マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟

一般社団法人マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟(マーシャルアーツにほんキックボクシングれんめい、Martial Arts Japan Kickboxing Federation)は、日本キックボクシング団体である。通称MAキックMA日本キックMAJKFMJKFMAKF等。代表は菅原忠幸(菅原道場)。

マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟
Martial Arts Japan Kickboxing Federation
略称 MA日本キック
設立 1985年
種類 キックボクシング団体
法人番号 3020005011104 ウィキデータを編集
法的地位 一般社団法人
目的 キックボクシングの試合主催
本部 神奈川県横浜市西区中央2丁目41-13シーエス横浜ビル
会長 村上竜司
ウェブサイト マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟
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コミッショナー

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歴史

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創設

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マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟(以下、MAキック)は、1985年に日本キックボクシング連盟(以降、日本キック)理事の石川勝将が、同団体から離脱する形で設立した。石川は、六本木において「朋昌」という会社を営んでいた実業家だった。日本キックを離脱した石川には、ニシカワジム所属の向山鉄也(ライト級王者)がついてきた。ただし、向山以外の他の王者は、東洋・日本を含めて誰もついてこなかった。石川と共に日本キックを離脱したジムには、目黒ジム・市原ジム・太田ジム・ニシカワジム・OGUNIジム・習志野ジム・君津ジムなどがあった。また、当時、日本キックの対立団体だった全日本マーシャルアーツ連盟(以下、全日本MA)は事実上の分裂をおこし、いくつか離脱ジムが出た。これらのジムもMAキックに合流した。AKIジム(全日本マーシャルアーツ連盟の実体であるオールジャパンプロモーションであり、勇気道(のちの新空手)総本部である正心館でもある)・ミツオカジム・不動館(新拳会)・山形垂石ジム・富士魅ジムなどである。また、AKIジムは全日本MAの実体であり核のような存在であったため、AKIジムを欠いた全日本マーシャルアーツ連盟はその後しばらくは継続したが、ほぼ活動不可能な状態に陥っていくことになる。MAキックは、最終的にさらに他のジムも新しく加盟させて、活動を開始した。そして、1985年5月17日後楽園ホールに初めて興行が行われた。この興行のメインイベントは、団体分裂のため、石川側から見て空位となった日本フェザー級王者決定戦だった。鹿島龍(目黒ジム)と青山隆(OGUNI)が対戦した。

当初の運営体制は、理事長は日本キックのときと同じく石川勝将が務めたが、それ以外の体制は完全に変えられた。運営や興行の主催をジム関係者にやらせないようにし、すべて自分の会社で石川の妻が社長を務める日豊企画に行わせた。ただし、1986年になると、ニシカワジム会長の西川純を連盟幹部役員に任命した。リングサイドには、リングアナウンサーとして三遊亭喜楽、衣笠真寿男、タイムキーパーには荒木栄、レフリーにはリーチャンゴンなど興行の試合進行を熟知しているベテラン陣が参加し、進行を進めていた。また、元Wコミックの井出亮やわずか2回だがサブリングアナウンサーとして三遊亭楽大(現在伊集院光)も興行の進行に参加をしていた。1986年5月に入ると、地上波のテレビ(テレビ東京)で試合の放送が開始された。同年10月24日には、小沢一郎をコミッショナーを任命した。そして翌1987年3月15日には、「内閣総理大臣杯」が賭けられた試合が行われた(鈴木秀男竹山晴友)。キックボクシング史上初であり、そして唯一の出来事であり、さらに日本政府が認めたことによってこの試合こそが正当な国内史上最高のカードである。

分裂し全日本キックボクシング連盟が設立

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1987年5月に、幹部だった西川純が叛乱をおこしたため、MAキックの日本王者全員と加盟ジムの多くが離脱し、新たな団体全日本キックボクシング連盟を設立した。MAキックから一瞬にして王者が全員いなくなり、新団体に流出してしまった。こうして、MAキックは分裂した。

1989年1月、日豊企画社員であり連盟事務局員として興行全般をとり行なってきた主力社員の退社により同社による興行の継続は実質不可能となった。

1989年1月14日の興行は士道館主体のものとなり、この興行を最後に、朋昌(すなわち石川と日豊企画)はキックボクシングから完全撤退した。そして当連盟は機能を完全に停止したのである。

トロイカ体制

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1989年7月から興行が再開された。

1990年代後半、藤本勲率いる目黒ジムや長江国政率いる治政館をはじめとするグループが遺恨・確執持って離脱し、伝統ある日本キックボクシング協会を復興させた旗揚げを成し遂げた。しかし、日本キックボクシング協会や目黒ジムの権利を主張する目黒ジム創立者野口との関係を切る為、新日本キックボクシング協会と組織変更した。同時に、目黒ジムは、藤本ジムと名前を変更した。

