保護解除+同時編集」が非難される可能性があると認識していれば、要約欄またはコメントアウトに「Info-ja対応」と明記したでしょう。ですがこれまで「即時保護解除+同時編集」に関して問題になったことはなく、従ってそれが原則として避けるべきであるという議論もコンセンサスも(つまり「判例」にあたるものですね)無く、また「自分が議論や編集にかかわった項目には権限行使を行わない」という慣習にそむくものでもないため、そのまま保存いたしました。

ですが、Nekosuki600さんの問題提起は(今では)理解できますし、Info-jaがらみではないシェンムーでも私は「即時保護解除+同時編集」を行っているので、編集内容を切り離して「即時保護解除+同時編集」を考えることに異論ありません。それについては「弁明」のセクションに書かせていただきます。--miya 2007年7月8日 (日) 16:06 (UTC)オフトピ撤去miya 2007年7月21日 (土) 07:48 (UTC)[返信]

今更ですが少しだけコメントします。慣行としては存在していてこれまで異論も出ていなかった行為が今回は管理者権限濫用としててブロックの対象になった、という話のようなので誤解した方とされた方とについて白黒をつけるのは難しいように僕には思えました。原則論としては、誤解されないように事前の合意形成や事後説明をする方がよいと思います。Info-jaに来る依頼というのがどういうものなのかは僕はよくわかっていないかも知れませんが、そもそも何の説明もなしにこっそり修正をして欲しいなどという依頼があるとしたら、かえって事を大きくする可能性があるのでだめです、と断わることにしてはどうか、最低でもInfo-ja対応とか、非公開依頼対応というような断りを一言書ける仕組みの方がいいのではないかという気がします。(個人的には、Info-ja対応では何のことかわからない人が多いと思うので非公開依頼対応のようにより説明的な断り書きの方がよいのではないかと思います。)
説明しなくてもよい、という慣習に代えてできるだけ監視や検証がしやすいように情報を提供するという慣習ができることはよいことだろうと思います。また、そういう慣習があれば、管理者の信任に際しても「管理者が何をしているかは簡単に監視・検証できる」ということで信任がしやすくなるようにも思います。
ただ、ウィキペディアには、いいと思ったら誰かに許可を待つまでもなくとりあえずやってみるという実験精神や、官僚組織のように先例や規則にこだわるのはよくないと考える伝統もあるように思いますし、説明責任の強化が広く支持されるものなのかどうかについては僕はよくわかりません。
今はウィキペディアは大きくなったから、奔放さを抑えないと収拾がつかなくなる、というNekosuki600さんの論点はそれを支持すべきひとつの根拠にあたると思いますが、それについても、異論の余地がないわけではないように思いました。ウィキペディアがもっとずっと小さい規模であった時には、それこそリバートも稀で即時削除も導入されておらず、管理権限の行使について、裁量があればそれについて細かく説明をすることができたのですが、そういう時期に比べれば現在ではむしろ大きいがゆえに説明をしなくてもよいとされている部分も多くあるように思います。以前に比べれば悪戯も、悪質な荒らしも、判断の難しい案件も増え、それに比べると管理権限の行使が必要になる案件に関して合意のとりまとめや調査などをする人の数は伸びが鈍いような印象があるので、裁量を認め、あまりあれこれ要求しないという流れがあるのかなという感じもします。
それから、そういう原則論・一般論を離れて、この件について説明が不足していたことがどれだけ問題か、というと、被害が出たわけでもなく、悪意があったわけでもなく、重大な責任問題だという風には僕には思えませんでした。Tomos 2007年7月22日 (日) 11:31 (UTC)[返信]
今回の問題は、実は、Miyaさんの管理権限濫用の疑いの「前科」が何回かあることが本質にあると思います。
たしかに、今回の事に限れば、グレイゾーンで各利用者の見解は異なるでしょう。しかし、問題がある、管理者権限濫用じゃないのか?という見解を示した人たちは今回の一件だけでなく、これ以前の経緯もずっと見ているからこそ、こういうダウトというアウトプットを出したんでしょう。法廷を持ち出すのは微妙ですが、普段の素行というのも十分判断の基準になってきます。Miyaさんは、過去、楽天証券保護のときに、Miyaさんの編集を最後にSuisuiさんが1分後に保護したという事実があり、何度もこのアカウンタビリティを要求されているにも関わらず、その「百科事典の発展に寄与しない」という信条のためかなにかわかりませんが、まともな説明をしていません。さらに、[12]こういう件だとか、複数の「疑惑」があり、過去まともにアカウンタビリティを確保する、誤解をまねかないように説明を加えているなどとはとてもいえません。今回の件で、あらためて、そのように充分注意するとか結論づけても、またかよ、本当かよ?と思う人はそれなりにいるでしょう。だからこそ、今回のような「疑惑」がクローズアップされてしまうんですね。方針の理解不理解、コンセンサスとか議論する以前に、ご自身のいままでの行動様式の不信感が根本にあるのです。とりあえず、今回の声明が本心で事実であるというのであれば、とりあえずは上記2点、しっかり説明してください。--218.251.10.26 2007年7月28日 (土) 12:01 (UTC)場所違いのため移動-- 2007年7月28日 (土) 14:54 (UTC)[返信]

