OMONによるリトアニア国境検問所襲撃事件
複数回にわたるOMONによるリトアニア国境検問所襲撃はリトアニアが1990年3月11日にソビエト連邦(以下ソ連)から独立を宣言したことを発端とする、ソビエト連邦内務省の治安維持部隊であるOMONがリトアニアの国境検問所を襲撃した事件である。
リトアニア国境検問所への襲撃事件 | |||||||
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歌う革命、血の日曜日事件、ソビエト連邦の崩壊中 | |||||||
Medininkaiにて展示されている国境検問所,ここで7名の職員がソビエト連邦のOMONによって殺害された | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
被害者数 | |||||||
死者8 負傷者60名 | 死者1名 |
ソビエト構成国時代のリトアニアには国境警備隊が存在しなかった[注 1]。
独立を宣言したリトアニア共和国はリトアニア国境警備隊を組織しECによる国際承認の1991年8月を迎えた.[1]
しかし、ソビエト連邦はリトアニア共和国による国境警備隊の組織をよしとせず OMON (Special Purpose Police Unit) の兵士をリトアニア東部国境(特にベラルーシとの国境)に派遣した。 幾ばくかの武装していない国境警備隊の職員らや警察官らはOMONの兵士による攻撃を受け殺害された。車両は盗まれ、検問所は燃やされた。複数回にわたる襲撃により 60名の職員が負傷し、7名が死亡、23の検問所が破壊された。
脚注
編集注釈
編集- ^ リトアニア南部のポーランド人民共和国との国境線には、ソビエト連邦国家保安委員会(KGB)隷下のソ連国境軍が配備されていた。ただし、ソ連国境軍はあくまでもソビエト連邦の国境警備隊であり、リトアニア独自の国境警備隊ではない。また、西隣のロシア(カリーニングラード州)や北隣のラトビア、東隣のベラルーシとの境界線はあくまでもソビエト連邦構成共和国同士であったことから、国境警備隊は配置されていなかった。