新たに理事長に就任した山木敏弘(元ウルフ隼人)はMAキックの興行で女子ボクシング開催を発案。1997年にシュガーみゆきが日本女子ボクシング初の世界王座に就く。女子ボクシング部門は翌年に日本女子ボクシング協会として独立。山木率いる山木ジムは2008年の日本ボクシングコミッション(JBC)女子解禁を控え、前々年の2006年にMA連盟を離脱し2007年末でキック廃業、のちに山木がJBCクラブオーナーライセンス取得し山木ボクシングジムとして東日本ボクシング協会に加盟している。

新日本キックとの数少ない交流が、97年K-1 JAPANフェザー級GPでMA代表佐藤堅一(士道館)が準決勝・初戦でヤマノウチスグル(伊原)破り決勝で惜敗し準優勝。

WBCムエタイ王座・ランキングの制定

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2009年、国内大手企業のスポンサードのもとで、WBCムエタイルールによるムエタイ日本国内王座決定トーナメント・国内ランキング戦が行われることとなった。ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッティ(JPMC)統括。参加団体はMAキックとニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)。WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメントは、2009年7月26日のNJKF興行からスタートし、半年間で全階級の初代日本王者が決定する。フライ級からウェルター級の8階級で実施し、それぞれの階級に4人の選手が出場する[1][2]

JMDへの参加

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2011年よりWBCムエタイと並行し世界プロムエタイ連盟(WPMF)日本支部を統括するジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ(JMD)に参加することになった[3]

分裂(ジャパン・キックボクシング・イノベーション)

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2013年3月31日を以って、士道館を破門された橋本道場師範の橋本敏彦理事長がMAキックの解散を発表し、橋本道場を含む橋本派27ジムが独立して新連盟「ジャパン・キックボクシング・イノベーション(Japan Kick Boxing Innovation)」を4月1日に設立する。MAキックに残る16ジムは士魂村上塾塾長・村上竜司を代表とし新生MAキックとして活動する。[4][5]

1999年8月創立以来、MAキックの下部組織だった日本アマチュアキックボクシング連盟も同下部組織に移管した。JPMCにはMAキック、JMDにはイノベーションがそれぞれ加盟する。

門戸開放(タイトル・ランキングのオープン化)

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2013年9月28日、MAキックは、加盟ジム以外へのタイトル・ランキングの門戸開放(オープン化)を発表する。同年11月4日後楽園ホール大会より、実施できる各階級からタイトルマッチ(王座決定戦)及びランキング戦を開始し、ベルトも新しく制作する。[6][7]

階級

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階級 重量区分
ヘビー級 〜86kg
ミドル級 〜73kg
スーパーウェルター級 〜70kg
ウェルター級 〜67kg
スーパーライト級 〜64kg
ライト級 〜62kg
スーパーフェザー級 〜60kg
フェザー級 〜58kg
スーパーバンタム級 〜56kg
バンタム級 〜54kg
スーパーフライ級 〜52kg
フライ級 〜50kg

主要選手

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出場経験のあるフリー選手

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ただし、士道館・真樹道場らの主催興行(格闘技の祭典など)では、プロレスなど他ジャンルから幅広い選手が出場した(大仁田厚ジャイアント馬場マイケル・ジャクソン(ただし実際には来場せず)、佐竹雅昭三沢光晴青柳館長アブドーラ・ザ・ブッチャーら)が、当欄ではそれらはすべて割愛した。

レフェリー

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リングアナウンサー

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かつてのリングアナウンサー

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世界マーシャルアーツ連盟(WMAF)

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世界マーシャルアーツ連盟(World Martial Arts Federation / WMAF)は、MAキックに所属するプロモーターとアメリカのプロモーターで創設した世界タイトルである。1998年にバンタム級とスーパーウェルター級でそれぞれ世界王者を輩出したが、両選手が引退したため、活動を休止した。その後、2005年7月の初代スーパーフェザー級王者決定戦で再度活動を開始した。のちに目的は他の団体との協力関係を構築することと、それぞれの階級に世界王者を誕生させることで選手のモチベーションをあげることとなった。

ビデオ

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クエストから多数発売されたが、それらはVHSビデオカセットである。

最初期の試合は、以下のDVDに収録されている。

  • 「サムライたちの宴(うたげ)」 - アッパー(キックボクサーの卵からゴング誌に就職し、独立した舟木昭太郎の会社)から発売されている。

2009以降の「BREAKシリーズ」は毎大会収録・販売されている。

脚注

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関連項目

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外部リンク

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