Miyaによる弁明

編集
「即時解除+同時編集」の是非

まず、私の行ったのは、「編集+即時保護」のようなー「明らかに不適切」とコンセンサスの確立している行為ではなかったことは認めてください。

「即時解除+同時編集」について、良いとも悪いとも、これまでは議論もコンセンサスもなかったと記憶しています。これについて、

  1. 問題ない 
  2. 要約欄できちんと説明があれば問題なかった 
  3. 李下に冠を正す行為 
  4. 権限濫用というべき 

など、様々なコメントをいただきました。「即時解除+同時編集」について、これほど様々な見方がありうると予期できなかったのは私の不明といわざるを得ませんし、予期できなかったことを責められるのはいたし方ありません(このポイントについては後ほど書きます)。

意見が分かれる原因は、Wikipedia:保護の方針の理解に温度差があるせいだと思います。

Wikipedia:保護の方針の精神

新しく来られた方はご存知ないかもしれませんが、保護解除は、本当は、編集合戦再燃の可能性が低くなり次第、行って良いことなのです。どうか、この機会にあらためてWikipedia:保護の方針をご覧ください。特に以下の部分、

>この機能は濫用すると誰でも自由に編集できるというウィキペディアの基本精神に反してしまいます。
>編集合戦が収まった場合も速やかに保護を解除すべきです。これは、保護が長期化するとページの編集や議論が滞るという問題点があるためです。
> 管理者は、自分が直接保護につながる行動に関わっているページについては保護しない。

そこには、「保護」に対する戒めはあっても、「保護解除」に対する戒めはありません。なぜなら、原則として「解除」はよいこと、プロジェクトの基本精神にかなうことだからです。Wikipedia:保護の方針#保護を解除してもよい場合にも

4. 争いの原因と思われた点について何か合意や見通しが立ったように見える場合
5. しばらくの間議論がない、仲裁の試みが進行中など、解除しても問題が再発しないのではないかと思われる場合

は、保護解除して良いこととされています。英語版にいたってはもっと簡潔に

>{{office}} または {{reset}} のタグが貼られているページを除き、管理者は誰でも、適当な期間が経過し、特にノートページになにも議論がない場合は保護を解除してかまいません。(Aotakeさんによる翻訳Wikipedia:保護の方針/英語版070619版による)

となっています。

「即時解除+同時編集」を「濫用」とされた方々は、管理権限の中で、上記のような「保護解除」の特異性をあまりご存知なかったのではないかと思います。--miya 2007年7月9日 (月) 07:38 (UTC)[返信]

