T・K式飛行機
T・K式飛行機(T・Kしきひこうき)は、福岡市の高校生らが主導する形で、前田航研工業で製作されていた軽飛行機。実機の完成には至っていない。名称はT・K式飛行機[1]の他に、T・K一号や[2][3]T.K.号とも呼ばれる[4]。
概要
編集1958年(昭和33年)10月頃、当時博多工業高等学校1年生だった木村嗣生は[4]、フランスの17歳少年によるヨーデル製キット機の製作・飛行を報じた『航空情報』の記事に触発されて軽飛行機の設計を始め[3][4]、1959年(昭和34年)2月には博多工高航空部顧問からの紹介を受け、3面図と性能計算を前田航研の前田健一所長のもとへ持ち込んだ[4]。その後、前田航研糸島工場での木村の下働きを経て[5]、木村が前田所長の指導を受ける形でT・K式飛行機の製作が開始された[2][3][5]。
福岡中央高等学校の前田隼(前田所長の3男)、修猷館高等学校の篠原洋三[2][3][6]、福岡商業高等学校の黒木一英、博多工高の行木徹らをメンバーに加えつつ[1][3][7]、製作費の捻出のため、前田所長と高校生たちは昭和十二年の生活
と表現される日常生活での節約を行いながら[2]、糸島工場で製作を進めた[1][2]。1961年(昭和36年)5月までに骨組が完成、胴体が板張りされるところまで進行したが[2][3][6][8]、同年春の木村の高校卒業・就職や[1][7]、同年秋に博多工高の文化祭での機体展示が中止させられたことなどの影響を受けて[7]以後の作業は停滞し、主翼リブまでで製作は終了した[1][7]。その後、製作途中の機体は前田航研で教材として用いられた[7]。
機体は桧材を用いた木製[6]骨組に羽布[9]およびベニヤ板張り[3]、片持ち式の[9]テーパー翼を主翼とする[1]低翼単葉機で、エンジンはフォルクスワーゲンのものを転用する予定だった[6]。製作費は17万円[2]。
なお、機体名にある「T・K」は、グライダーに関わる大学生などが集っていた当時の前田所長の周囲の様子を[2][4]「航空寺子屋」と例え、その「寺子屋」の頭文字から取られたものと説明されている[2]。
諸元
編集出典:「夢は大空 軽飛行機をつくる三高校生」 7面[2]、「ただ今飛行機製作中」 180頁[3]、「⑦ 軽飛行機製作記」[6]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 黒木一英. “空への想い”. 西日本航空協会. 2006年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月6日閲覧。
- 「夢は大空 軽飛行機をつくる三高校生 “戦後初”はボクらで 博工、中央、修猷の三君 修学旅行もやめ汗ダク」『フクニチ新聞』第5339号、フクニチ新聞社、1961年1月1日、日刊、7面。
- 「ただ今飛行機製作中 空飛ぶ五人の高校生の夢実現近し」『高校時代』第8巻第2号、旺文社、1961年、180頁、doi:10.11501/1750834、全国書誌番号:00007721。
- 木村嗣生 (2015年12月5日). “⑤ 飛行機への夢”. 技術屋の回顧譚 木村嗣生. 2024年8月6日閲覧。
- 木村嗣生 (2015年12月5日). “⑥ グライダー作りに丁稚奉公”. 技術屋の回顧譚 木村嗣生. 2024年8月6日閲覧。
- 木村嗣生 (2015年12月6日). “⑦ 軽飛行機製作記”. 技術屋の回顧譚 木村嗣生. 2024年8月6日閲覧。
- 木村嗣生 (2015年12月7日). “⑧ 次第に姿が現れて”. 技術屋の回顧譚 木村嗣生. 2024年8月6日閲覧。
- 木村嗣生 (2015年12月9日). “⑨ 次第に姿形が現れて Pt.2”. 技術屋の回顧譚 木村嗣生. 2024年8月6日閲覧。
- 木村嗣生 (2015年12月10日). “⑩ 軽飛行機 その後”. 技術屋の回顧譚 木村嗣生. 2024年8月6日閲覧。