結論

今回の件では、軋轢を生む可能性を予見できなかったことと、それを避けることが容易であったのに予見できなかったせいで騒ぎの原因になってしまったことに関しては、私に責任があります。この点について、コミュニティの皆様にお詫びいたします。

保護解除について「審議」することが「正規の手順」だという主張には同意しませんが、その底にある以下のようなご意見には同意いたします。

とりあえず「初期とはもうコミュニティの規模が全然違ってしまっているのだから、管理権限の行使は、透明性の確保などに力点を置いてやってくれ」と管理者に要求するくらいでいいのじゃないかと思う。(Nekosuki600さん 2007年7月4日 (水) 09:46 (UTC))
Miya 氏には、私的利用、または私的利用と見えるような使用については、責任が発生するという自覚がほしい訳で、それは他の管理者にも同様のことです。(Maris stellaさん 2007年7月4日 (水) 11:11 (UTC))

「私的利用」だけでなく「私的利用と見えるような使用」についても責任が発生するという自覚が足りなかったことに加え、方針や慣習について自分とは全く異なる受け取り方をするユーザーが少なからず存在しうるという認識に欠けていたと言わざるを得ません。コミュニティの規模が大きくなり、方針文書も格段に増えた現在では、初期のように「これは百科事典作りに寄与することか」だけを考えていれば済むわけではなくなっているのでしょう。

「透明性の確保」はアカウンタビリティの確保、あるいは、誤解を招かないように説明を加えること、と理解いたしました。適切な説明が適宜なされれば管理者権限行使を「私的利用」と誤解されることも避けられるでしょう。今後は、この点に充分注意して、管理者権限の行使で無用の軋轢を生まぬよう努力したいと思います。

最後に、コメントをお寄せいただいた皆様に感謝して弁明を終わります。--miya 2007年7月21日 (土) 07:32 (UTC)[返信]


分離された議論

編集
Miyaさんへのブロックに関して

これに関しては、新規コメント依頼、Wikipedia:コメント依頼/ちゃたま 20070624にて議論を行います。

分離以前

最初に行われた提案については、誤解を招くのを避けるため、Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Miya 20070623に分割しました。

報告・転記移動

User:Wiki ryon 氏の発言は、一人のみで膨大多数で、コメント依頼の見通しを悪くさせ、コメント依頼妨害となっているので、同氏のコメントの一部(大部分)及び関連コメントをサブページ「/W ryon」に転記・移動しました。同氏の議論について継続されたい方は、こちらのサブページで行ってください。なお、何を移動したかは、差分を見れば分かります(この差分で明瞭に分かりますので、コメント継続可能です)。--Maris stella 2007年7月1日 (日) 13:27 (UTC)[返信]

以上の転記・移動の後、User:Wiki ryon 氏は、自己の反論を残したいという理由で、恣意的に発言の削除や、余分な発言の更なる追加を行ったので、すべてリヴァートしました。移動先に、わたしや Nekosuki600 氏のコメントが、ここと重複してあるのは、話の連続性を維持するための配慮です(そのような配慮は無視されました)。それぞれのユーザーが述べた意見は、可能な限り残すべきという原則から整理を行いました。つまり、有意味なレス等が付いている Wiki ryon 氏の発言等は残したのです。Wiki ryon 氏の主張したいことは、移動先ページでの発言で十分に分かるのであり、このページにこれ以上の過剰な発言は不用です。自己の正当化主張ばかりに意識があり、他者の迷惑や、他者に対する礼儀の欠落を意に介さない態度は、糾弾されても致し方ないことであり、リヴァートされても何かを述べる余地もないでしょう。--Maris stella 2007年7月3日 (火) 12:39 (UTC)[返信]

関連するページ

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終了の提案

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最後のコメントから1ヶ月ほど経過しておりますので、3日ほど意見がなければ、こちらのコメント依頼は終了とします。何かある方はコメントの記入をお願いいたします。-- 2007年8月28日 (火) 15:50 (UTC)[返信]

コメントがありませんので、終了とします。-- 2007年9月5日 (水) 05:45 (UTC)[返信]